2019.12.01 公開

#20

 ちゃりん、とリングが地面に落ちる音がした。そうして、彼が地面に崩れ落ちる音も。
「アハッ! アハハハハッ! やった! 僕はやった! やったんだッ!!」
 あの人じゃなかったけど! だけどッホープに刺せたッ! やった、やった、これであの男もおしまいだ。もうどうしようもないッ!
 アルフレッドはまるで歓喜に打ち震えるかのように高らかに声を上げる。その狂気に歪んだ顔を、寸分の狂いもなく打ち付けた拳がある。――それは、スノウの拳だった。
「あ、ぐッ……!!」
 パンッ、と激しい音と共に吹っ飛んだアルフレッドは、そのまま壁に打ち付けられると今度こそ沈黙をして床に突っ伏した。
「ホープッ!」
 ほとんど反射的にエクレールの体は動いていた。まるで糸の切れた人形のように崩れ落ちたホープの傍にしゃがみこむ。彼は、そのエメラルドグリーンの瞳でどこでもない場所を見つめていた。その瞳を真正面から覗き込んで、エクレールは必死で声を上げる。
「ホープ! お願いだ、こっちを見てくれ、ホープ……!!」
 ほんの一瞬の油断だった。
 ホープが贈ってくれたリングを取り戻したくて、エクレールが手を伸ばした瞬間の凶行。アルフレッドはホープに倒されたフリをしながら、ずっと反撃の機会を伺っていたに違いない。腐っても彼は元軍人で、けして油断してはならない相手だったのだ。
「ホープ、おいっ! ホープ!」
 スノウもまた、エクレール同様に呼びかけるようにホープの肩を抱く。しかし、体内にドラッグを入れてしまったホープが反応を返すことはなく、彼はただ虚空を見上げたまま沈黙しているだけだった。弛緩したその口元から、だらりと力なく涎が流れ落ちる。いつも身なりを整えていたホープからすれば考えられぬほどだらしのないその姿は、彼の意識がすでにこの場にないことを顕著に物語っていた。
「そんな……っ」
 この短期間に起こったあまりの出来事に、エクレールは呆然と立ち尽くすことしかできなかった。そもそも、エクレールがリングにさえ執着していなければホープは刺されなかった話なのだ。彼が口にしていたように、新しいものを作ると諦めさえすれば。そうすれば、一番大事なこの人が刺されることなんてなかった……。
「私のせいだ……」
 何より大切で、大好きで。彼を守れるならこの命さえ惜しくないと思っていた。
 同時にそれは、ホープにとっても同じことだったのだ。彼は一度、パルスでライトニングを失ってしまっている。その深い後悔が、自分の身を犠牲にしても守るという行動に繋がってしまったに違いなかった。
「くそっ! 俺たちじゃどうにもできねえ……。とにかく医者だ! 義姉さん、ホープを医者に見せないと!」
「アルフレッドはこの薬を打てば、廃人になると口にしていた。純度の高いドラッグなんだ。医者に診せる程度では……」
「諦めるっていうのかよ! やってみなけりゃ、結果なんて分かんねえだろ!?」
「だが、それでホープが戻ってこなかったら……そうしたら、私はどうしたら!」
 彼の未来を守りたいと思っていた。それなのに、守るはずの自分が守られて。挙句にホープが帰ってこなかったとしたら。そこまで想像して、エクレールはあまりの恐ろしさに震える体を抱きしめた。
 怖い。まるで自分が自分でなくなってしまうようだ。足元ががらがらとひび割れて、その間から深い闇がエクレールのことを飲み込もうとしているような錯覚にさえ至ってしまう。
「……それでもホープは。あいつは、義姉さんを探しに行ったぞ」
 声を発したのは、スノウだった。はっとしてエクレールは顔を上げる。
「義姉さんが死んだって聞かされても、パルスに希望を探しに行った。あいつはそこで絶望に遭ったんだ。だけど……二年という月日を越えて、もう一度義姉さんに会いに来た」
 ちぎれたマントを前に、ライトニングが死んだということを認めなければならなかった。二年前のその事実は、ホープにとってどれほどの苦しみを強いたのだろう。
 エクレールが初めてホープと出会った時のことを思い出す。まるで彼は小さなモーグリのようだった。大きくなった背丈を丸め、震えていたその背中に手を伸ばしたことを思い出す。
「……そう、だったな」
 スノウの言葉通りだった。……絶望の中で抗う希望。それこそ私たちの得意技だったのではないだろうか?
