2019.07.14 公開

#17

 はじめてその人を見た時、なんて気高く美しい人なのだろうと思った。
 騎兵隊の麗しき軍神。エクレール・ファロン大尉は、隊の中でそう呼ばれていると知ったのは、彼女のことを調べ始めてまもなくのことだった。
 彼女の姿は騎兵隊の公開演習の中で偶然見かけたに過ぎなかったのだが、その鮮やかな立ち振る舞い、まるで踊るように振るわれるブレイズエッジ捌きは、一瞬の内に彼の心を虜にした。
 彼女のことをもっと近くで見ていたい。そう思うようになる頃には、ファロン大尉はすっかり彼にとっての憧れの人になっていて、彼の進路はアカデミーではなく騎兵隊に傾いていた。
 まもなく彼――アルフレッド・ベリオはスクールを優秀な成績で卒業後、騎兵隊に入隊することになる。誰もが新設されたばかりのアカデミーに入るとばかり思っていたため、騎兵隊に入隊する旨を話すと驚かれたものだった。とは言え、騎兵隊もアカデミーもコクーンの将来を担っていく重要な組織であることには違いない。至って善良な一般家庭だったベリオ家の両親は、当初はアルフレッドの身を案じて反対したものの、最終的に彼の熱意に折れてくれた。そうしてアルフレッドは、憧れのファロン大尉が在籍する騎兵隊に入隊したのだ。
 身体能力が抜きん出ていたわけではなかったが、彼には粘り強い辛抱強さがあった。何より、ファロン大尉という目標があったことが大きかった。
 気高く美しいファロン大尉。彼女は驚くべきことに、かつてパルスのルシとして聖府軍に追われる身にあったという。元は警備軍の一介の軍曹でしかなかった彼女は、コクーンの敵として追われながら、ファルシの支配体制に疑問を抱いた。人間はファルシに飼われているのではないか――…その結論に辿り着いた彼女は、のちにクリスタルの女神となった仲間たちと共にファルシ=エデンを破壊したのだ。
 当時は彼女らの行動は悪の化身とさえ呼ばれ、コクーン市民から憎悪を向けられる対象であったが、まもなく聖府が行ったパージの実態がマスコミによって明らかになった。
 異跡が発見されたことによりパルスの魔力に汚染されたとみなされ、パルスへの強制隔離されたはずの人々が、パージは無差別大量殺処分であったことを暴露したのだ。
 世論は揺れた。それこそ大きく。
 当然と言えば当然な話だった。パージを実施された当時、ボーダムは年に一度の花火大会で、コクーン各地から多くの人々を募っていた。ボーダムの近隣住民のみならず、偶然たまたま居合わせたに過ぎない人々もまた聖府軍の殺処分対象だったというのだ。
 対下界のスペシャリストとは言え、市民を守るのがPSICOMなのではないか。そこに現れたのが騎兵隊だ。故シド・レインズが統括した騎兵隊は、早くに聖府軍の不穏な行動を掴み、独自の行動を行ったという。
 PSICOMはファルシの言いなりだった。言われるがままに、ファルシ=エデンの決定に従い、無実の人々の命を奪っていった。人間に加護を与えているとまで言われていたファルシは、あくまで己の都合に合わせた行動をしていたに過ぎなかったことが明るみになったのだ。
 真実がコクーンに浸透するに従って、世間の評価が逆転した存在こそがルシだった。コクーンすべてを敵に回し、精鋭たちと言われたPSICOMさえ掻い潜ったのちの女神たち。エクレール・ファロン大尉の圧倒的な強さは、まさに神話のようなエピソードに裏打ちされた力だったのだ。
 世間に公表されているのは、あくまでその身を呈してクリスタルとなった二人の女神の名前のみだが、当時作戦行動を共にしていた騎兵隊の人間は、ルシが二人だけでなかったことを証言している。やはり騎兵隊に入ったことはアルフレッドにとっては間違いではなかったのだ。
 エクレール・ファロンはルシだった。そして、憎まれ役を演じながらもファルシ=エデンの討伐を行った。一目見て惹かれた彼女の輝きは本物で、彼女のことを調べれば調べるほどに逸話が飛び出してくる。
 アルフレッドの中で、彼女の存在が神格化するまでにさほど時間はかからなかった。
 今日の昼食は食堂のカルボナーラだった。憂い顔でフォークを口に運ぶその姿も美しい。抜きん出た彼女の美貌は騎兵隊の中でもひときわ異彩で、隊内でも好意を抱く者は多かった。
 エクレールに見惚れるアルフレッドのことを「高嶺の花だ」と先輩たちは嗜めたが、それでもアルフレッドは良かったのだ。彼女のことをもっともっと理解してみせる。家族との関係。その生い立ち。調べても調べても、彼女への興味が尽きることがない。彼女のことを調べることはアルフレッドにとっては当然のことで、新たなことを知る度に幸福感を覚えたものだった。
