2019.07.07 公開

#15

 時は少しだけ遡る。
 薄らと白みつつある東の空とは対照的に、反対側はまだ等級の高い星がいくつか瞬いていた。
あれがシリウスだ。パルスの星空を見かけると、星の名前を冠した二丁銃を使いこなしていたかつての仲間の言葉が思い浮かぶ。あれから四年の時が流れた。早いものだ。
 ホープは振り上げていた腕を降ろした。動きに合わせるようにしてブレイズエッジが折り畳まれる。鞘にしまい込んで一息つけば、首筋から汗がたらたらと流れ落ちるのが分かった。
 訓練施設のように自由に疑似戦闘プログラムを走らせることはできないものの、日々の訓練は欠かせない。天性のセンスに恵まれた人ならいざ知らず、ホープは戦闘に関してはあくまで平均レベルの腕前でしかないからだ。そもそも基本的な運動神経で考えると、ホープはけして身体能力が高い方ではない。扱いの難しいブレイズエッジを使いこなすために、人一倍努力をする必要があった。
 どんなことにも基本の動作はある。まずは基礎をしっかりと身に着けた上で、後は実戦で数をこなせ。慣れろ。ぐずぐずしている時間はない。
 かつてその言葉をホープにかけてくれた人がいた。彼女――ライトニングは、改めて考えてみても、戦いにおいては天賦の才に恵まれた人間だったように思う。自らブレイズエッジを振るうようになって、彼女の凄さを思い知る。確かに筋力はホープの方があるだろう。しかし、繰り出す手数の多さも、瞬間的な判断を下すのも、彼女の域に達しているかと言えば答えはノーだ。
 白み始めた風景の中に、二つに折れ曲がったテージンタワーが浮かび上がる。
 彼女はまだ眠っているだろうか。三日前から行動を共にするようになったエクレールの顔を思い浮かべて、ホープは自然と表情筋が緩むのが分かった。どうにも彼女のことを考えると、顔がにやけてしまう。
 恋愛なんて彼女を手に入れる過程でしかないと思っていた。あの人をホープ以外の何者からも遠ざけるために、いっそ二人で駆け落ちしてはどうか。ただホープの傍に居てくれさえいれば、それでいい。盲目的で狂信的とも言えるホープの想いとは裏腹に、エクレールと言えば予想をぽんと飛び越えて顔を覗き込んでくる始末だ。
「私とホープはつがいだったの?」
 綿毛舞う丘で、透き通るようなアイスブルーの眼差しを向けていたエクレールの姿が思い浮かぶ。かつて、ホープとライトニングが恋人関係にあったということを、ホープは口にしていなかった。再び会った彼女は、人間と出会うこと自体が初めてで、それがどういうものなのか理解できたとしても実感として伴うことはないだろうと判断したからだ。
 ならばいっそ、旅の中で彼女を絡めとっていけばいい。そんなホープのある意味では思惑通りでありながらも、エクレールは自らリングを元にその結論に辿り着いた。
「それ、は……」
 否定も肯定もホープにとっては思いのままだった。
 この場所に、二人の過去を知る者はいない。どのような関係を構築するのもホープの返答次第だ。そのことに気が付いた時、ホープはあえて『つがい』という表現を選んだ。
「……そうです。僕とかつてのエクレールさんは、所謂つがいと呼ばれるような関係性にありました」
 当時の彼女は二十三歳。ホープは十六歳。将来を約束することはできたとしても、コクーンの法に則れば夫婦という関係は築けない。十八歳以下の少年少女は子供として扱われ、一人前の成人として扱われることはないからだ。事実、籍を入れるのが早いと言われたセラでさえ、その年齢は十八歳だった。
 つまるところ、コクーンに生活の基盤を置いていた以上、どれだけ望んでいたとしてもホープとライトニングは婚約関係にあったとしか言えない状況だった。二人の間に横たわっていた年齢の差が縮まることはない。どれだけ背伸びをしたとしても、十六歳であったホープは事実幼かった。
 夫婦という明確な関係ではないものの、婚約関係よりも近しく感じる言葉。鳥に例えたつがいという言葉であったものの、これ以上ホープの心境を伝えるに適した言葉はなかっただろう。
 腰の長さにまですっかり伸びたピンクブロンドの髪を見下ろして、ホープは目を細めた。
 あれから二年という月日が経った。ホープは十八歳になった。彼女は二十五歳になって、ますます綺麗になった。もはや年齢という障害は取り払われ、望めば婚姻関係を結ぶことさえ可能だ。手を伸ばせばすぐそこに彼女の姿がある。
