2019.12.01 公開

#21

「ほらほら、起きなさい!」
 ひどく懐かしい声が聞こえたような気がして、ホープは夢現のまま起き上がった。まぶたの向こう側が明るい。どうやら、誰かがカーテンを全開にしてしまったらしい。
「うーん。眩しいよ……」
「せっかくの休日を寝て過ごすだなんて勿体無いぞー! 起きろーッ、ホープ!」
「うわあっ!?」
 耳元で大声が聞こえて、ホープは慌てて飛び起きた。そんな彼を前に、声の主は腰に手を当てて呆れたように立っている。見慣れた薄手のニット。その下は白色のサブリナパンツ。
「酷いよ、母さん……」
 ホープの遺伝元であるプラチナブランドの髪を持った女性……ノラは、恨み言を口にするホープを前に一蹴してみせた。
「あら。せっかく母さんが腕によりをかけて作った朝食にも降りてこない息子よりは全然酷くないと思うわ」
 そう言われてしまうと、こちらの分が悪い。大体、この手の話でホープが生まれてこの方、ノラに勝てた試しはないのだ。
 ホープはのそのそとベッドから起き上がった。時計は八時を指している。少し遅めなのは、今日が休日だからだろう。スクールが休みの日は少しだけ寝坊が許される。……あくまで少しだけだけれども。
「スープを温め直しておくわね」
 そう言って部屋から出ていったノラを見送って、ホープは着替えに手を伸ばした。お気に入りの黄色のジャケットに、濃い緑色のズボン(ポケットがたくさん付いていて、その下から紐が伸びているものだ)に足を通す。慣れたものであっという間だ。
 元々寝起きのいいホープは、服を着替え終わる頃には大分覚醒していた。洗面台に寄って、顔を洗えばすっきりするだろう。部屋の扉を開けてリビングに進んでいくと、珍しく父の姿があることに気が付いた。
「あれ? 父さん、珍しいね」
 今日は完全にオフなのかカジュアルな格好をしている。コーヒーを片手にくつろいだ様子のバルトロメイは、いつもは厳格な表情を緩めてホープを見た。
「今日は休みだ」
「久しぶりじゃない?」
「いつもすまないな。……今日は、ホープの好きなところに連れて行こう」
「そういう意味じゃなくて。いつもあんなに働いてるんだから、父さんだって疲れが溜まってるでしょ?」
 違う意味で捉えたらしいバルトロメイに息を吐いて、ホープは顔を上げた。
「無理しなくていいよ。たまには家でゆっくりする日があってもいいんじゃない?」
「……だそうよ」
 ホープの言葉に続いたのはノラだった。その手には淹れたてのホットミルクが湯気を立てている。もちろんそれは、コーヒーの飲めないホープ用だ。
 見れば、テーブルの上にはノラが用意してくれたトーストにサラダ、スープが並んでいる。ノラとバルトロメイはすでに食べ終わってしまっているのか、テーブルの上には一人前しか乗っていなかった。
「たまには家族三人水入らずでゆっくりしましょうか」
 何もない一日だった。ただご飯を食べて、本を読んで、話をして、時々みんなでボードゲームをして。
 バルトロメイは研究職なだけあって、ボードゲームは強かった。普段やりなれているホープとノラの思っても見ないよう手を使って、鮮やかに一人勝ちしてしまったのだ。ムキになったのは思いがけずノラの方で、二度目の対戦もバルトロメイの勝利に終わった。
 ルールは単純なものだった。三色の駒を六芒星の先端部三角に布陣する。それらの駒を対面の位置に他のプレイヤーよりも早く到達させた人が勝者となるのだ。
 ターン制で、各ターンごとにプレイヤーは一回だけ駒を動かす権利を所有する。もちろんただ単純に駒を動かすだけではゲームは面白くならない。自分の駒の線上に相手、もしくは自分の駒があり、その先のマスが空いている場合に限り、飛び越すことができるのだ。
 その法則に則るのであれば、うまくやれば連続して何マスも進めることが出来る。ゲーム中盤になると、相手のプレイヤーの駒もまた六芒星の中央付近に展開されて混戦になるのだ。
 その中で如何に相手の動きを読み、ルートを構築していくのか。また、他のプレイヤーのルートを確立させないために妨害するのか。そういう先読みが必要となるゲームなのだが、これがまたバルトロメイは圧倒的なのだ。
「嘘っ、またあなたの勝ちだわ!」
「もう一回やろう。父さん、絶対手抜きはしないでよね」
 気が付けばホープもすっかりゲームにのめり込んでいた。二人よりも三人でやるゲームは、いつもより遥かに複雑で、新しい発見があった。
「この手のゲームは全体を俯瞰することが大切だ。目先のルートに囚われてしまうと、それ以外のルートが見えなくなってしまう」
 駒を動かしながら、バルトロメイは静かにそう口にした。