 これは愛なのだ。アルフレッドが気がつくまでに、そう時間はかからなかった。
 あの人の功績に不釣合いな自分は遠くから眺めることしかできないけれど、彼女を見つめているだけで幸せになれる。世界で一番彼女のことを理解している男は、自分しかいないのだ。
 彼女の隣を歩く自分の姿を妄想する。それはとてもこそばゆくて、夢のように楽しい時間だった。騎兵隊の訓練は、元はただの学生に過ぎなかったアルフレッドにとって厳しいものではあったものの、彼女のおかげでけして辛くはなかったのだ。何より、コクーンの未来を担っているという自負が、アルフレッドを前向きにさせた。
 ルシと騎兵隊の協力によって、ファルシ=エデンは倒された。それまでの価値観はひっくり返り、人類は新たなステージに移ることを余儀なくされた。自らの意思で考えて行動する新たな時代が始まったのだ。
 これからの時代を、彼女と共にこの場所で切り拓いて行く。それはどれほど気高くて素晴らしい共同作業なのだろうか!
 騎兵隊でのアルフレッドも順風満帆。スクールで優秀な成績を収めていたことを認められて、次のパルス行きの際にはファロン隊に編入することが決まっていた。憧れ続けていた彼女の近くに行ける。アルフレッドの幸福は高まる一方だった。
 寝る間を惜しんで詰め込める限りの知識を詰め込み、アルフレッドはパルスに挑んだ。彼女の前で初めて知識を披露できた時にはどうしようもなく嬉しかった。一介の隊員に過ぎないアルフレッドのことを、彼女は認めてくれたのだ!
 その幸福は、先輩隊員の言葉によって脆くも崩れ去ることになる。
「だが、憧れるのもほどほどにしておけよ。あの方はすでに先約済みたいだからな」
「先約済?」
 一体何のことだろう。ファロン隊に編入することが決まってからというもの、自分を高めることに精一杯だったアルフレッドは、彼女に費やす時間が以前に比べて減っていた。
「ああ。なんでも、今回のパルムポルム滞在から帰ってきたら、婚約指輪を付けてたらしい。おかげで隊の連中は大荒れよ」
 上官とどうにかなりたいって思う奴の気は知らねえが、まあ、ライトニングがいい女っていうのは分かるからなあ。がはは、と豪快に笑う先輩隊員を前に、アルフレッドはぽかんと大口を開けるしかなかった。
「こんやくゆびわ……」
 その言葉を反芻する。婚約する。誰が、誰と。そもそも彼女は、男性に対してほとんど興味を持っていなかったのでは? 呆然としてつぶやいた言葉は、自分でもなんだか泣きそうな声音だった。そんなアルフレッドの背中を、先輩隊員がばしんと軽く叩いてみせる。
「あんたの気持ちが分かるやつがここにはごまんといるさ。まあ、仲良くやっていこうや」
 分かるものか。自分以上に彼女の気持ちを理解する人間がこの世界に存在しているというものか。こみ上げてくる気持ちをぶつけたくとも、先輩隊員の一回り以上大きな図体を前に声がすくんだ。短くない軍隊生活は、先輩と後輩という立ち位置を明確にアルフレッドの体に刻んでいたのだ。
 女神にも等しいあの人は不可侵であるべきなのに。誰の手にも届かないからこその高嶺の花だというのに。アルフレッドの目を欺いて彼女を誑かしたのはどこの馬の骨だ。
 彼女の左手の薬指にリングを嵌めた相手を恨みがましく思う反面、内弁慶なアルフレッドがそれを口にすることは叶わない。騎兵隊という組織はその性質上、武闘派な人間が多数揃っていて、アルフレッドの腕前では太刀打ちできない相手があまりにも多すぎるからだ。
 彼女が暫くの間、ほとんど仕事漬けだったということは分かっている。出会いらしい出会いはなかったに違いない。婚約という関係性を結ぶとなると、必然的に接点の多い騎兵隊内部と考えるのが自然となる。
 例えば、彼女と接点が多い……事実上司令官の権限を持っているリグディなんて怪しいのではないだろうか。武術も超一流、頭だってよくキレる。早速アルフレッド程度では手が届かない雲の上の存在ではないか。
 そこまで考えてアルフレッドは呻いた。相手によってはほとんど打つ手などないに等しいのではないか。しかし、アルフレッドの予想に反して、彼女の想い人は思いがけない形で判明することになる。
 振り返って考えてみても、あの日が多分、アルフレッドにとって運命の分かれ目だった。まるで坂を転がり落ちるかのように、あの日からすべての出来事が変わり始めたのだ。
 よく晴れた、見通しの良い高台の上から見つけてしまった『トラペゾヘドロン』。任務の要となる貴重な素材を手に入れようと、シャオロングイの巣に入ったアルフレッドを庇って、彼女は古代魔法の直撃を受けてしまったのだ。
