2019.12.01 公開

#19

 頭の奥が鈍く痛むのが分かった。
 ……何か夢を見ていたような気がする。多分、とても大切な夢。朧げに霞む光景を思い起こそうと、エクレールは瞼を押し上げた。そうして、目の前に広がっているのがエクレールにとって見慣れぬ風景であることに気が付く。
「ここは……?」
 窓から差し込む光は今が昼間だということを教えてくれていたものの、それを差し引いても全体的に薄ら暗い。朽ちた金属でできた建物の中には古びた机に椅子、それから本棚が据え置かれている。他に壁飾りに外套掛け。一通り視線を向けてから、エクレールは机の上に自分のナイフが置いてあることに気が付いた。
 どうやらここは、古い倉庫のような場所を再利用して誰かが使っているようだった。
「っ!?」
 なんとなく不安になってリングに手を伸ばそうとする。そうしてエクレールは、自らの腕を動かすことができないことに気がついた。慌てて顔を上げれば、両手は縄できつく縛り上げられ、ベッドの柱にしっかりと固定されている。よくよく見れば、自分の服まで変わっているではないか。
 エクレールの格好は見慣れた服ではなくて真っ白な品のいいミニドレスに変わっていた。正面は膝上程度のスカート丈になっていて、後ろはたっぷりとしたフリルに覆われているというデザインだ。こんな上等な生地は今まで見たことがなく、状況さえ違っていたら見惚れてしまうほど美しいドレスだった。
「一体どうなってるの……?」
 そこまで呟いてから、意識を失う直前のことを思い出す。発作的に宿屋から飛び出したエクレールは、昨日リングを拾ってくれたフレッドと名乗る青年と出会った。彼に誘われるままに赤い花が咲き乱れる花畑まで連れてこられたはずだ。フレッドに話を聞いてもらっているうちに、次第に意識がぼんやりとしてきて――…そこまで思い出して、エクレールははっと顔を上げた。そうだ。話をしているうちに、まるでホープが悪者のような錯覚を受けてしまったのだ。それはフレッドによる誘導だったのだと理解したところで、意識は途切れている。
 フレッド……いや、アルフレッドは一体何の目的があって、エクレールにあのようなことをしたのだろう? 彼がエクレールの部下だった? それはライトニングとの関係性を指しているのだろうか。そもそも、自分はなぜ縛られている? 誰かここに人はいないのだろうか?
 現在の状況を把握するには、あまりにも情報が散らばりすぎている。ともかく、この縄を何とかしなければ身動きすらままならない。体を捩って縄を解こうと試みてみる。随分と固く結ばれているのか、ちょっとやそっとではびくともしそうになかった。
「お目覚めのようですね」
 聞き覚えのある声が聞こえて、エクレールは慌てて顔を向けた。視線を向けたその先には、灰色の瞳を持った青年――アルフレッドが見慣れぬ白衣を着て立っている。
「アルフレッド! これはどういう……」
「あなたにはその純白のドレスが似合うと思ったんです。僕の見立て通りでした」
 エクレールの声などまるで聞こえていないかのようにアルフレッドはにっこりと破顔した。その場違いなまでに不自然な笑顔に、ぞくりとする。エクレールは恐怖を振り払うように大きく首を振った。
「時間が圧していますから、手短にお話しましょう。あなたは僕の手によって囚われの身になりました。ホープにはすでに連絡済です。人をやりましたから、まもなく彼はあなたを救いにここまでやってくるでしょう」
「ぜんっぜん意味分からないわ!」
「案外理解が遅いですね。要はあなたは人質になったってことですよ」
 人質。その言葉から察するに、アルフレッドはエクレールを材料に、これからやってくるであろうホープに取引を持ちかけようとしているのだ。現れたホープの名前にエクレールはほとんど反射的に声を荒らげていた。
「ホープは関係ないはずよ」
 彼と別れることになったテージンタワーでのやり取りを思い出す。ライトニングと呼び間違えられたことが耐え難くて、エクレールはホープの前から逃げ出してしまったのだ。
 きっかけとしてはあまりに些細な出来事だった。しかし、その時のエクレールにはどうしても我慢ならなかったのだ。エクレールはエクレールであって、ライトニングではない。今の自分を失ってしまうのではないかという恐怖に駆られてライトニングを拒絶して、挙句ホープからも逃げ出してしまった。彼はいつだってエクレールの身を案じ、心を砕いてくれていたというのにだ。
 だからこそエクレールの勝手を押し付けるわけにはいかなかった。唇を噛み締めるエクレールとは裏腹に、アルフレッドの表情はあくまで涼しげだ。
「愚問ですね。あなたが囚われていると分かって、ホープが動かない訳ないでしょう」
 彼の言葉はもっともだった。エクレールを優先するあまり自分のことさえ疎かになりがちなホープが、囚われの身になったエクレールのことを放っておけるはずがない。そんなことは誰よりもエクレール自身がよく分かっている。
「そんな……」
 テージンタワーで出会った時とはまるで別人のような冷たい眼差しをして、アルフレッドはエクレールのことを見下ろしている。これまで優しげに見えていたあの風貌は、彼の擬態だったと言うのだろうか?