 彼女を一目見た瞬間から、昔の話で終わらせるつもりなんてなかった。今だって、彼女に触れたいと思っている。伸ばしかけた手のひらを握りしめて、ホープはエクレールを見つめた。例え記憶を失っていたとしても。ホープのことを忘れてしまっていたとしても。……それでも、彼女の事が大切で、何より失いたくない存在であることには変わりがない。傍に居たい。彼女のことを思いきり抱き締めて、その存在を確かめたい。願いが明確であるからこそ、慎重になる必要性があった。万が一にも怖がられて、距離を取られるようなことにはしたくない。何よりそうなってしまった時、自分自身が何をしでかすのか分からない恐ろしさがあった。
「私たちに雛はいたの?」
「ぶっ」
 果てのない思考を延々と繰り返していたからなのかもしれない。斜め向こうの方角から唐突にぶち込まれたエクレールの言葉に、らしくもなくホープは吹き出してしまった。
 咄嗟に赤ん坊を抱いている彼女の姿を連想して、気恥ずかしさが込み上げてしまった。思いがけず真っ赤になって、ごほごほと咽てしまう。
「え、えっと、どうしたのかしら……。背中をさすった方がいい?」
「い、いえ。大丈夫です、お気遣いなく」
 なんとかそこまで絞り出してから、ホープは顔を上げた。エクレールは突然咳き込み始めたホープを前に心配そうな顔をしている。自分がどれだけ爆弾発言をしたのかなんて分かっていないに違いない。
「結論から言います。人間の場合、雛ではなく子供と言います。そして僕らの間にはまだ子供はいませんでした」
 まだ、という所にホープの期待が込められていることに、エクレールは気が付かなかったようだ。ホープにとって、つがい足りえる相手は彼女以外にあり得ない。
「そうだったの……」
 とは言え、答えるエクレールの様子は心なしかがっかりしているようにも見えた。唇に手を当てて考え込む仕草をしていたエクレールは、間もなく瞳を瞬かせる。彼女がそういう仕草をする時は、大概何か質問を思いついた時だ。
「そう言えば、人間の子供ってどうやって作るのかしら?」
 爆弾発言どころの話ではなかった。最大級の破壊力を持った言葉がエクレールから投下され、ホープの思考は一瞬のうちにフリーズした。
 誰が、人間の子供を、どうやって作るって……?
 ようやくその言葉を認識するも、発したエクレールの方はまるで事の重大性に気が付いていない。それどころか本人は至って真面目に考察を述べているのだから、困ったものだった。エクレールはきっと、ホープの内心が凄いことになっていることなんて露ほども思っていないに違いない。
 思えば、一度だけ彼女と『そういう雰囲気』になったことはあった。
 二年前の、三月十四日のホワイトデー。その日、ホープは彼女の部屋に招待された。物がほとんどない家の中で「これから増やしていけばいい」と笑っていた彼女の姿を思い出す。大切な家の鍵を渡してくれた彼女が照れ臭そうに頬を染める。意地っ張りで、恥ずかしがり屋で、自分の言葉を発することに臆病な彼女の精一杯の告白が嬉しくて。未来を約束するリングをお互いの指に嵌め合って、ベッドの中にもつれ込むようにして彼女を縫い付けたのだ。
 嬉しかった。ライトニングもまたホープのことを好いてくれているということを言葉で示してくれて、天にも昇る心地だった。夢中になって彼女の首筋に唇を寄せれば、可愛い声を零してくれる。このまますべてに触れてもいいだろうか。流されるように溺れていくホープを最後に押し留めたのはライトニング自身だった。
「触れたくなるのは分かる。……正直、私もおまえにならいいと……思う」
「だったら」
「でも、駄目だ」
 そこまで短く言い切って、ライトニングは目を細めた。
「ホープがしっかりしているのも分かっている。だからこそ、行為は精神的にも肉体的にも正しく成長したおまえに捧げたいんだ。……ちゃんとしたリングも、そのうちくれるんだろう?」
 そう言われてしまっては、あの日のホープは止まるしかなかった。
 彼女が未来を共に歩んでくれるのなら。そう、無条件に信じられていたあの日。
「だから、早く追いかけてきてくれ」
 そう口にしたたった数日後の出来事だ。ライトニングは死んだ。――正確には死んだわけではなく記憶を失ったまま生きていたのだが、再び会った彼女はもはや別人となっていた。自らの命よりも大切に想っていたセラのことを忘れてしまったエクレールは、もはやホープの愛したライトニングではなくなっていたのだ。