 シャオロングイの圧倒的な力に、アルフレッドは成す術もなかった。大人しいと思われていた亀の最強たる一面を見せつけられて、どうにも動けなかったのだ。命からがら逃げだし、ようやくキャンプで事情を話せるようになった段になって、恐ろしいことが起こってしまったことを理解するという有様だった。
 おまえはじっとしていろ。隊長を探してくる。先輩隊員たちの行動は素早かった。アルフレッドからシャオロングイが現れた地点を聞き出すと、おのおの武装を整えて、まるで矢のように飛んでいく。アルフレッドの応急処置を行う者や隊長である彼女を探し出そうとする者たちで、キャンプは一時騒然となった。
 ファロン隊の結束は凄まじかった。それでも、どうしても彼女の姿を見つけられない。苦肉の末、重傷を負っていたアルフレッドとその付き添いだけをコクーンに帰し、通信機で本部と連絡を取ったのである。
 そしてアルフレッドはホープ・エストハイムと出会った。ライトニング――エクレール・ファロンである彼女よりも、一目見てはっきりとそうであると分かる年下の婚約者と。
 はじめは何故、彼女の関係者ばかりが集まっている場所にいるのだろうと思った。彼女の身内は、三つ年の離れた妹であるセラ・ファロンだけのはずだ。男性の身内はいなかったという事実を踏まえて考えると、片方の大柄の男性は十八の頃に結婚したというセラの旦那であると考えるのが自然だった。
 なら、仲のいい従兄弟か。あるいは、あまり似てはいないがセラの旦那の血縁かもしれない。その時点でのアルフレッドは混乱の最中にあって、深く思考を巡らせることができなかったのだ。
 女神のように崇拝していた存在を目の前で失って、正気でいられる訳がない。全身怪我だらけで重い体を引きずりながら、せめて遺された家族に真実を伝えることだけが贖罪なのだと、アルフレッドは自らに言い聞かせることしかできなかった。
 ライトニングさんは命をかけて救ってくれた。
 こんなちっぽけの僕なんかのために。本当は僕なんかじゃなくて、ライトニングさんの方が生き残るべきだったのに。それなのに、ファロン隊の誰も僕のことを責めたりしない。ようやくその家族から罰を受けられると思っていたのに。それなのに……。
「あなたはすぐ隊に戻って仲間を呼んだ。その足で本部まで戻って報告に来ている。僕が言うことではないかもしれませんが、報告がもっと遅れていたら手の打ちようがなかったかもしれません」
 アルフレッドを前にそうはっきりと口にしたのは、成人にも満たないただの少年だった。
 彼女が崖の下に落ちたという着眼点もさることながら、同行したいと申し出たアルフレッドを前に、彼はあくまで冷静に分析し、「足手まとい」だと口にしたのだ。
 年上の、例え若手であったとしても、軍人相手にそんなことを真正面から言える子供なんて一体どれだけいるのだろう。おまけにここには彼女にとって縁のある人間しかいないはずなのだ。怒りに身を任せ、彼女を死へと追いやった元凶とも呼べる人間に掴みかかるのが普通なのではないか。
 とても子供とは思えぬ立ち振る舞いだった。少なくとも、アルフレッドにこれができるかと問われれば不可能だと断言できるだろう。一体どれほどの修羅場を潜ってくれば、このような言葉を発せられるようになるのだろうか。まだ幼さの残るホープの顔立ちを見つめたアルフレッドは、そこでようやく彼の左手の薬指に彼女と同じリングが輝いていることに気が付いた。
「……あ」
 瞬間、脳裏によぎった彼女の言葉があった。
 友人の話なんだが。そう前置きをして、年の離れた恋人と付き合っている女性の話をしていた彼女。……あれは、彼女自身の話だったのだ。
「どうかしましたか?」
「い、いえ。何でもありません」
 怪訝な表情になったホープを前に、アルフレッドは消え入るような声で「何でもないんです」と口にすることしかできなかった。
 年の離れた恋人同士を案じていた彼女の前で――自分はなんと恥知らずな言葉を放ったのだろう。流されるままに過ちを犯した自身の過去と重ねて、拒絶して。その言葉を受け取った彼女は、どんな思いで耳にしていたのだろうか。少なくともそれは、かつての己とはまるで性質の異なるものだったはずなのに。
 今更ながらに、彼女の一連の行動の意味を理解したアルフレッドは口を噤むことしかできなかった。それ以外の術を持ち合わせていなかったのだ。
「……すみません、ホープさん」
 己の想いは、ただ空回った末の一人相撲でしかなかったのだ。その事実は、アルフレッドを打ちのめさせるには十分だった。