 不意に、テージンタワーに到着したばかりのホープが口にしていた言葉を思い出す。
 人間はモグやエクレールさんのように誰しもが素直というわけではありません。人のいい笑顔の下で息を吐くように嘘をつくような輩もいますから。だからエクレールさんは気を付けてくださいね。
 ホープの言う通りだった。アルフレッドの優しい言葉に簡単に騙されて、付いていって。挙句ホープに迷惑をかける自分は一体どれほど愚かだったのだろう。彼の忠告をもっと真摯に受け止めていれば良かった。そうすれば、こんなことにはならなかっただろうに。
 愕然としてエクレールはアルフレッドを見上げた。彼はただ、灰色の瞳で静かにエクレールのことを見下ろしている。その手の中に筒に針をつけたようなものが収まっていることに気がついたのは、まもなくのことだった。
「これは注射器ですよ」
 一般的には採血……血液の検査をする時に、腕などに刺して血を採取する時に使いますね。エクレールの視線がそちらに向いたことに気がついたのだろう。アルフレッドは恍惚の眼差しで、手の中の注射器を見つめてみせた。
「でもこれは違います。僕の最高傑作が詰まっているんです」
 血を抜くために利用すると言われた注射器の中は、一見透明な液体で満たされているように見える。思わずエクレールはオウム返しに彼の言葉を反芻していた。
「……最高傑作?」
「ええ。エクレールさんもここに来るまでに、赤い花を見たでしょう?」
 素晴らしい花です。花畑程度では効果は薄いのですが、あれからは生き物の脳に幸福を与える物質が作れます。僕はパルスに降りてからというもの、長らくこの研究をしてきました。
 そこまで口にして、アルフレッドはうっとりと溜息を吐いた。
「初期のものは、せいぜい煙草の中に含ませて吸引する程度でした。しかし、試作を繰り返して完成したこれは違います。直接体内に取り込むことで、桁違いの幸福が味わえる」
 辛いこと、苦しかったこと。そういった現実のしがらみから解放されて、心地よさだけに包まれるのです。
「中でもこれはとりわけ純度が高い。一度打てば、それだけで天国へ行けるでしょう」
 そこまで口にして、彼はにいいっと口元を三日月の形に歪めてみせた。
「代わりに人間を辞めることになりますけどね」
 絶対の幸福と引き換えに、思考することや行動すること、人間として持ちうる機能が失われるというのだ。ただ横になっているだけで無限の幸福が続いていく。それは彼が語った通り、文字通り人間を辞めるという行為に等しい。
「……そんなものは幸福だなんて言えないわ」
 ほとんど反射的にエクレールはそう口にしていた。
 エクレールがモーグリの里から出て、まだたったの数日しか経っていない。だけど、その短い期間には多くの発見や驚きがあった。魔物と戦おうとした。ホープと出会った。倒した獲物から獲った肉を初めて口にした。見たこともない大きな湖だって見た。戦い方を知った。二人で見上げたクリスタルの大樹。その枝の上に巣を作っていたつがいの鳥と雛。人間もまた、つがいという特別な存在を作るということ。旅する中でエクレールは多くのものに触れ、知っていった。
 何もかもがエクレールにとって心地の良かったものだったわけではない。
 例えば、恋。エクレールはそれをホープに教えてもらった。
 そうして知ったのだ。恋することは何も楽しいことばかりじゃなくて、苦しくて痛いという側面も持っているということを。
 かつてホープのつがいだったというライトニング。彼女の面影を見つける度に、今の自分と比べてしまって息が詰まった。ホープのことは大好きなのに、彼のことを想うと時々苦しくなる。そうだというのに、傍にいるとほっとする。もっと一緒にいたいと思う。これを矛盾と言わずに、何と言うのだろう。