「男の人と女の人の身体の造りが違うというのは分かったわ。多分それがヒントになるんじゃないかと思うのだけど……」
 ホープの気などまるで知らないエクレールは、眉根を寄せてむむ、と考え込んでいる。
 ライトニングの頃は気難しそうな表情を浮かべることが多かったが、今の彼女はどこかほんわかとした柔らかい空気を纏っていた。記憶を失ってからの二年間、モーグリの里で戦いから遠ざかっていたからだろうか。いや、元来の彼女の気質は妹であるセラと似ていたのかもしれない。早くに両親を失い、たった一人で妹を守らなければならなくなったその気負いが、彼女が本来持っていた気質を変質させてしまったのだ。
 エクレールはライトニングのことを覚えていない。だから、ボーダムで暮らしていた頃のことも、セラという自らの命を懸けることさえ厭わない大切な妹がいたことも、ホープたちと共にルシとして旅をしたことも――旅の後、ホープと付き合うことになったのも。好きなんだと口にしてくれたことさえも。全部、彼女の中でなかったことになっている。
 思い出して欲しい。
 その気持ちがまったくないと言えば、嘘になってしまう。ライトニングと共に過ごした記憶の数々はあまりにも濃密すぎて、言葉で語って伝えたとしてもきっとエクレールには伝わりきらないだろう。パージから始まった二人の出会い方はあまりにも特殊だったから。
 自分が知っていることを、相手が覚えていないというのは存外寂しいものだ。それはこの旅の中で、すでに痛感している。
 ――それでも、ホープは彼女のことを手放そうとは思わなかった。そもそも、その選択肢は彼の中では存在していなかったのだ。
 中身が変質してしまったとしても、あの人があの人であることに違いない。死んでいないのなら……生きてさえいるのならば、やり直すことが出来る。もう一度最初から、より良い形で未来に進むことが出来る。
 大丈夫。彼女を失って、闇の中を歩いたような日々を思い起こせば、これくらいどうということではない。生きている。しかも、今度は成人を迎えてから出会うことが出来た。子ども扱いされて悔しい思いをすることだってない。そう考えれば、やり直しも案外悪くないものだ。
 ホープはエクレールの肩に手を伸ばした。反射的に彼女が顔を上げるのが分かる。吸い込まれそうなアイスブルーの瞳が至近距離にあった。
「知りたいですか?」
 今度は絶対に取り零したりなんてしない。この手で確実に絡めとってみせる。気が付いた時には、エクレールにどこにも逃げ場なんてないくらいに。
 すべてを忘れてしまった彼女は、まるで穢れなど何一つ知らないかのように真っ白だった。ホープの言葉を疑う事すら思いつかないのだろう。ぱちぱちと瞬きをしている。そんな彼女柔らかい苔の上に引き倒し、噛みつくように首筋にキスをした。
「ひぁっ!?」
 こんな、自分自身でさえもおぞましくなるほどの独占欲を向けられて、可哀想に。
 高い声を上げる彼女の戸惑いに気が付かなかったふりをして、ホープはエクレールの首筋を舌で舐った。そのままゆっくりと鎖骨に顔を埋めれば、彼女はどうしていいのか途方に暮れた声でホープの名前を呼ぶ。
「え、あ、あの、ホープ……?」
「……エクレールさんから誘ったんですからね」
 雛鳥のように何も知らない彼女。無垢な彼女に付け込んで、このまま何もかも奪ってしまおうか。それがどれほどずるいことなのか分かっていながらも、ホープの動きは止まらない。
 脳裏に浮かぶのは、二年前のあの夜のことだった。あの頃ホープはまだ子供だった。彼女との将来をどれほど語り合ったとしても、コクーンで生きていく限り、少なくとも二年は待たなければならなかった。
 望んでいた。ライトニングとの幸福な未来を。
 手が届くと信じていた。あの日、スノウからコミュニケーターに着信がかかってくる瞬間までは。
 あの恋が滅茶苦茶にひび割れて壊れてしまったのだと知った時、ホープの少年時代は終わりを迎えた。そうして欠けた心を繋ぎ合わせて、再び彼女に出会ったホープもまた、あの頃のホープとはもはや変質してしまったのだ。
 かつて子供だからと押し留められた行為は、今となっては障害らしい障害がなくなっていた。十八歳となったホープは、事実上成人の仲間入りをしている。後ろめたいことなど何もなく、何よりここはパルスだ。コクーンのようにホープを縛ってくるものはない。