「僕、あなたに名乗りましたっけ?」
 怪訝な表情になったホープを前に、アルフレッドは苦々しく表情を歪めることしかできない。
「ライトニングさん……いえ、ファロン大尉からあなたのことを」
 彼女が放った言葉を必死になってかき集めていた。あの人の心を奪った馬の骨の名前を、コクーンに戻り次第、洗いざらい調べ上げようとさえ思っていた。だけど、知りたいのはいつだってアルフレッドばかり。当のホープときたらアルフレッドのことさえ知りもしなかったのが、なんだか泣けてくる。自分は、そもそも土俵にさえも登れていなかったのだ。
「そうだったんですか」
「パルスでの滞在中に。……大切な方だと伺いました」
 少しだけホープと似ている。彼女はアルフレッドのことを見て、そう評した。
 ……ああ、そうだったのか。今になって、ようやく腑に落ちた。
 シャオロングイを前に身を呈してアルフレッドを庇ってくれた彼女の行動の意味が、今更ながらに紐解けてゆく。確かにアルフレッドは、背丈や体格……そして髪の色がホープと似ている。そんな彼の危機を前にして、あの人は錯覚したのだ。
 命を懸けて守りたい。
 彼女がそう思ったのは、アルフレッドなんかではなく……目の前のこの男のことだったのだ。
 目の前が真っ暗になっていくのが分かる。それでも何とか立っていられたのは、ひと欠片のアルフレッドの意地だった。
 何もかもが、アルフレッドには不釣り合いだった。女神のように凛として美しかったライトニングも、恋人を救うために自らの危険さえも顧みないホープにも。
 残されていたブレイズエッジをホープに手渡し、彼女に懺悔をするしかできない自分のなんと無力なことだろう。
 それからまもなくのことだ。ライトニングのちぎれたマントが崖下で発見され、その痕跡から魔物に襲われて彼女が死亡したのだという知らせがアルフレッドの耳に届いた。

   * * *

 下り坂を転がり落ちるのはあっけないものだった。
 ころころ、ころころ、落ちていく。まるであの人が落ちていった深い奈落の底のように。
 ファロン隊は、確かにアルフレッドのことを責めなかった。彼女のことを隊長として慕う彼らは、部下を守った彼女の行動を何より尊重した。
 結局、ファロン隊は事実上空中分解した。熟達した隊員が多かっただけに、彼女以上に癖のある隊員たちをまとめ上げるのは難しい。隊長候補として名前の上がった先輩隊員が辞退したことで隊員たちは散り散りになって、他の部隊に組み込まれていくようになった。
「『麗しき軍神』が死んだのって、アルフレッドを庇ったかららしいぜ」
「はあ? あの根暗なやつを?」
「なんでもパルスの任務中に起こった事故だそうだぜ」
「アルフレッドは顔だけはお綺麗だからな。やっぱり顔か? それとも関係があったりしてな」
「マジか~……、それちょっとショックなんですけど」
「そもそもあの人、うちのエースだったんだろ。最近えぐい任務が回ってくるようになったのって、ファロン隊がなくなったからか」
「いい迷惑だよ。まったく、どうして『麗しき軍神』が死んだんだか。最強だったんじゃなかったのか?」
「結局のところ、人の子だったって訳さ。『麗しき軍神』なんて大それた呼び名だったんだ」
「は~~っ、性格キツそうだったけど、見てる分には目の保養だったのにな。今まで息子がお世話になりましたってか?」
「おいおい、そりゃ言い過ぎだぜ。まあ俺も世話になったけど!」
 下衆だ。アルフレッドは配属先の先輩隊員たちの言葉に唇を噛み締める。アルフレッドの耳に入るよう、わざとらしく大声で話しているのだ。
 自分が貶められるのはまだ分かる。アルフレッドがライトニングを死に追いやったも同然だったからだ。だけど、気高いあの人のことを……彼女のことを侮辱することは、アルフレッドにとって耐え難かった。
 怒りに身を任せ、先輩隊員に声を荒げることができたらどれほど良かっただろう。
「げほっ」
「おいおい、ちょっとやりすぎなんじゃねえの?」
「こいつは『麗しき軍神』を殺した男なんだろ? このくらいの罰は当然と思ってもらわなくちゃ」
「まあ洗礼だと思ってもらうってことで」
「ギャハハハハハ!」
 だけど、アルフレッドにはそれができなかった。耳障りのいい理想ばかりは熱く語ることができるのに、いざ窮地に追いやられると自分では何もできない。結局アルフレッドもまた、力にねじ伏せられるだけの弱者でしかなかったのだ。
 僕にはあの人のようになれない。
 ルシとなったことでコクーン中を敵に回した彼女のように、強くはなれない。どうしてこんな弱虫の僕が生き残ってしまったのだろう?