「確かに苦しい事や悲しい事もあるわ。だけど……だからこそ、嬉しかった事や楽しかった事を感じることができるはず。そういう感情の何もかもを失ってしまっていいと、私はけして思わない!」
 この胸の苦しみは私だけのものだ。ホープのことを大切に想う気持ちも。愛おしく思う気持ちも。それを失ってしまったら、きっと私は私でなくなってしまう。
 声を荒げるエクレールを前に、アルフレッドはせせら嗤った。
「あなたは本当の地獄を知らないからそんなことが言えるのでしょう」
 それに、とアルフレッドは言葉を続ける。
「いくら口ではそう言っても、今、この場において主導権は僕が握っています。あなたが
いくら持論をかざそうが、僕の意思一つでこれを打ってしまうことができるんですよ……?」
 こうすれば、あなたは僕の語る幸福へ加わる一人となる。
「……っ!」
 鋭利な注射針の先端が、剥き出しのエクレールの腕に近づいていく。ほとんど反射的にエクレールは体を強ばらせた。逃れようと身を捩りたいのに、身動きすら満足に取れない。
「約束通り一人で来ました。……エクレールさんを開放してください」
 よく通るその声が耳に届いたのは、エクレールの肌の上に針の先端が触れるか触れないかといったギリギリの距離まで迫ったその時だった。
 反射的に顔を向ける。そうすれば、視線の先に見覚えのあるエメラルドグリーンの瞳を持った青年の姿が映し出されたのが分かった。
「これはこれは、ようこそホープ・エストハイム! このようなあばら家ですが、是非ともくつろいでいって貰いたいですね」
 エクレールを覗き込んでいたアルフレッドが、まるで役者のように大げさに手を振って視線を向ける。ホープは一人きりではなかった。いかにもな風貌の黒いサングラスをかけた男と二人、開け放たれたシャッターの前に立っている。
「おまえはもういい。下がれ」
「はい」
 アルフレッドの手の内の者で、ホープをここまでの案内をしてきたのだろう。ここに来るまでに武器は取り上げられてしまったのか、サングラスの男の手にはブレイズエッジの鞘が握られている。アルフレッドの言葉に頷いて、男が部屋を出ていくのが分かった。
「ホープ! どうしてここまで……」
 罠に違いないのに。そう言葉を続けたエクレールを前に、ホープがふっと目を細めてみせる。まるで安心した、とでも言いたげに。
「あなたが無事で良かった」
「そんなのどうだっていい! 今すぐ逃げないと……っ」
 声を荒げるエクレールとは対照的に、ホープは緩く首を振った。まるでエクレールの言葉を否定するかのように。そうして彼は、真っ直ぐに顔を上げてみせたのだ。
「もう一度言います。エクレールさんは無関係だ。今すぐ開放してください」
「無関係! ハハッ、これは傑作だ! 君はまだ僕の顔を思い出せないのかい?」
「顔……?」
 そこまで口にしてから、ホープは彼の顔に心当たりがあることに気が付いたのだろう。
「おまえ、まさか……アルフレッド・ベリオ?」
 信じられない、といったようにホープがアルフレッドの顔を見つめている。その視線を真正面から受けて、アルフレッドは満足そうに口元を緩めた。
「ようやく思い出してくれたようですね。かつてファロン隊の隊員だったアルフレッド・ベリオです。……これでも彼女が僕にとって無関係とでも?」
「目的はなんですか。彼女はあなたにとって、命の恩人でしょう」
 あなたがやっていることの意味が分かっているんですか。低く唸るようなホープとは対照的に、くすくすとアルフレッドは楽しそうだ。
「そう。彼女は身を呈して僕の命を救ってくれた。それって、僕にその身を捧げてくれたと思えません?」
「……何が言いたい」
「僕はね、彼女が死んだことになってから随分酷い目に遭いました。そうして、ようやくパルスで居場所を見つけたんです。僕が作った可愛いドラッグ。あらゆることを実現してくれた」
 ギルも、女も、僕を馬鹿にした人たちも! 何もかもが思いのままだ!