 日の光の下に彼女の素肌が曝け出されていく。
 怪我の痕が残っている。彼女はそう言って恥ずかしがったが、ホープは寧ろ綺麗だと思った。確かにいくつもの傷跡が、白い肌の上には残されている。だけどそれは、証だ。エクレールがかつてライトニングとして戦い続けてきた証が、そこには歴史のように積み重ねられている。
 エクレールのことを好きなのか。そう誰かに訊ねられたら、迷わず愛しているのだと口にできるだろう。だけど、それが正しい愛なのかホープには分からない。それでも彼女だけは、絶対に手放したくないのだ。
 視線を降ろせば、困ったようなアイスブルーの瞳がホープのことを見上げている。
「まただわ……」
 彼女は不安そうにそう口にした。
「どうかしましたか?」
 きゅっと胸元を押さえるエクレールの動きに、ホープが小首を傾げる。問いかけるホープの言葉に、エクレールは愁眉のまま、胸の内の戸惑いを口にしてみせた。
「ホープのことを見ていると、胸がドキドキして苦しいの。前にも言ったと思うけれど、私、あなたの傍に居ると不思議な病気にかかってしまうのよ……」
 ……ああ、この人はどうして。
 ぐっと心臓を鷲掴みにされたような感覚があって、ホープは唇を噛みしめた。
 この愛が正しいのかは分からない。だけど、目の前で見上げているこの人のことを抱きしめたいと思う気持ちだけは、疑いようのない真実だ。
「それはですね、エクレールさん」
 囁くようにホープは口にする。
「……恋という病なんですよ」
 それは、解けることのない病の名前だった。恋愛さえも手段でしかない。そう決めていたホープの心を惑わせる、不治の病。
 ホープは顔を上げた。
 いつの間にか東の空はすっかりと明るくなっている。夜明けとともにくっきりと浮かび上がるテージンタワーを見上げて、ホープは息をついた。彼女のことを考えていると、飛ぶように時間が過ぎてしまう。
(八層目の封鎖が解かれているか、とにかく掲示板を見に行かないとな)
 出る時は掲示板が更新されていなかったが、そろそろ情報が掲載されているに違いない。情報の内容によって、今後の方針を決める必要が出てくるだろう。部屋に戻ったらシャワーを浴びて、着替えをする必要もある。エクレールが起きてくる前にやるべきことを考え始めると、案外時間の余裕がない。
(有給も今日で四日目か)
 今日で二月十七日。アカデミーに申請した休暇は事実上半分ほど消化したということになる。
(これからの身の振り方も本格的に考えないと)
 彼女を忘れないために、その思い出を刻み込むためにパルスへとやって来た。まさかそのパスルで、死んでいたと思われたいた彼女と出会うことになるとは思っていなかったのだ。早急にこれからの人生設計を練り直す必要がある。
 少なくとも、これからをどうするのか。ホープの今後は、ある意味でエクレールにかかっていると言っても過言ではない。まずは彼女がパルスに残るかコクーンに行くことを望むのか。結果によってはかなり高い確率でホープは職場に対して交渉を行うか、或いは退職も視野に入れなければならない。
 ホープはエクレールを手放すつもりはない。かと言って、エクレールを強引にコクーンに連れ帰るということはしたくなかった。ここ数日、記憶を失くしてしまった彼女がどういった状況になっているのか把握するために様子を見ていたと言ってもいい。
 これまで人と接することがまるでなかった彼女は、はっきり言ってしまえば浮世離れしていた。陽気で素直な種族の真綿のような愛情に包まれて過ごしたおかげで、素直で優しい性格が色濃く出ているその反面、誰かを疑うということを知らない。複雑な思惑が絡み合う人間社会の中では、今のエクレールはまさしく雛鳥だと口にしてもいいだろう。
 ギルの扱い方も知らない。当然、人間が開発した機械の扱い方や、独自の社会ルールも分からない。エクレールが再びコクーンで生活するという選択肢は、彼女にとって大きな困難が伴うのは目に見えている。
 では、パルスで過ごすのか。それならば、まだ彼女の負担は大きくないだろう。しかし、二年間という月日をモーグリの里という独自のコミュニティの中で暮らしてきた彼女が、そもそも人里を望むかどうかはまた別の問題だ。そういった意味でも、実妹であるセラのいるネオ・ボーダムに向かうという現在の目的はけして悪くない。