「無理してないか」
 元ファロン隊の先輩はアルフレッドのことを気遣って、何度か顔を出してくれたけれど、その優しささえもアルフレッドにとっては痛いばかりだった。
 いっそ他の隊員たちと同じように責めてくれたら楽なのに。
 彼らはいつだってそうだった。だからファロン隊が解散すると聞いて、少しだけほっとしたのだ。そうして待っていたのは、あの人に憧れるばかりで近づくことさえできなかった下衆たちの卑怯な暴力ばかりだったけれど。
 結局、アルフレッドはあれほど周囲を説き伏せて入隊した騎兵隊を辞めることになった。
 元々、彼女を追って入隊したようなものだった。だから、彼女がいなくなってしまった以上、アルフレッドが続ける意味などなかったのだ。彼女と共にコクーンの未来を担っていくという理想が、脆くも崩れ去ってしまった今となっては。
 幸いなことに、アルフレッドは頭の出来はけして悪くなかった。騎兵隊を辞めたその後、アルフレッドはアカデミーの門を叩くことになる。
 アカデミーは優秀な学力をもった人間を歓迎してくれた。識ること、学ぶこと。これがアカデミーの基本理念だ。勉学に励むことが苦ではないアルフレッドにとって、アカデミーの環境は馴染みやすく、天職なのではないかと自分でも思ったほどだった。就職の際、周囲がアルフレッドにアカデミーを勧めていたのはけして間違ってはいなかったのだ。
 とはいえ、当時とは状況が違っている。すでにアカデミーに就職していた学生の頃の友人は、アルフレッドが騎兵隊で活動している間に出世をしていた。対するアルフレッドは平研究員からのスタートだ。アカデミーで始めようにも、出遅れているというのは否めない。
 それでもこの時点ではまだアルフレッドにはやり直す余地があったように思う。おかしくなり始めた最初の兆候は、アカデミーの創設者であるバルトロメイ・エストハイム議員の息子がアカデミーに就職したという知らせだった。
 ホープ・エストハイム。その名前を、アルフレッドはすでに嫌というほど知っていた。
 エクレール・ファロンの婚約者であり、臨時政府の要職の息子。あれからホープのことを調べ、彼もまた彼女同様にルシであったということが分かっている。
 アルフレッドよりもほんの数歳若いだけの少年だったというのに、彼は何もかもを持っているように見えた。専門分野のみならず幅広い方面への好奇心。あくまで事実を元にした、客観的で合理的な話術。慎重であるかと思いきや、必要に迫られれば大胆な決断さえもしてみせる。アカデミーに現れた期待の新星として、彼の名前は瞬く間に知れ渡るようになり、どこで聞いても「流石は創始者の息子だ」と彼を褒め称える声ばかりだった。
 もちろん親のコネで就職したのだろうと、ホープをやっかむ声が全くなかったと言えば嘘になる。輝きが大きくなればなるほど、その下の影が伸びてくるのと同じように、賞賛が集まるほどに彼を妬む人間はいた。しかし、それでもホープは折れなかったのだ。
 アルフレッドは容易く折れた。騎兵隊の隊員として活躍する余地はまだ十分にあったというのに、彼女を失ったことで何もかもがどうでもよくなって投げ出してしまった。アルフレッドは逃げ出してしまったのだ。
 ホープもまた彼女を失くしているはずだった。あの人のために身の危険さえも顧みずパルスに飛び出していって、最悪の結果を突きつけられたはずだった。
 何が違う? どこで間違った? 自問自答しても答えは返ってこない。そうだというのに、一介の研究員に過ぎないアルフレッドの耳にさえホープの噂は耳に入ってくる。
「ホープは着実に成果を上げていっている。入って間もないが、彼にはもう役職が当てられることを上は検討しているらしい」
「優秀だもんな。さすがは創始者の息子。頭の出来が違うんだな」
「おまけに顔もいいだろ? ほら、研究棟の美人なあの子、ホープに告白したんだとよ」
「それ聞いた! あれだろ? 大切な人がいるからって、振っちまったって。カワイソー」
「あれだけ仕事一筋なのに、恋人なんていたんだ」