 そう口にして手を振り上げたアルフレッドは、くるりと振り返ってエクレールを見下ろす。
「そんな時に、僕を地獄に叩き落としたきっかけの二人が現れた……」
 手の届かない相手なのだと諦めるしかなかった。美しくて、気高い、まるで女神のような存在だとさえ思っていた。なのに婚約者なんて作って。僕を裏切って。挙句に死んでからは婚約者がアルフレッドを劣等感まみれにする。こんな出口のない生き地獄に落とされたというのに、当の本人たちはなに食わぬ顔でテージンタワーを歩いていたというのだ。
「復讐するしかない。そう思ったんです」
 ギシッとベッドが軋む音がする。そうエクレールが認識した時には、すでに黒い影が落ちていた。
「やめろ! 彼女は僕と交換のはずだ!」
「おっと、動かないでくださいね。妙な真似をすれば、愛しいこの人が廃人になりますよ?」
 アルフレッドは手の中で注射器を弄ぶ。それは、先ほどエクレールに説明してみせた透明な液体に満たされた注射器だった。彼の最高傑作が詰まっているというそれ。先端をエクレールの首筋に近づけながら、アルフレッドはエクレールの耳にかぶりついた。
「っあ!?」
 甘噛みなんてものじゃない。それは、まるでエクレールの耳を噛みちぎるかのようだった。突然襲われた激痛にほとんど反射的に瞼を閉じる。ぬるりとした感触が耳の中に侵入してきたことを理解して、エクレールの喉からは悲鳴のような声が迸った。
「なに、を……った……!」
 噛み付かれた傷口を、アルフレッドが舌先でわざと押し広げているのだ。湿った息とぴちゃぴちゃと響く水音、それから生暖かい軟体動物のような舌の感触。血の匂い。それらが耳の中を支配していて、あまりの気持ちの悪さにエクレールは呻き声を上げた。
「……っい、や!」
 振り払いたくて体を捩ろうとするのに縄で満足に抵抗することすらままならず、その上アルフレッドに押さえつけらてしまった。ぎしり、と生々しくベッドのスプリングが軋む音が響く。
「あなたはその特等席でじっくりと見ていてください」
 顔を上げたアルフレッドが、目を細めて背後へと視線を向ける。その先には、激しい怒りに顔を歪めるホープの姿があった。
「――愛しい愛しい彼女が他の男に犯されるのを、ね」
「そんなことをして、彼女の気持ちを手に入れられるとでも思っているのか」
「アハハッ、僕を誰だと思っているんですか! そんなものは、ドラッグでどうにでもできるんですよ!」
 心底楽しくて仕方がないといった風に、アルフレッドは口を開く。その表情は極上の愉悦で満たされていた。アルフレッドを劣等感まみれにしたその元凶であるエクレールとホープを弄び、二人を引き裂くことが楽しくて仕方がないといった具合だ。
「……下衆が」
「負け犬の遠吠えにしか聞こえませんね」
 なんて心地が良いんでしょう。ずっと征服したいと思っていたんです。それをこんな形で実現させてくれたあなたたちに感謝さえしますよ!