「ホープ、広い視野を持て。可能性は無限に広がっている。その中でおまえが一番だと思う道を見つけるんだ」
「僕が一番だと思う道……」
 バルトロメイの言葉を反芻するようにホープは盤面を見直した。自分の陣営だけでない。ノラとバルトロメイの布陣がどう動くか想像し、その流れに従って自分の道を作り上げていく。
 駒を動かす。道は一つきりじゃない。数多の可能性の中から、その時選べる最適の道を選び取っていく。
 気が付けば、ホープのすべての駒の移動が終わっていた。ノラも、バルトロメイでさえも移動は終わっていない。――ホープがゲームに勝ったのだ。
「勝った……」
 まさか勝てるとは思っていなかった。思わず目を丸くして顔を上げると、先程まで目の前に座っていたはずの両親の姿がない。
「父さん? 母さん……?」
 さっきまでそこで一緒にゲームをしていたはずなのに。二人は一体どこへ行ってしまったのだろう?
 ホープは立ち上がろうとした。不意に何かが落ちる音がして、ホープは釣られるようにして視線を落とした。足元には見慣れないカードキーが落ちている。
「これは……?」
 見覚えなんてないはずだ。少なくともこの家のカードキーではない。それなのに、拾い上げると不思議と手の中に馴染む感覚があった。
 誰かがホープにこれを手渡してくれた。何の前触れもなく情景が頭の中に浮かんできて、ホープは首を傾げた。
 それは一体誰だったのだろう? スクールの友達でも、はたまた親戚の誰かだったという訳でもない。では、見知らぬ他人だろうか? そんなはずはない。カードキーなんて大切なもの、おいそれと簡単に人に渡したりはしない……。
 ほとんど反射的にホープは立ち上がっていた。そうしなければと思ったのだ。
 玄関の扉を開いて、外へと飛び出す。パルムポルムは商業都市だ。ホープが住んでいる場所は閑静な住宅街ではあるものの、全く人がいないわけではない。
 そうだというのに、開いた扉の先は見事なまでに無人だった。人気のない、だけどよく知る街の風景。何かに導かれるようにホープは走り出していた。
『おまえはいつでもここに来てくれていい』
 誰かがそう口にして、ホープにカードキーを渡してくれた。照れくさそうに。恥ずかしそうに。……その家の鍵を手にした時、本当に嬉しかったのだ。
 足は自然とその方角へと向いていた。不思議なもので、体は覚えているものだ。進むにつれ、道に見覚えがあるような気がしてくる。多分、ホープは何度もその場所を行き来していたはずなのだ。いつしか道は、光の筋のようになってホープの前に浮かび上がっていた。
「帰らなきゃ」
 自然とそう口に出していた。
 温かで優しいその場所は、確かにとても居心地がいい。それでも雛は、いつか必ず巣立つ時がやってくる。
 雛もまた大人になるのだ。やがてつがいを得て、巣を作り、子を成す。そうして命は循環していく。
「家に帰らなきゃ」
 気が付いた時にはホープはすっかり大人の姿になっていた。もはや、帰るべき家はノラとバルトロメイのいたあの場所ではない。
 カードキーを握り締め、ホープはマンションの一角へとたどり着いていた。エレベーターを待つのさえももどかしく、階段を一段飛ばしに駆け上がっていく。ここまで全力疾走したためか、登っていくにも息が苦しい。それでもスピードを緩める気はなく、ホープは走り続ける。やがて六階という文字が見えてきた。
 そうしてホープは、見慣れたその扉の前に歩いて行った。カードキーをスロットに差し込めば、ピピッと音が鳴って、部屋のロックが外される。
 手が震えるのが分かった。その震えを抑えるようにして、深く息を吸い込む。そうして、一度だけたっぷりと吐いて、ホープは顔を上げた。
 帰る時の言葉は決まっている。
 ――それは、笑って口にするべき言葉なのだ。

「ホープ! ……ホープ!」
 あの人の声が聞こえる。
 ホープの耳に届いていなかっただけで、きっと何度も呼んでくれたのだろう。彼女の声は酷く掠れていた。
 すっかり重くなった瞼をなんとか持ち上げる。そうすれば、アイスブルーの瞳に大粒の涙を浮かべたあの人の顔が、思いがけず近くにあった。
 なんだか酷く、長い道のりを歩いてきた気分だ。ここまで帰ってくるのに……本当に、本当に時間がかかってしまった。だけど、ようやくこの場所までホープは帰ってきた。
「ただいま、エクレール」
 吐息のような声を漏らすと、彼女の瞳からぽろりと涙が転がり落ちる。
「おかえり……馬鹿ホープ」
 馬鹿は酷くないかな。そうやって少しだけ笑うと、彼女は今度こそ声を上げて泣いた。
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