「左手の薬指を見た? 将来を約束してる人がいるんですって」
「あれって、女除けのためのアピールだったんじゃないの?」
 いなくなってしまった彼女のことを忘れてしまったわけじゃない。それどころか、彼女に操を立てて、誰とも付き合っていないらしい。彼女に一途で。理想に向かえるだけの力があって。親のコネもある。顔もいい。頭もいい。家は金持ちだ。最近は武術の腕も上がっているらしい。嫌味がない。多忙な時でも周囲に気を配ることができる、完璧超人。
 彼は何もかもを持っていて、アルフレッドがただ指を咥えて見ているうちに、どんどん高みへ登っていく。似ているとあの人は言った。どこが似ているのだろう? ホープばかりがあんなにも光り輝いているのに。
 ――無理だ。何かが、ひび割れた音がした。
「アールフレッドちゃんじゃないの~。ひっさしぶりじゃーん?」
「騎兵隊はアカデミーと合併することになったから。要するに、オマエはまた俺らの玩具ってコト」
「『麗しき軍神』殺しておいて、自分だけのうのうと生きているなんて、許されると思ってた?」
「んな訳ないじゃん。アカデミーの奴だからってでかい顔していられると思うなよ?」
 パルスでの調査を本格化するためにアカデミーは騎兵隊と吸収合併することを発表してからは、アルフレッドの日々は再び地獄に戻っていった。もはや、何のためにアカデミーの門を叩いたのかすら分からない。
 自分の能力を生かすため?
 コクーンの将来を担う若者として活躍するため?
 ただ与えられたものを享受するだけの人生ではなくて、自分の未来をこの手で切り拓いていくため?
 そんなもの、クソ喰らえだ。
 逃げるように、アルフレッドはパルスへの異動届を提出した。工事が進み、居住空間を増やしたテージンタワーでの調査員を追加募集していたのだ。何もかもを捨てたくて、現実を見ることがただ辛くて。ボロボロになった体を引きずるようにして再び帰ってきたパルスで――アルフレッドは悪魔の花と出会ったのだ。

   * * *

 血のように鮮やかな真紅の、まるで貴婦人のドレスをひっくり返したような花だった。
 パルスでの活動中のことだ。アルフレッドは、その花の近くにいると不思議と心が安らぐことに気が付いた。群生しているのを見かけたのは偶然だったが、これは何かの運命なのかもしれない。その頃のアルフレッドはすっかり疲れ果てていて、藁にもすがるような心地だったのだ。
 アルフレッドは花の果実を採取し、調査をすることを決めた。この花のことを考えている間は、不思議と彼女のことも、ホープのことも、騎兵隊の下衆な奴らのことも忘れていられることができたからだ。花はアルフレッドの心に平穏をもたらした。その力を借りている間は、彼はあらゆるしがらみから解放された。アルフレッドは自由になったのだ。
 パルスの生態系は不明な点が多く残されており、その多くはつまびらかにされていない。もしかしたら、これは世紀の発見になるかもしれない。採取した果実を加工することに、アルフレッドは次第に取り憑かれるようになっていった。それだけの魔性をこの花は秘めていたのだ。
 その頃になると、パルスを訪れるのは何もアカデミーの関係者だけではなくなってきていた。人が生活するためには、食料が、衣類が、そして日々を豊かにするために嗜好品が必要になる。未開の土地で一攫千金の夢を求めて、あるいはコクーンでの生活に見切りをつけて、テージンタワーに出入りする人間が増えるようになったのだ。
 分母が増えるということは、多様な人間性を内包するということに等しい。みながみな、品性方正なお綺麗な人間という訳ではない。夢破れた人。借金から逃れるためにパルスへ逃げ出した人。コクーンでの居場所を失った人。ファルシの加護を失ったことで生活の保障がなされなくなったため、路頭に迷う人間はけして少なくはなかった。
 そういった弱い人間を前に、悪魔がアルフレッドに囁きかけたのだ。
 ――花の効果を、人間に試す時が来たのではないだろうか?