 アルフレッドは高らかにそう口にすると、今度はエクレールの首筋に噛み付いた。
「っ!」
 再び走った激痛に、エクレールの背中がしなる。痛みを堪えるように目を瞑るエクレールの首筋に歯を立てながら、アルフレッドは順番に唇を滑らせていった。
 首筋から鎖骨へ、鎖骨から露出している肌の上へ。彼が触れる度に、エクレールの白い肌の上には無残な歯型が残されていった。深く噛み付かれた箇所は、血さえ滲んですらいる。
「お願い、やめて……!」
 エクレールの懇願も彼には届かない。それどころか彼は、エクレールが身に纏っているドレスに手を掛けようとしているのだ。アルフレッドの長い指先がドレスを掴み、まるで花を毟るかのようにドレスを引き下ろした。
「……っ!」
 胸元が外気に晒される。そうして顕になったエクレールの上半身を、アルフレッドはまるで吟味するかのように見下ろしていた。
「やだ……いやだ……っ」
 アルフレッドが胸元に顔を寄せる。片方の手で、鷲掴むように胸を握り潰された。彼の指の力で胸がひしゃげるのが分かる。愛撫というよりも、乱暴に捏ねくり回されるかのような感触。ねぶるように唇で触れられれば、ぞわりと全身が粟立つのが分かる。
 それは、綿毛舞う丘でホープに触れられた時とはまるで違う感触だった。
 ホープに触れられた場所は、まるで魔法をかけられたかのように体にじんわりと熱が灯っていったものだった。熱くて、もどかしくて、体の芯の部分がじんじんとするような感覚があって。彼に触れられるのは、恥ずかしいけど……でも、不思議と気持ちがいい。優しいのにどこか激しい。そういう激情をぶつけられるのは、けして嫌ではなかったのだ。それどころか、このまま知らない場所まで行ってしまいたいような、そんな心地になるような触れ方だった。
 ――だけど今、エクレールに触れているこの手は違う。
 まるで全身に何か知らない生き物が這いずり回っているかのようだ。彼以外の視線でエクレールの秘められていた場所は露にされて、彼以外の手で触れられ、唇を寄せられる。それはエクレールにとって吐き気がしそうなほどの嫌悪感を抱く行為だった。
 逃れようと身を捻れば捻るほどに、腕の縄は食い込んでいってエクレールを締め付ける。まるで逃げることは許さないとでも伝えるかのようだ。
「ホープ……ホープッ!」
 ほとんど涙声になって、エクレールは自然とホープを求めていた。すぐそこにいるはずなのに、この距離が信じられないほど遠い。
 私が触れられたいのはあなただけなのに。
 そうだというのに、全く違う男がエクレールのドレスをかき分けて、あろう事か足を持ち上げようとしている。そこから先は――確か、ホープの言葉が正しいのであれば、雛を作る行為だったのではないだろうか?
「いやあっ! ホープ!」
 つがいになって子供を作る。その相手はホープでしか考えられなかった。このまま行けば、訳も分からないまま、大好きな人の前で別の人の子供を孕ませられる。そんな考えが頭をよぎって、エクレールはほとんど半狂乱になった。
「ねえ、ホープ。分かりますか?」
 エクレールの足を片手で持ち上げたまま、アルフレッドは恍惚の表情で彼女を見下ろしていた。
「あの『麗しき軍神』とさえ呼ばれた女が、こうしてなす術もなく、いいようにされているんです」
 気高いあの人がこんな風に、涙に濡れて助けを求めている。僕がここまで堕としたんです! こうなってしまっては彼女もただの女ッ! アハッ! アハハハハ!
 僕を裏切るからこうなるんだ。他に婚約者なんて作るから。挙句に僕を守って、勝手に死んで! 僕は一人ぼっちになった。誰も助けてくれなかったんだ。誰も、誰も!
 その上ホープは僕を劣等感まみれにした。おまえは自分が歩いている道端の雑草なんて気にもとめなかっただろう? その傲慢さの報いを思い知ればいい!