 同族である人を知ったエクレールが、これから先どういう身の振り方をしていくのか。その生き方に合わせて、ホープもまた生き方を変えようと思っていた。
 それは、これまでの二年間をかなぐり捨てるようなことになるかもしれない。父の理想と信念を乗せて作られたアカデミーを、内側から助けていく。それまでサポートに回っていた息子が離れることになれば、バルトロメイは例え口にしなかったとしても、悲しむことだろう。選択によっては、今まで世話になってきた人たちと疎遠になることも十分に考えられる。ホープのこれまでを捨てていくと口にしてもいい。
 それでもホープはいいと思った。
 自分にとって、何を置いても優先すべき大切な人が生きている。それが、一体どれほど素晴らしいことなのか。もはやホープは、彼女を喪う日々の中に帰れない。それほどまでに、彼女という存在はホープの中で大きく根付いていたのだ。
(ネオ・ボーダムに着いたら……)
 彼女にこれからを聞こう。
 旅の最中、時折記憶の片鱗を見せるエクレールが、もしかしたら第二の故郷を前にして何かを取り戻すかもしれない。逆に何もないことだって十分に考えれる。彼女はすでにエクレールとして二年の年月を確立してしまっているからだ。
 事実としてライトニングがすでに失われ、彼女はエクレールとして立っている。ならば、ホープもまた彼女のことをエクレールとして接することが筋だろう。
(スノウとセラさんにも話さないといけないな)
 エクレールが生きていたことを知れば、きっと二人は手放しで喜んでくれるに違いない。記憶に関してはホープから説明が必要になるだろう。その点は折り合いをつけてもらうしかないけれど、それは彼女たち自身の問題だ。
 エクレールの今後。スノウとセラと対面した時のケア。それから、ホープ自身の今後の身の振り方。考えるべきことは山のようにある。ぐずぐずしていれば、休暇なんてあっという間に終わってしまうことだろう。可能であれば、その期間の内にある程度の方針を定めてしまいたいところだが、エクレールの出方次第だった。とは言え、それらはあくまでホープの都合なので彼女を急かすつもりは今のところない。
「復旧の目処はまだ立たないのか……」
 更新日時が新しくなった掲示板の内容に目を通して、ホープはため息を吐いた。機材が故障しているとのことだが、かなり大きな障害らしく、復旧の目処が立てられないらしい。もしかすると今日明日では直らないのかもしれない。
 パルスの概ねの地形はすでに頭の中に入っている。記憶の引き出しからパルスの地図を引っ張り出して、ホープは思案した。
 迂回路という手段もあるが、そちらはかなり時間がかかったはずだ。チョコボをもう一羽追加でレンタルしたとしても、三日はかかるに違いない。テージンタワーから直接ヲルバ経由でネオ・ボーダムに向かえば一日でたどり着くことは考えれば、かなりの大回りだった。
 とは言え、この旅はあくまでエクレールの旅だ。ホープはただの同行者に過ぎない。幸いなことに、迂回路を選んだとしてもなんとか休暇内にネオ・ボーダムにはたどり着く見込みだ。判断は可能な限りエクレールに任せたかった。
 ――そんな風に、今朝の時点では思っていたのだ。
 ネオ・ボーダムの話をしている内に、懐かしさのあまり『エクレール』である彼女を『ライトさん』と呼び間違えてしまうまでは。

   * * *

 ホープにしてはあるまじき失態だった。
 スノウとセラの話をしている内に、ついかつてのようにライトニングの名前を呼んだ。事象としては、ただそれだけのこと。しかし、立ち上がったエクレールの顔を見れば、ただ呼び間違えただけで終わる話ではないことは明白だった。
 彼女はまるで何かを堪える様に歯を食いしばり、その体はか細く震えていた。アイスブルーの瞳が今にも泣きだしそうに潤んでいる。
 「すみません」そうホープが言い終わるよりも先に、エクレールは踵を返して走り出す。
「クポッ! どこに行くクポ!」
 モグがそう声を上げるまで、ホープは金縛りにあったかのように動けないでいた。
 分かっていたはずだったのだ。ライトニングのことを忘れてしまったエクレールは、すでにライトニングのことを他人として認識しているということは。そうだというのに、彼女に重ねる様にしてライトニングの名を呼んでしまった。失態という言葉以上の言葉が見つからない。
「エクレールさん、待ってください!」