 そうしてアルフレッドは悪魔に魂を売り渡した。
 ドラッグと名付けた白い粉の効果は絶大だった。一度それに手を出すと、あらゆることがどうでもよくなり、幸福に満たされる。辛かったこと。痛かったこと。悲しかったこと。それらがすべて消し去られ、極楽浄土の心地に導かれるのだ。ドラッグは瞬く間に人々を虜にし、彼らは一度得た快楽を再び手に入れようと躍起になった。
 まもなくドラッグは闇市で高値で取引されるようになり、彼は多くの財を得た。コクーンから追いやられ、選択せざるを得なかったパルスという大地で、アルフレッドはとうとう成功者へと転身したのだ!
 もはやすべてがアルフレッドの思いのままだった。彼が望めば、まるで手足のように働く人間がいる。ドラッグは飛ぶように高値で売れ、ギルに困ることはない。女だって、望めばいくらでも抱ける。もはや女はアルフレッドにとっての征服者でなく、彼が支配者だった。
 頭角を現し始めたアルフレッドを止めるものなど誰一人おらず、彼はテージンタワーの影の支配者と呼ばれるほどにのし上がった。何もかもを手に入れたと思っていた。望めば、どんなことだって。そんな彼が、どうしても手に入れることができなかったたった一人の女性――エクレール・ファロンがテージンタワーに現れたと知った時、どうなるだろう?
 はじめてその人を見た時、アルフレッドは心臓が止まるかと思った。
 似ている。あの人に似ている。命をかけてアルフレッドを救い、同時に彼を奈落の底へと突き落としたたった一人の女性。気高く、美しかった騎兵隊の『麗しき軍神』であるあの人に。
 おとぎ話に登場すると言われるモーグリを連れた旅の人間がいると聞かされ、その物珍しさに近づいたアルフレッドは、真に注目すべきなのは彼女なのだと知った。そうして彼女の連れが、忌むべき男であるホープ・エストハイムであることを知り、確信を持ったのだ。
 あの人が生きている。
 その確信が事実であることが確定したのは、彼女が首からぶら下げていた革紐を隠し持っていたナイフで奪い取り、リングを検めたからだ。
 ホープからエクレールへ。簡素なそのメッセージがすべてをあらわしていた。二年前のあの時、彼女は死んでなどいなかったのだ。
 その事実を認識した時、アルフレッドは胸の内にしまいこんでいた暗い欲望が沸き上がってくることを自覚した。気高く、誰よりも美しかった彼女。不可侵で、ある意味アルフレッドにとっての聖域でさえあった彼女を――この手で手折りたい。
 それも、アルフレッドを劣等感まみれにしたホープからなるだけ屈辱的な方法で二人のことを引き裂いて。修復不可能なほどにばらばらに叩き壊して。アルフレッドのことをライバルとさえ認識しなかったホープのお綺麗な顔を涙と絶望のスパイスでぐちゃぐちゃに歪ませてから、彼女を手に入れるのだ!