 ぐっと唇を噛み締めて、エクレールは顔を上げる。そうして握り締めた右手で、エクレールは自らの頬を強く打った。パアン、と乾いた音が狭い室内に響き渡る。
「ね、義姉さん?」
 呆気にとられて目を丸くするスノウを前に、エクレールは大きく息を吐いてみせる。
「……目が覚めた。すまなかったな、スノウ」
 ようやく私がすべきことが分かった。
 もはやエクレールの瞳に迷いはない。今やらなければならないこと。それはもう、はっきりとエクレールの目の前に浮かんでいる。
「ホープを連れて行く」
 唐突にホープを肩に乗せ始めたエクレールを前に、呆気にとられたのはスノウだった。
「義姉さん、何処へ!」
「……モーグリの里だ」
 ほとんど無意識にその名前を口にしていた。
「モーグリの里なら、ホープが治るかもしれない」
 二年前、エクレールは死の淵の中にいた。命の灯火が消える。あの時、自分でも確かにそう思ったのだ。だけどあの不思議で小さな妖精たちは、次々にエクレールにおまじないをかけてくれた。よく知りもしない見知らぬ人間のために、一生懸命彼らの持つ奇跡の欠片を与えてくれたのだ。だからこそ、エクレールは今ここにこうして立っている。
 あの奇跡の力ならば、もしかするとホープを救ってくれるかもしれない。モグは、おまじないには体力だけでなく精神をも正常に戻す作用があると口にしていたはずだ。
 ほとんど藁にもすがる思いだったが、正方法で治る見込みがないのであれば、妖精の力を頼るしか道はない。
「だったら俺も一緒に……」
「おまえは駄目だ。あの里には収まらない」
 ただでさえ無駄にでかいのだ。そもそも何もかもがモーグリサイズである里の中に二メートル級の大男を放り込んだら、どうなるかなんて簡単に想像が付く。
「それに……おまえにはこの大馬鹿野郎を頼みたい」
 エクレールは床に伸びているアルフレッドへと視線を向けた。ドラッグという禁忌に手を出してしまった彼は、ほんの二年前までは理想に燃える若き騎兵隊隊員だった。どうして彼がここまで道を踏み外してしまったのか、エクレールはその片鱗しか知らない。それまでの道のりはアルフレッドのもので、すべてを知った気になれるほどエクレールは傲慢にはなれないから。
「もう二度とこんなことを起こさせないために」
 アルフレッドが生んだものは悪魔の薬だ。一度手を出してしまうと、そのままドラッグの力に溺れて抜け出せなくなってしまう。弱い心なのだと一蹴してしまうことは容易いだろう。だけど、みんながみんな、強い訳じゃないことも知っている。そういう心を他でもない自分自身が教えてくれた。だからこそ、立ち上がる力をドラッグに頼っては駄目なのだ。
「こんなものは、あっちゃいけないんだ」
「……ああ、そうだな」
 エクレールの言葉に、スノウは大きく頷いて顔を上げた。
「ここは俺に任せてくれ! 義姉さんはホープを頼む」
 肩に乗っているホープの重みはずっしりと重い。かつて少年だった時とは比較にならないほどホープは大きくなった。
 早く正真正銘の『大人』になって、ライトさんを迎えに行きます。
 そう口にしていたように、大人になって……本当にエクレールのことを迎えに来てくれたのだ。
「今度は私がおまえを迎えに行く」
 ここではないどこかを見つめて沈黙しているホープに視線を向けて、エクレールは呟くように口にする。あの優しい声で、もう一度名前を呼んで欲しいから。
 唇に指を当てる。ピイーッという高い指笛が響き渡ると、何処からともなく足音が聞こえてきた。
「クエッ! クエ~~~~ッ!」
 黄金色に輝く毛並みのチョコボだ。この忠実な旅の連れは、テージンタワーの外で待機していたはずなのだが、こうしてエクレールたちの近くでその役目を果たす機会がないかと伺っていたに違いない。レンタルなのだとホープは口にしていたけれど、それでも旅の間中、足の悪いエクレールを守ってくれたチョコボはすっかり仲間だった。
「二人分で重いと思うが、お願いだ」
 そう口にするエクレールを前に、まるで「分かった」と口にするようにチョコボは「クエッ」と鳴いた。理知的な光を宿す黒い瞳が、ぐったりとしているホープへと向けられる。チョコボが足を畳むのを理解すると、エクレールはその背中の上に、慎重にホープを乗せた。