 そこまで口にして振り返ったアルフレッドは、期待通りの光景にますます笑みを深めた。ホープは強く唇を噛み締めていた。その手は握り締め続けたためか、血すら滴り落ちている。彼は憎悪に燃える瞳で、ただ静かにアルフレッドのことを見ていた。
「ふふ、嫉妬に狂った男ほど怖いものはありませんね。ですが……僕の手にはドラッグがあることをお忘れなく」
 手の中の注射器を弄びながら、アルフレッドは余裕の表情だった。
「それさえなければ、おまえがどうなるかは知らない」
「ええ、これさえなければ、ね! フフッ、アハハハッ!」
「ねえ、ライトニングさん。どんな心地ですか? 愛した男と違う男に犯される気持ちは。怖い? それとも……気持ち悪い?」
 人を狂わせる悪魔の代物だ。アルフレッドは楽しくて仕方ないかのように瞳を細めて笑っている。その灰色の瞳が――何かと重なるような、そんな感覚があった。
『気持ち悪い』
 夢の中でライトニングのことを蔑んでいた少年。彼は少年ではなく、その真実はプラチナブロンドの髪を持った灰色の瞳の青年だった。
 霞のかかっていた視界がクリアになっていくような。そんな奇妙な感覚があった。
 高台の上を登っていったライトニングが、青年に――アルフレッドに語りかけている。彼女は目にかけていた彼の言葉に深く傷つき、自らの判断を悔やんでいた。
 もう子供だなんて見たりしない。二年前の三月十四日にホープにリングを渡されて、ライトニングはそう思ったのだ。一人の人間として接しよう。彼のことをどう思っているのか、自分の気持ちと向き合おう。そうしてライトニングは、ホープとリングを交換した。
 だけど、その行為自体が若い彼の将来に影を落としてしまう可能性に繋がることを、その時のライトニングは気が付いていなかったのだ。
 コクーンの中で生きていく。その選択肢をホープが選んだ時点で、コクーンの法律はあくまで彼を縛るだろう。変革期の中にあるということは知っていた。今後のコクーンがどうなるか分からないということも。そんなものどうだっていいと蹴散らすことだってできたのだ。だけど、頑張っているホープを見ていると、私のせいでいらぬ苦労なんてかけたくなかった。
 ……ああ。ああ。今更のように、ライトニングの想いが溢れてくる。
 大切だった。誰よりも大好きだった。大好きだから、彼のすべてを守りたかったのだ。
 誰かを否定したかったわけじゃない。ただ、愛する人を守りたかった。
 だから、あの時ライトニングはブレイズエッジを振るったのだ。目的に向かって進むその背中の傷害は――私が取り除く。
『前だけ見てろ。背中は守る』
 分かっていた。それが彼の姿によく似た別の人だったということは。それでも、体は動いていたのだ。あの後ろ姿を見てしまったら、どうしようもなかった。
 そうして、崖から落ちた先で魔物と出会って、ライトニングは自分の不手際を知った。このまま死んでしまうのだろうか。パルスの暗がりの中で一人、ホープと結ばれることもなく。次第に意識が薄らいでいくことが分かる。溢れた涙と一緒に、ライトニングが最後に願ったのは――もしも、生まれ変わってまた会えたのなら。そんな、子供じみた馬鹿げた願い。
「私は……」
 一筋の涙が、頬を伝って流れ落ちるのが分かった。そうだ。……そういうことだったのだ。
「僕にもっとその顔を見せてください。あなたのその泣き顔を!」
 涙を零すエクレールを前に、まるで死肉を食らうハイエナのような形相でアルフレッドが覗き込んでくる。それは、まさに期待に輝く醜悪な表情だった。人はここまで道を踏み外せるのか。エクレールは静かに目を伏せ、そして。
 アルフレッドの顔面めがけて、勢いよく唾を吐いてみせた。
「ッ!!?」
 思ってもみなかった突然の反撃に、アルフレッドが目を白黒させる。困惑するアルフレッドを前に、ベッドに縛り付けられたまま、エクレールは彼を睨み上げた。
「何がホープのせいだ」
 アルフレッドの言葉は、自分勝手な暴論だ。それはあくまで彼にとっての主観でしかあり得ない。
「おまえのそれは、自分ができなかったことを他人のせいにして喚いているだけだ」
 自分のことさえ始末の取れない子供と同じだ。自分が無力であると思い込んで、悲劇ぶって。そうやって手にした刃を、誰かに振りかざしているに過ぎない。
 一度口にすると、段々怒りが込み上げてきた。きっかけは確かにホープと仲違いしたに過ぎなかった。だけど、そこにつけ込んでくるアルフレッドのやり方自体が、そもそも弱者のそれなのだ。