 そう結論を出したアルフレッドの躊躇はなかった。二年前の甘っちょろいアルフレッドならば、けして選ぶことはなかっただろう道。だけど、すでに道を踏み外してしまったアルフレッドにとっては今更な話だった。もはやライトニングが救ってくれた理想に燃える騎兵隊の青年はどこにもいないのだ。
 誰かのものであれば奪い取ればいい。欲しいのならば力ずくで。道徳や倫理を遵守したところで、結局のところ得をするのは我を通した人間なのだ。それを知ってしまった今のアルフレッドには止まる理由がない。
 彼女の様子がおかしいのは、様子を伺っている内に気が付いた。アルフレッドの記憶の中にあった彼女ならば、けして見せなかった仕草や表情をしていたからだ。何より、同じ声でありながらも、彼女はまるで別人であるかのように振る舞っていた。
 調べなければならない。それも、彼女たちがテージンタワーに滞在している内に。
 だからまず、アルフレッドはテージンタワーの八層目を封鎖した。旅人がこの場所に訪れるのは、渓谷を渡るためだということは容易に想像できる。彼の息がかかっている内通者にかかれば封鎖は容易いことだった。
 とにかく情報を集めなければならない。
 かつてルシであったというホープのことをアルフレッドは侮らない。彼は頭がキレるし、勘だって悪くない。妙な立ち回りをして、ホープに怪しまれることだけは避けたかった。
 ホープにとって、彼女はかけがえのない存在のはずだ。二年というけして短くはない時間を、左手の薬指にリングをはめたまま過ごしたという事実がそれを証明している。彼女を取り戻したホープから奪い取るのは、けして容易いことではないだろう。
 慎重に、だけど大胆に。ホープに認識をされていない今が、アルフレッドにとって最大の好機だった。罠を張るのならば、迂回路だろう。テージンタワーの八層目が使えないとなると、必然的に渓谷越えの選択肢は限られてくる。
 だから、自ら様子を伺っていた宿から彼女が飛び出していくのが見えた時はチャンスだと思った。アルフレッドが引き離すまでもなく、彼女はホープから離れたというのだ。手を下すまでもなく仲違いしたのならば、好都合この上ない。
 そうしてアルフレッドはなに食わぬ顔で彼女――エクレールに近づき、これまでのホープとの旅の顛末をすべて聞き出したのだった。

   * * *

 大地を二分する巨大な渓谷を西に向かって進んでいくと、荒野が続いている。その荒れ果てた大地を進むと、まもなくクレーターのような大穴にたどり着くだろう。その大穴の中にまるでひっそりと佇むように小さな廃墟が残されている。
 周囲に郷らしいものはない。あったとしても、永い年月と共に朽ち果ててしまったのだろう。頑丈な素材で出来ていたその建物だけがぽつねんと建っていて、まるで何もかもに取り残されたようだった。
 そういう佇まいがアルフレッドは気に入って、彼はここを自身の研究所として宛てがっていた。幸いにも周囲は背の高い樹木が茂っていて、一見ここには建物があるようには見えない。花を集める際に偶然見つけた場所ではあったが、すっかりこの場所はアルフレッドの隠れ家として機能していた。
 外壁は朽ちているものの、内部はアルフレッドが持ち込んだものによって快適に過ごせるよう整えられている。彼はベッドへと視線を向けた。その上には、長いピンクブロンドの髪をシーツの波の上でうねらせて眠る一人の女性の姿がある。
 部隊ではただの上司と部下の関係に過ぎなかった。だけど、もうファロン隊は存在しない。アルフレッドは騎兵隊をとうの昔に辞めてしまったし、彼女は死んだことになっていて、もはや存在しないはずの人間だ。
 手の届かない、不可侵の領域を持つ人だと思っていた。どんな敵にも凛と立ち向かっていくその姿が気高く、何よりも美しくかった。彼女はかつてのアルフレッドにとって、間違いなく女神だったのだ。
 だけど女神は、今やベッドの柱に手を縛り付けられたまま身動きできないことにさえ気もつかず、眠り続けている。
 懸想するアルフレッドを裏切って、婚約者なんて作ってしまった彼女。誰のものにならないからこその女神だったというのに、よりにもよってその相手が年下の少年だったというのが笑えてくる。あんな涼しげな顔をしながら、さぞかしパルムポルムでの夜はホープの下でよがったに違いない。そこまで考えて、アルフレッドは口元を歪に持ち上げた。
「……そろそろのはずだけど」
 テージンタワー近辺ではコミュニケーターを利用できる環境が整っている。随分昔に入手したままそのままになっていたホープの連絡先に、アルフレッド自ら連絡を入れたのだ。彼女を預かったと口にした時のホープの反応なんて傑作だった。冷静さを装いながらも、その内心が怒りに満たされていることが手に取るように分かったものだ。今頃必死になってこちらに向かっていることだろう。
 彼女のピンクブロンドの髪に手を差し入れる。するりと指の間を通り抜ける感触が心地よい。目を覚ました彼女は、アルフレッドのことをなんと言ってくれるのだろうか。
「僕を置いて、二人でめでたしという訳にはいかないんだよ」
 彼女は泣くだろうか。アルフレッドに許してくれと請うのだろうか。記憶を失ってからは随分と丸くなったようだから、やりようによってはアルフレッドの望む通りに動いてくれるかもしれない。その瞬間のホープの顔を想像するとたまらなかった。
「ふふ……はははっ!」
 アルフレッド復讐は、今、火蓋を切って落とされたのだ。
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