 我に返ったホープが慌ててエクレールを追いかけたものの、彼女は足に後遺症が残っているとは思えぬほどの瞬発力だった。そのまま宿を抜け出したエクレールは、ホープとモグの制止を振り払ってどんどん先に行ってしまう。
「くっ」
 長期戦になれば不利になるということをエクレールも理解しているのだろう。通りに飛び出した彼女は、まるで周囲に紛れることを目的とするように人通りのある方角を目指している。
 とは言え、まだ朝も早い時間だ。人通りが激しくなるまでには時間に余裕があるはず。
 ホープの読みは当たっていた。活動には少しばかり早いこの時間帯は、歩いている人の数自体が少ない。
 障害物を無視して飛べるモグが、先行してエクレールを追いかける。条件だけで言えばこちらの方に分があるはずだ。かつてのように体力不足で置いて行かれるということも、今となってはあり得ない。
 一足遅れて、ホープは角を曲がった。その先で、エクレールを追いかけていたはずのモグがきょろきょろと周囲を見渡している場面へと行き当たる。
「モグ! エクレールさんは?」
「見失ったクポ……」
「見失った? さっきまでこっちの方角に来ていたはずなのに」
「そうなのクポ。途中まではちゃんと見えていたクポ!」
 なのにどこにも見つからないクポ。エクレール、どこに行ったクポ? モグはどこを探せばいいのか見当が付かないようで、うろうろと旋回している。
「エクレールさんは足に後遺症が残っていますから、そう遠くまではいけないはずです。途中で身を隠して、僕たちをやり過ごしていると考える方が自然のはず……。エクレールさんを見失った地点はどこですか?」
「クポ!」
 ホープの言葉に、はっとしたようにモグが飛び上がる。心当たりがあるらしい。元気を取り戻したモグと共に、ホープが来た道を引き返そうとしたその時。
「お兄さんたち、朝から慌ててどうしたって言うんだい?」
 如何にもガラの悪そうな三人組の男たちが、にたにたと卑下た表情を浮かべてホープの前に立ち塞がっていた。
 この手の輩は相手にするだけ無駄だ。無表情のまま通り過ぎようとしたホープの進行方向を塞いで、男は手にしたナイフを弄ぶ。
「おいおい、無視は良くないぜ」
「今、急いでいるんです。放っておいて貰えますか?」
「そういう訳にはいかねぇよ」
 ナイフを持った男とは別の、こちらは頭をツーブロックに刈り上げた男が長い舌を出す。途端現れた銀色の太い舌ピアスに、思わずホープは顔をしかめた。
「知ってるんだぜ? あんたがエストハイム議員の息子だっていうことはよぉ」
「……」
「どうしてそれをって顔してるな? あんたは自分でも思っている以上に有名人なのさ」
 サングラスのスキンヘッド男が覗き込むようにしてホープに顔を向ける。
「こんな辺鄙なパルスまでおいでなすったんだ。丁重におもてなししないとなぁ」
「カカッ! お預かりの間違いだろッ!」
「違いねえ!」
 体格も風貌もそれぞれまちまちだが、共通しているのは三人とも明らかにホープを意識している。さながら小動物を追い立てるハイエナのような醜悪さだ。所かまわず唾を吐く様は、とても知性を持った生物とは思えなかった。
「おっと、抵抗するなよぉ? ボンボンのお坊ちゃんのお飾り武装なんて効きやしねえ。恨むなら護衛を付けなかった自分を恨むんだな」
「くくく、議員からどれだけギルを強請れるかね……。これで当分アレを切らさずに済む」
「まったくだ。いくらあっても足りねえってことはないからよぉ」
 早くぶっ飛びてえ。舌なめずりをしながら、男たちはナイフの他にハンドガンやら鉄製のバールやらを取り出してくる。朝早いとは言え、曲がりなりにも人通りのある場所での暴挙に、ホープはため息をついた。
「唯一の救いは、あの人がいなかったということでしょうか」
 どうやら彼らの目的はあくまでホープらしい。荒事に慣れていないエクレールが巻き込まれるような事態にならなかったことは不幸中の幸いだが、生憎こんなところで時間を潰している暇はない。こうしている間にも、エクレールはどんどん遠ざかってしまうのだ。
「先に行ってください」
「クポッ! ホープも無茶しないでクポ!」
 目配せをすれば、ホープの意図を汲んだモグが高く飛んだ。高ささえとってしまえば、三人組相手では手の打ちようがないはずだ。
 とにかく今は時間との勝負だった。エクレールのことはモグに任せるしかない。
「くそっ、あの精霊も高く売れるだろうに!」
