2019.07.14 公開

#16

 真紅の花が、風に吹かれて揺れていた。
「こんなにたくさん咲いているのね」
 見渡す限り一面の赤。まるで染め物のような鮮やかな色彩が目に眩しい。これほど見事な花畑を見たことがないエクレールは、初めての光景にほうっとため息を吐いた。
「気に入って頂けて良かった。今の季節は花がとても綺麗なんです」
「テージンタワーの近くにこんな場所があったのね」
「ちょっとした穴場なんです。近いですけど、少し分かりくい場所にありますからね」
 道理で来る時には気が付かなかったはずだ。これほど見事な花畑なら、ホープやモグも喜ぶだろう。そこまで考えてから、エクレールは今ここに一人と一体がいないことに気が付いて、肩を落とした。
 どれほど綺麗だと思ったとしても、今この場にはエクレールとフレッドの二人しかいない。とは言え、それを望んだのは自分自身なのだから、残念に思うこと自体がそもそも筋違いなのだ。
 不意に、ホープが発した言葉を思い出す。
『ライトさん』
 ……違う。私はライトニングなんかじゃない。
 その名前を振り払うように首を振る。エクレールにもはやライトニングだった頃の記憶はない。そして、取り戻す必要もないのだ。
「人には多かれ少なかれ、それぞれ事情があったりします」
 笑っているように見える人でも、その実悲しい過去があるのかもしれない。目に見えているのはあくまでその人の表面の一角であって、すべてではないのだから。
 前を歩いていたフレッドはそこまで言葉を続けると、灰色の瞳をエクレールに向けた。
「エクレールさんの話したいことを、話したいところまでで大丈夫ですよ。僕に話し辛いようでしたら、花に喋りかけるっていうのも案外いいものです。応えはなくとも、ただ静かに寄り添って心を慰めてくれる……」
 そう口にして、フレッドは儚く笑う。それこそまるで、花のようにたおやかな笑みだった。
 この人もまた、何か悩みや苦しみがあったのではないだろうか。フレッドの言葉を聞いていると、なんとなくそう思う。
 不思議なものだ。エクレールはフレッドと昨日はじめて出会ったばかりだ。それも落とし物をした人と、それを届けてくれた人という関係に過ぎない。そうだというのに、今こうして二人きりで花を囲んで話をしているのだから、どこで何が起こるのか分からないものだ。
「どうかしましたか?」
 目を細めると、いっそう雰囲気が柔らかくなる。フレッドのプラチナブロンドの髪が太陽の光に透けてきらきらと輝いていた。その様を、なんだか眩しい心地になってエクレールは見つめた。
 やはりフレッドはどこかホープを連想させた。容姿もそうなのだが、纏う雰囲気がどことなくそう思わせるのだ。人当たりは良いのに、本質的に人を寄せ付けない空気があると言うか。少し陰りがあると言ってもいいかもしれない。そんなどこか放っておけない感じがあるのだ。
 だからなのかもしれない。フレッドと話をしていても、はじめての人だとエクレールにはどうしても思えなかった。
「そうね……。どこから話したらいいかしら」
 ホープによく似ているけれど、全くの別人。彼のような気安さがありながら、その当人でないことはエクレールの口を軽くした。
 思えば、誰かに話を聞いてもらいたかったのかもしれない。夢の中で現れた少年は、ただ静かにエクレールのことを『気持ち悪い』と蔑んだ。ホープによく似た不思議な少年。振り返ってみれば、あの夢こそが予感のはじまりだったように思う。
 気が付けば、エクレールはこれまであった出来事をフレッドに洗いざらい話していた。彼が聞き上手ということもあっただろう。だけど、それ以上にエクレール自身が誰かに聞いてもらいたかったという事が大きい。それこそホープやモグとは全く異なる、接点のない誰か。そういう意味において、フレッドはエクレールにとって完璧な条件を満たす人物だった。
 崖から落ちてモーグリの里に保護されたこと。直前の魔物との戦闘で、記憶を失ってしまったこと。それから二年の月日が流れて、崖の上でホープと出会ったこと。二人を結び付けたシルバーのリング。ホープは記憶を失う前のエクレールを知っていて、かつて二人はつがいの関係にあったこと。ホープと旅をするようになってから、エクレールはライトニングの夢を見るようになったこと。
「エクレールさんはライトニングと呼ばれていた頃の記憶を取り戻したくなくなった。その時、ホープさんがあなたのことを『ライトさん』と呼んでしまったのですね」
「考えてみれば、ホープにとって私はライトニングでもあった訳だから、仕方ないことだわ。……こうやって落ち着いて話をしてみると、逃げる必要なんてどこにもなかったわね」
 肯定も否定も、決定を促されるものではなかった。ただ、フレッドはこれまでの話を聞いてくれているだけ。そうだと言うのに、誰か聞いてもらうことでこんなにも心が軽くなるのだということを、エクレールははじめて知った。
「心と体は繋がっています。エクレールさんが逃げたいと思ったのは、そうしたいと思ったからでは? あなたは自分が思っている以上に、傷ついていたのだと思います」