「大切なものだったら、自分の力で掴み取りに行け。それができもしないなら、アルフレッド……それは、おまえにとって本当に大切なものではなかったということだ」
「それを……あなたが」
 伏せていたアルフレッドが勢いよく顔を上げる。その灰色の瞳に宿っているのは憎悪の炎だ。
「あなたが言うのかッ!!」
 怒りに任せてぶつけられる言葉を、まるで迎え撃つかのようにエクレールは腹から声を発してみせる。
「ああ、言うさ! どんなに親しい相手でも、所詮は他人だ。言葉にしなければ伝わらない。勇気を出して一歩を踏み出さないと、何も始まりはしないんだ。そんな当たり前のことから逃げて、自ら袋小路にはまったおまえにはいっそ手ぬるいほどだ!」
「今更偉そうに! 今のあなたの立場で、そんなことが言えると……」
 まるで自分の立場を誇示するようにアルフレッドはエクレールの足を掴む。そして彼は、何かに気がついたように動きを止めて、ゆっくりとエクレールを見下ろした。
「……まさか、ライトニングさん。あなた、記憶が……?」
 呆然として見下ろすアルフレッドを前に、エクレールはフンと鼻を鳴らして唇を開く。
「簡単なことだ。……それは、最初から私の中にあったものなんだ」
 ライトニングもエクレールも、私の中の側面に過ぎない。なあ、そうだろう? 語りかけるかのようにして、エクレールは彼に顔を向けた。
「ホープ」
 ひゅっと短く空を切る音が響く。そう認識した次の瞬間には、ホープの回し蹴りが決まっている。腹からまともに食らったアルフレッドは、その勢いでベッドから押し出され、勢いよく壁に叩きつけられた。
「いい蹴りじゃないか」
「……エクレールさんほどじゃありませんよ」
「それは褒め言葉になっていない」
 ため息をついて、エクレールは縄に視線を向けた。その意味するところを即座に理解して、ホープは机の上のナイフを手に取った。意識を失う前、エクレールが持っていたお守りのナイフだ。縄が切り落とされてエクレールの体に自由が戻ってくる。ドレスの乱れも直しておいた。
「何の物音だ!」
 流石にこの騒ぎは異常だと判断されてしまったらしい。部屋の外で控えていたサングラス男と、その仲間らしい男たちが部屋の中に雪崩込んでくる。その手の中にはスタンガンにハンドガン、刃物と実に物騒だ。構え方から察するに、相手もまた素人ではなさそうだ。
 対するこちらはナイフ一本のホープと丸腰のエクレールの二人だ。格闘術の覚えがはあるが、流石にこの人数を相手に武器なしでは厳しい。とは言え、やるしかないならやるだけだ。
 構えの姿勢を取ったエクレールの目の前を、サングラス男が綺麗な弧を描いて吹っ飛んでいった。そのまま壁に打ち付けられて、彼はずるずると落ちていく。
「な、なんだおまえは!」
「ひいっ! で、でけえ!」
 悲鳴のような声が上がる中で、一人の大男が姿を現わす。
「……そんなの決まってるだろ」
 巨大な影に慄いた男が、また一人吹っ飛ばされる。流れるような動きで落ちていたブレイズエッジを放り投げて、その男はニヒッと笑った。長いコートがばさりと揺れる。
「ヒーロー参上! ……ってちょっと遅かったか?」
「いや、ナイスタイミングだよ。スノウ」
 ブレイズエッジを受け取ったホープが、知己の登場に顔を綻ばせる。そうして彼は手にしたブレイズエッジをエクレールに差し出した。
「ずっとお借りしていました。ようやく、お返しできますね」
「……いいのか」
 尋ねるエクレールを前に、ホープはナイフを掲げてみせる。
「その代わり、こちらをお借りします」
「分かった」
 やりとりはそれで十分だった。それぞれ離れてはいたけれど、パルスを旅した経験は骨身に染み込んでいる。まるでそうであることが当たり前かのように、呼吸は合っていた。
「おりゃああ!」
 壁になって突進していくスノウ。その巨体の下から、飛び出してくるようにエクレールがブレイズエッジを振るう。まるで電光石火の早業だ。『麗しき軍神』とさえ恐れられた彼女の針の穴を通すような正確で的確な剣さばきで、次々に男たちは倒れていく。
 ホープだって負けてはいない。ナイフで相手の武器の動きを止めると、そのまま体術で彼らを吹き飛ばしていく。
 もはやルシではないとは言え、何度も修羅場をくぐり抜けてきた三人に敵うものはなく、アルフレッドの仲間たちはあっという間に蹴散らされた。全員仲良く地面にキスをしているという有様だ。
「どうやってここに来たんだ」