「……要するにギルの話、ということですか」
 ホープのみならず、モグさえも男たちにとっては金づるに見えているらしい。苦々しげな男たちを前に、ホープは再びため息を吐いた。話はもう十分だ。
「エストハイム議員にはきっちり身代金を支払って貰うとして……」
「おいおい、なんだぁ? そのすかした態度は」
 こっちは三対一なんだぜ。お坊ちゃん風情が強がったって――…。そう口にしていたツーブロック男の言葉は、半端なところで途切れることになった。鳩尾にホープの膝が入ったのだ。そのまま白目をむいて、背中からひっくり返る。
「おいっ、テメ……」
 サングラス男が怒声を上げようとした。その言葉が言い終わるよりも、ホープが背後に回る方が早い。ブレイズエッジを握りしめ、金具の部分を首筋に打ち下ろす。
 脳天を揺さぶられては屈強な男も敵わない。瞬く間に二人目も床に沈んだ。
「冗談じゃねえ! こんな強いって聞いて……っ」
 ナイフを握りしめていた男が、あまりに戦闘慣れしているホープの動きに目を剥いている。狼狽のあまり敵前逃亡を図った男の背中を取るのは容易かった。距離を詰め、その首筋にブレイズエッジの切っ先を突き付ける。
「誰から僕の情報を聞いた」
 ホープはテージンタワーに入ってからエストハイム姓を名乗っていない。ジャケットはアカデミー支給のもので、多くの職員が滞在するテージンタワー内部ではけして目立つ格好をしていたわけでもなかった。
 部外者であるエクレールやモグが目に付くのであればまだ分かる。それがどうして、ほとんど誰にも話さずにパルスにやってきたホープ・エストハイムに結び付くというのだろうか。そもそも臨時政府の議員であるバルトロメイ・エストハイムはともかく、ルシであったことさえ公表されていないホープはあくまで一般人であって、顔すら公開されていないのだ。
「それ……は…」
 ブレイズエッジを喉元に突き付けられ、次の手を打ちようがない男は観念したように両手を上げた。仲間はすでに倒れ、ターゲットであるホープは遥かに格上の存在だった。
 保身か義理か。躊躇う男にホープは「早くしろ」と低い声で凄む。ヒッ、と情けない声を上げて男は体を震わせた。
「吐く! 情報を吐くから、見逃してくれ!」
 言葉を促す。ブレイズエッジを喉元に突き付けられた男が観念して口を割ると思われた、まさにその瞬間の出来事だった。
 ビクン、と男の身体が不自然に跳ねた。そのままぶるぶると大きく痙攣し始める。
「おいっ」
 驚きに目を瞠ったホープが声をかけるも、男の痙攣は止まらなかった。咄嗟にその表情を覗き込むと、瞳孔は収縮しており、目から涙、口からは涎が流れ落ちている。彼が異常な状態に陥っているということは一目瞭然だった。
「アッ……がッ、うぐ…ッ…」
「どうした! 何が起きている!?」
「痛ェ……痛エよォ! ぐああああっ!」
 咄嗟に腕を掴むものの、信じられない力で振り払われる。ほとんど反射的にホープは体を引いた。先ほどホープがいた場所に向かって、男が無茶苦茶にナイフを振りかざしている。
(……狙いが定まっていない)
 ホープの隙を突いた行動、というにはあまりにも力任せで無茶苦茶な動きだ。何より、ナイフを持つ男の焦点が定まっていない。あれでは標的を狙おうとしても狙えないではないか。真っ青になったままガクガクと大きく震えている様は、誰がどう見ても異常な状態であるとしか言いようがなかった。
「っ」
 トリッキーな動きで振るわれるナイフを、ホープは寸前のところで躱してみせる。カウンターで肘を入れれば、今度こそ男は吹き飛んで壁に打ち付けられた。受け身すら取らず、そのままずるずると床の上に崩れ落ちる。
「しまった!」
 情報を吐かせる前に沈めてしまった。思わずそうぼやいてから、ホープは考え込んだ。
 あの状態で男が正確なことを喋れたとは到底思えない。ブレイズエッジを突き付けた直後の男の豹変っぷりは、ホープにとって腑に落ちないところだらけだった。理性を失っていたと言ってもいい。一体、彼の身に何が起こったというのだろう。
 涎を垂らしたまま男は微かに痙攣している。歯の間に薬でも仕込んでいたのだろうか? そう考えを巡らせてみるものの、門外漢であるホープには判断が付けられない。
 情報源は突き止めておきたかったのだが、こうなってしまっては仕方がないだろう。肩を落としたホープは、男の腕に不自然な痣のようなものが浮き上がっていることに気が付いた。