「頼むぜ、義姉さん!」
「ああ、行ってくる」
 ホープの体を押さえながら、エクレールは手網を引いた。少々コツが必要だが、ここ数日間乗り慣れた感覚は失われていない。チョコボに合図をすると「クエッ」とひと鳴きして、彼女はぐんぐんとスピードを上げていった。
「目指すのはアルカキルティ大平原だ。私たちが出会った場所まで頼む」
 思えば、この旅も随分な距離を進んだものだ。
 コクーンを臨む綿毛舞う丘。……子供を作るだなんて、今考えてみればずいぶんと大胆なことを口にしたものだ。当時は記憶がなかったからこそ、振り返ってみると気恥ずかしい。それでもホープが求めてくれたのは嬉しかった。彼に触れられてどきどきしたのを覚えている。
 豊かな水源を湛えたスーリヤ湖。二度目の悪夢を見たのはこの場所だった。その時は、どうしてこんなに不安になるのか分からなかったものだが、今にして思えば体のサインだったのだろう。ホープが迎えにきてくれたことで、エクレールの中で止まっていた時間が動き出したのだ。
 マハーバラ坑道。人工的に作られた大きな坑道の中に入った時、これから冒険が始まるのだとわくわくしたものだった。戦い方の基本をホープから教わったのもこの場所だ。護身術程度のことなのに、ホープはずっとエクレールの心配ばかりしていた。
 思えば、ホープには心配ばかりかけてしまっている。一緒になろうと約束したのに帰ってこれなくて。ようやく会えたと思ったら、記憶がなくなってしまっていて。分からないことばかりの癖に、妙なことを知りたがる。そんなエクレールにホープは辛抱強く付き合ってくれたというのに、テージンタワーで些細なすれ違いを起こして。逃げて。
 今はただ、虚空を見つめるエメラルドグリーンの瞳が悲しい。
「ホープ」
 彼の名前を呼ぶ。だけど、ホープのその瞳がエクレールを認識することはなく、彼はドラッグの与える幸福の世界の中でずっとまどろみ続けている。
 何度声をかけても、揺すってみても、エクレールの言葉は届かない。その度に胸が痛むことを理解しながら、それでもエクレールはホープの名前を呼ぶのを止めなかった。
「外の世界に出て、私は初めて肉を食べたんだ。……そもそも、好物だったわけなんだがな。それでも、食べた時はこんなにうまいものがあるのかと心底思った」
 同時にそれは、ホープの成長を意味することだった。かつてのパルスでは、基本的に料理人はサッズだった。ヴァニラもファングもそこそこの料理を作ることができたのだが、いかんせんパルス風の味付けは濃い。コクーン育ちの仲間たちの口には合わなかったのだ。
 当時は手伝い程度で満足な料理も作ることができなかった少年が、いつの間にか狩ってきた獲物を捌いて、自分ですべての料理をすることができるようになっていたというのだ。あんかけそばの時もそうだったのだが、彼の成長には驚くばかりだった。
「……ホープ、おまえの料理が食べたいよ」
 返事はない。だけど、エクレールは静かに語りかける。
「抱きしめたい」
 手を伸ばせば、その背中が案外広いということを知っている。顔を寄せれば、彼の心臓がどきどきと音を立てていたということも。
「それで……叶うことならキスしたい」
 エメラルドグリーンの瞳を優しく細めるその仕草が好きだった。見つめられると、どうしようもなく胸が高鳴った。口にするのは恥ずかしくてなかなかできなかったけれど、彼の些細な仕草で、何度どぎまぎさせられたことだろう。その度に自分ばかりがと拗ねたものだが、今にして思えば、ホープも案外可愛いところがあったように思う。
「仕事に出かけるおまえを見送る権利が欲しい」
 口にしながら想像する。同じ扉から出ていくホープの姿を。
 それはどれだけ幸福な光景なのだろう。
「いってらっしゃいと見送って……」
 だけど、ホープは返事を返さない。ただ虚ろな瞳で虚空を眺めたまま、頷くことさえできやしない。ほんの少し前まであんなに優しく笑っていたというのに、彼はもう表情一つさえも動かすことができなくなってしまった。
「……おかえりなさいって、笑い…たい……う、ううっ……!」