 アルフレッドもけして馬鹿ではない。ホープをここへ連れてくるまでに武器も奪っていたし、場所が割ることを防ぐために目隠しの一つくらいはしていただろう。コミュニケーターの類も使えなかったはずだ。そもそも、ネオ・ボーダムにいるはずのスノウがここにいるというのがまずおかしい。
「そりゃあ、モグのおかげだぜ」
 対するスノウはあっけらかんとしたものだった。
「テージンタワーから全力で飛んできてくれたんだろうな。ネオ・ボーダムに到着すると同時にひっくり返っちまったから、セラが看病してる。それにしても「ホープとエクレールが大変だから助けてくれ」って言われた時は流石に驚いたぜ」
 休暇の最後の方でホープが来るとは聞いていたけどよ。死んだはずの義姉さんまでついてくるなんて思ってねえからな。
『場所に関しては、私が微力ながらお手伝いさせて頂きました』
 スノウに続いた声は、思いがけず低いところから発せられた。視線を下ろす。そうすれば、真紅の筐体を持った小さなロボットが地面を滑るように移動してくるのが分かった。
「バクティ!」
 目を見張るエクレールを前に、バクティは続けて音声を発する。
『見ての通り、私はロボットです。気付かれないようにホープさんの位置をスノウさんに送信する役目を仰せつかったのです』
「そういうわけだ。GPSで場所さえ分かっちまえば、こっちのもんだ。バイクを吹っ飛ばして来た」
 そう言って笑うスノウを前に、ホープがくすりと相好を崩す。
「連絡もなくごめん。色々あって控えてたんだ。だけど、助かったよ」
「そうだな。今回はお手柄だ」
「久しぶりに会ったっていうのに、義姉さん、それかあ?」
「おまえ相手にはこれくらいが丁度いいさ」
「ひっでえ!」
 そう口にしながらも、スノウは楽しそうだった。腕を組むエクレールもまた、まんざらではなさそうだ。
「セラにも会いに行かないとな」
 きっと心配している。続いたエクレールの言葉に、スノウは大きく頷いた。
「おう。「本当は私が行きたい」って言ってたからよ。あと「絶対連れてきて」って言われてる」
 その場面は簡単に想像できた。セラはしっかり旦那を尻に敷いているらしい。
「うちのガキにも会ってやって欲しいんだ。もうすぐ二歳なんだぜ? あと、次の子も男の子だ!」
「次の子って……まさか」
「そのまさかですよ。セラさんは今、第二子を妊娠中です」
「そうだったのか……」
 エクレールがモーグリの里で二年間という時を過ごしている間に、色々と状況は変わっているらしい。呟くようにそう口にして、ライトニングは視線をスノウからホープに移した。
「スノウはともかく、ホープがこんなに立派になったくらいだ。……時の流れは早いな」
「立派かどうかは分かりませんが、十八歳になりました」
 定義上は成人になったんです。そう口にするホープが酷く眩しく見えて、エクレールはリングに手を伸ばそうとした。そして、慣れたその感触がないことに気が付く。
「リングがない」
 はっとして自分の格好を見下ろす。アルフレッドの趣味で勝手にドレスに着せ替えられた時に、リングを取られてしまったのだろうか。
「なくしちまったのか?」
 リング、という言葉が示す意味は流石にスノウも分かるらしい。眉根を寄せた彼を前に「ここに連れてこられる前には持っていたはずなんだ」とエクレールは呟いた。
「でしたら新しいのを作ればいいことです。……僕たちはまた会えたんですから」
「だが……」
 ホープはそう言ってくれたものの、あれは二年前のホープの大切な想いが詰まっているものだ。何より、リングがあったからエクレールは旅に出たいと思えるようになった。簡単に諦めてしまいたくない。
 ドレスに着せ替えた時、横恋慕していたアルフレッドがリングを奪ったのではないだろうか。不意にその考えが浮かんで、エクレールはアルフレッドに視線を向けた。ホープの蹴りによって完全に沈んでいるらしい彼の白衣のポケットから、チェーンのようなものが飛び出している。
「あった!」
 エクレールの推測は当たりだったらしい。顔を綻ばせてエクレールはアルフレッドに近づいた。白衣のポケットから飛び出しているリングを手に取ろうとした、その瞬間。
「危ない、エクレールさんっ!」
 不意に名前を呼ばれて、突き飛ばされる。
 何が起こったのか、その時エクレールは理解できなかった。
 倒れていると思われていたアルフレッドが起き上がっている。彼の手の中には、注射器があって。そうしてアルフレッドは、ホープの首筋に――その注射針を突き刺したのだった。
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