「私が傷ついていた?」
「ええ。エクレールさんはすでにエクレールさんとしての人格を持っている。それを、ホープさんに否定されたことで傷ついていたのです」
 私は傷ついていたのだろうか。ホープに『ライトさん』と呼ばれた時のことを思い出す。
 彼にとっては何気ない言い間違いだったのだろう。ネオ・ボーダムには彼の旧知がいるのだという。スノウ。そして、ライトニングの妹であるセラ。二人のことを語るホープは、エクレールが見たことのないような表情をしていた。彼の『特別』は、なにもエクレールだけではなかったのだ。
 それを思い知らされたような気がして。『ライトさん』と、流れる様に名前を呼ばれて。咄嗟にエクレールは彼から背を向けてしまったのだ。
 私は知らない。ライトニングだった頃の記憶がない。そちら側に来て欲しいと暗に告げられたような気がして。ライトニングに戻ったら、ホープのことを大好きだと思うエクレールが変質してしまうようで、怖くて。……だから、私は逃げ出したのだ。
 とは言え、一度冷静になって考えてみれば、当たり前と言えば当たり前の話だった。エクレールにとって最初に出会った人間とも呼べるホープとは、そもそもまだたったの四日しか同じ時間を過ごしていない。それで彼のすべてを知ったような気になっていたのは、傲慢も過ぎたものだろう。
 思い上がった末の、単なる勘違い。知っているホープの知らない一面をライトニングから突き付けられたような気がして、居心地が悪くなってしまったのだ。そうしてエクレールは彼から逃げ出したに過ぎなかった。
「エクレールさんはまるで雛鳥だ」
 フレッドは静かに語る。
「雛は最初に見たものを自分の親だと思う習性があります。そして、エクレールさんにとって一番最初の人間はホープさんだった」
 彼は確かにエクレールさんに会えて嬉しかったでしょう。大切な恋人が生きていたのだと分かったのですから。だけど、エクレールさんにとっては違う。
「僕は外から見ていただけですから、はっきりと言えます。エクレールさんのその気持ちは、ホープさんによって刷り込まれたものです」
「刷り込まれたもの……?」
「はい。他を知る機会があなたにはなかった。エクレールさんはすでにエクレールさんとしての人格を持ち、新たな道を歩き始めています。そうだというのに、まるでホープさん……いえ、ホープはあなたの気持ちが自分に向くように誘導していたのです」
 何も知らなかったあなたは、まんまと彼に乗せられた。本来その感情は、別人格であるあなたが持つはずのなかったものなのです。
 そこまで口にして、フレッドは灰色の瞳をエクレールに向けた。
「あなたのその気持ちは、ホープによって植え付けられたものです。他を知らなかったから、それ以外の選択肢を見つけられなかったに過ぎません。彼は、あくまであなたのことをライトニングさんだった頃の延長線でしか見ていないのです。このまま彼と一緒にいれば、今日のようなことは何度だって起こり得るでしょう」
 それはエクレールさんの望むところではないのではないでしょうか。ホープはエクレールさんを通して、ライトニングさんの面影を追っているに過ぎないのです。
 フレッドに促されるままにエクレールは想像する。これから先、今日のようなことが再び起こってしまった時、果たして自分は耐えられるのだろうか。その度に傷つく自分を隠しながら、ホープを前に笑っていられるのだろうか。
「ホープはエクレールさんが何も分からないことをいいことに、かつて恋人だったライトニングさんの面影を、都合良くあなたに被せようとしているとしか思えないのです」
 同時にそれは、エクレールさんがエクレールさんでなくなるということを指しています。結局のところ、ホープにとって一番大事なのはライトニングさんであって、エクレールさんではなかった。あなたはホープに騙されているんです。
「私はホープに騙されている……?」
 フレッドの言葉を反芻する。不意に、脳裏にこれまでのホープの言動がよぎって、エクレールは強く頭を振った。
「そんなことないわ。ホープは確かにライトニングのことを大切に想っているけれど……」
 私がいなくなっていいと思っているわけじゃない。そう言葉を続けようとしたエクレールの言葉を遮るように、フレッドは声を上げた。
「なら、どうしてホープはあなたにネオ・ボーダムを勧めたのですか」
 ただ旅をするだけなら、当初の予定通りヤシャス山へ向かえば良かっただけの話だ。わざわざ新たな選択肢を増やす必要なんてない。
 フレッドの言葉は、言われてみればもっともな話に聞こえた。あくまで提案という体は守られていたものの、はじめて人間と会って気持ちが高ぶっていたエクレールが、その選択肢を選ばない可能性の方が低いだろう。何より、あの時点ではまだエクレールはライトニングの存在を認知していなかった。ホープによってその存在を明らかにされ、エクレールがかつてそう名乗っていたということを知ったのだ。
 ネオ・ボーダムはエクレールにとって縁のあるある土地なのだとホープは語った。