 泣くのは弱さだ。そんなものはいらない。
「……っ、く、……ぁ、っああ……!」
 そうやって、少女だった頃のエクレールは己の殻を脱ぎ捨てた。
 捨てたはずだった。弱い自分なんて。必要ない。そうやって捨て置いたことで、強くなったつもりになっていた。なのに、今更帰ってきて。私を追いやって。そうやって出来上がったまっさらな真新しいエクレールは、再びホープに出会って恋をした。
 彼のことが、誰より一番大切になっていたのだ。
「返事をしてくれ……。私の声に、応えて、くれ……っ」
 ぼろぼろと大粒の涙が風に攫われて流れていく。誰に届かない声を上げながら、エクレールは物言わぬホープの体を掻き抱いた。……近くて、遠い。それがこんなにも苦しいことだなんて知らなかった。
「……愛してるんだ」
 その言葉は、自然とエクレールの口から零れ落ちていた。
「ホープ、おまえのことを愛しているんだ……っ!」
 今ならはっきりと口にして言える。
 これがおとぎ話なら、お姫様は王子様の愛の言葉に眠りから目を覚ますところだろう。だけど現実は、そんな都合良くはいかない。ホープは目を覚まさないままだし、勝手に症状が良くなることだって有り得ない。
 恥ずかしくて今の今まで言えなかった言葉。ようやく発せたその言葉も、相手に届かなければまるで意味がないのだ。
 エクレールは乱暴に目元を擦った。嘆いても、叫んでも、誰かが助けてくれるわけじゃない。ホープを助けられるのは、この世界にただ一人、エクレールしかいないのだ。夜通し走り続けて、白み始めた空を睨みつけるようにしてエクレールは顔を上げる。
 ――アルカキルティ大平原。ロングイエリア。
 ライトニングとして事が起こったすべての始まりの場所で、同時に、エクレールにとっては旅の始まりでもあった場所。深い亀裂の先には、底が見えないほど深く切り立った崖がある。
「ここまで頑張ってくれてありがとう。……これが最後のひと踏ん張りだ」
 夜を徹して走り続けたためか、チョコボの息はすっかり上がっている。追い立てようとする魔物さえも振り払い、ここまで全力疾走を続けてきたのだ。彼女はここまで本当によくやってくれた。
 首を撫でるエクレールに応えるように「クエッ」とチョコボが声を上げる。エクレールが望んでいることを、彼女は正確に理解してくれているらしい。
「行くぞ!」
 エクレールは強く手網を握り締めた。そのまま崖に向かってラストスパートをかけていく。
 チョコボは真っ直ぐに駆ける。右へ、左へ、大きく足を動かして、やがて――…。
 朝日と共に黄金色の羽が輝いた。崖の中に向かって、大地を駆ける黄金の鳥が緩やかに下降していく。
「頑張ってくれ……!」
 とは言え、崖はかなりの高さがある。人二人分となると、チョコボとしてはすでに重量オーバーだ。おまけに夜通し走り続けて、疲れだって溜まっている。次第に羽ばたきが弱くなるチョコボを励ますようにエクレールは声を上げる。
 あと少し……あと少しで崖下までたどり着ける……!
 がくんと大きく体が揺れるのが分かった。チョコボの羽ばたきが弱まって、そのまま重力に引き寄せられていっているのだ。
「クエッ、クエエ~~~ッ!」
 チョコボが高い嘶きを上げる。最後の力を必死になって振り絞るものの、満足に羽ばたけていない。このままでは地面に叩きつけられる――そう思われたギリギリの瞬間だった。
 パチン、とエクレールは指を弾く。
 その瞬間、ぶわっと小さな重力場が形成されるのが分かった。エクレールとホープ、そしてチョコボが地面にぶつかるすれすれのところを、まるでクッションのようになって、落下の衝撃を和らげたのだ。
 バチッと音を立てて指先が煙を上げたのが分かった。そもそも一人用のもので無理やり三人分の地場をこしらえたのだ。重量オーバーで故障するのは目に見えていた。
「壊れてしまったか」
 一度ならず、二度も崖からエクレールから救ったのは、グラビティ=ギア。聖府軍時代から世話になったチップが燃え尽きるのを見つめて、ライトニングは魔法のいばらを前に立ち上がった。
「……帰ってきたぞ」
 旅の始点。モーグリの里は、もうエクレールの目と鼻の先だった。
BACK     NEXT