 失った第二の故郷。知己であるスノウ。実妹であるセラ。そこにはかつてのライトニングの痕跡が数多く残されているに違いない。事実、エクレールはホープと接点を増やす度に、ライトニングに触れる機会が増えた。例えばそれはふとした拍子に浮かんだ言葉であったり、夢であったり。
 ホープとライトニングはつがいという特別な関係にあった。
 だからホープはエクレールにライトニングだった頃の記憶を思い出して欲しいに違いない。
 その一環として、ホープはネオ・ボーダム行きを提案した。縁のある地だと口にして、彼はエクレールの旅にまんまと同行した。
 その目的はエクレールの消失だ。エクレールを消すことによって、失われたライトニングを復活させようとしている。
 結論から言えば、ホープは悪だ。彼は自分の都合でしかエクレールに接していない。ライトニングのためなら、エクレールがどうなってもいいとさえ思っている……。
「私なんて、どうなっても……」
 フレッドに促されるようにそこまで口にしてたエクレールの脳裏に、不意に浮かんだ言葉がある。
『僕が怪我するのは別にどうだっていいんです。あなたに何かあると考えたら、僕は……』
 マーナガラムと戦った時のことだ。先陣をきったホープが危険に襲われている。ほとんど反射的にチョコボから飛び降りたエクレールに、彼が語った言葉だった。
 穏やかに見えるけれども、案外気性が激しい。おまけに、エクレールのことになると過保護で、向こう見ずな一面が顔を覗かせるのだ。ホープは自分のことに頓着しない。その癖、エクレールに何かあることを酷く怖がる節があった。
 思えば、それは出会った時からだった。
 はじめて会った時、小さなモーグリのようにか細く震えていたホープの姿を思い出す。
『あなたが生きていてくれて……っ』
 彼は苦しそうだった。エクレールよりも高い背を丸め、泣き出しそうな表情をしている。
 抱きしめられた。だからエクレールも抱きしめ返した。この人のことは分からない。だけどあの瞬間、確かにこの人は『エクレール』という存在を想って抱きしめてくれているということは伝わったのだ。
 どうして彼のことを悪だなんて言えるのだろう。
 大切な人を、ただ大切にしたい。ホープは最初からそうだった。
 彼がエクレールのことを消してしまってもいいだなんて、そんなことを思うはずがない。だって、彼は一番最初に口にしていた。記憶がないのだと口にしたエクレールを前に、泣き出しそうに目を細めて、だけど確かに口にしたのだ!
『あなたが生きてここにいる。……それだけで、十分なんです』
 胸に宿ったのは、灯のような温もりだった。その温もりがあったから、エクレールは今ここにいる。どうしてそれを忘れてしまえるだろう?
「……ホープが私を消したいだなんて思うはずがないわ」
 チェーンから下げたリングを指先で握りしめて、エクレールは顔を上げる。
 ホープからエクレールへ。
 彼の気持ちは、記憶を失う前から確かに受け取っていたのだ。
「フレッド、あなたの言っていることはおかしい。私の話を聞いているようで、その実最初から決めていた結論に誘導しようとしている」
 誰かに話すことで整理できますから。彼の言い分はあくまでそのスタンスだったはずだ。いつしかホープがエクレールを否定し、エクレールがホープを否定することをありきになってしまっている。それは、ただ話を聞きますという善意の人間が行うにしては、あまりにも性質が悪すぎるのではないだろうか。
「――結局、あなたはそうなるんですね」
 せっかく婚約者たちの破局のエピソードを演出して差し上げたと言うのに、正気に戻ってしまうんですから。
 そう口にしたフレッドの声は、今まで聞いた彼のどんな声よりも、低く、寒々しかった。途端、ぞっとしたものが込み上げて、エクレールの頭の中に警鐘が鳴った。
 何がどうしてこうなっているのは分からない。だけど、目の前の男は危険な存在だ。本能的にそう察知し、後ずさりしようとしたエクレールの視界が不自然に歪む。
「……え」
「正気に戻ったのは流石と言うべきでしたが、少し遅かったようですね」
 フレッドの口元が三日月の形ににいっと押し上がる。今すぐこの人から離れなければ。そう思うエクレールのことをまるで嘲笑うかのような表情だ。
 視界がぐんにゃりと滲む。頭の中が上手くまとまってくれない。一体、何が起こっているというのだろう。
「そう言えば、まだ僕の名前を名乗っていませんでしたね」
 捩じれゆく視界の中で、プラチナブロンドの髪を持った青年はエクレールを前にせせら笑う。
「アルフレッド・ベリオ。かつて、あなたの部下だった男ですよ。――ファロン大尉」
 おっと、死んで一階級特進して今は少佐でしたっけ。くすくすと嗤う男の声は、すでに遠い。もがくように手を伸ばしながら、それでも抗いきれぬ暗闇の中へエクレールの意識は吸い込まれていったのだった。
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