「これは……注射跡?」
 何度も射し直したのだろうか。点々と残る痣はほとんど紫色になっていて、見ているだけでも痛々しい。あまりの生々しさに思わず顔をしかめたホープは、そこで聞き慣れた声が近づいてくることに気が付いた。
「クポ~! ホープ!」
「モグ?」
 こちらへ向かって真っすぐに飛んでくるマシュマロボディには覚えがある。ポンポンを揺らしながら声を上げる精霊は、先ほどエクレールを探しに別れたはずのモグだった。
「やっぱりどうしてもホープが心配だったクポ。だから助けを呼んできたクポッ!」
 そこまで一息に口にしてから、モグは倒れている三人に視線を向ける。
「クポッ! ホープが全部倒したクポ?」
「倒したと言うか、様子がおかしくなったというのが正確ですけどね」
「おいおい、助けが必要だって聞いてみれば、こりゃあ一体どういうことだい」
 答えるホープを前に、モグの後ろからやってきた男性が驚いたように声を上げる。
「あなたは……?」
「おう、昨日は世話になったな! ガラの悪い奴に絡まれたって、そのちっこい奴から聞いたもんだからよ。人を呼んで来たんだが、こりゃあ……」
『みなさん、倒れていらっしゃる』
「それは見れば分かる」
 見覚えがあるのも当然だった。昨日修理をしたばかりのバクティと、その持ち主である男性がやって来ていたのだ。丁寧な口調のバクティを前に、男性は困ったように髭をひと撫でした。
「問題はこいつら全員、禁断症状が出てるってことだな」
「禁断症状ですか?」
 尋ねるホープを前に、男性は「ああ」と返答してみせる。そのまま腰を折って、倒れた男たちの様子を調べ始めた彼は、どうやら医学の心得があるらしい。一通り調べ終えてから、男性はため息を吐いて顔を上げた。
「……最近ここいらで流行っているドラッグの中毒者だろうな」
 ドラッグ。そう表現されて連想するものなど限られている。注射跡に、豹変した男の態度。状況証拠から推測される事実に、ホープの表情筋がみるみる強張っていくのが分かる。
「麻薬の類は、臨時政府によって取引が全面禁止されているはずでは」
「建前上はな。だが、広いパルスで完全に取り締まることは難しい」
 パルスは四年前までほとんど未開の大地と言っても差し支えない状態だった。ファルシによって完璧な人間培養繭となっていたコクーンとは真逆で、各々の生物が自由に生息できる環境だったと言っていい。当然、ドラッグの原料となる植物が繁殖していたとしても何らおかしくはない。
「コクーンに比べりゃ、遥かに原材料の入手が楽だからな。臨時政府が手を出しにくいことをいいことに、闇市が横行しているのさ」
 俺は医者なんだが、最近この手の急患がえらく増えてきてな。一度手を出してしまうと、なかなか足を洗うのが難しい。いたちごっこで手を焼いているんだよ。
 そこまで言葉を続けてから、男性は息を吐いた。
「おまけに今出回っている奴は、精神依存と肉体依存が生じる依存度の高い代物でな。摂取量によっては禁断症状が強烈で、廃人になっちまったり……最悪死に至るケースもある」
『なぜ心身に影響が出ると分かっていて、薬物を摂るのか私には分かりかねます』
「バクティはそうだろうな。だが、人間には強い奴、弱い奴……色々いるんだよ」
 たった一度の快楽でその後の人生を棒に振っちまう。呟くようにそこまで口にして、男性はホープを見上げた。
「おまえさんは大丈夫そうだな」
「ええ。おかげで色々腑に落ちました」
 ドラッグを手に入れるためには、それこそギルが必要だったに違いない。彼らがホープを人質にして、バルトロメイに身代金を要求しようとしていたその動機は分かった。
 しかし、肝心の『誰からホープの情報を手に入れたのか』ということは、結局のところ分からずじまいだ。
「連れを見失ってしまいました。申し訳ないのですが、ここはお任せしてもいいですか?」
 口ぶりは尋ねるものであるものの、ほとんど有無を言わせぬ口調だった。
 テージンタワー内部でドラッグが出回っているとなると、ホープが想定していたものと事態はまるで変わってくる。エクレールは今一人きりで、おまけに彼女は生まれたての雛鳥同然なのだ。医者の男のような人もいるだろうが、悪しき人間が彼女に近づかないとも言い切れない。何より、ホープの情報を売り捌いた相手が、連れであるエクレールのことを把握していないとは考えられなかった。
「昨日一緒にいた綺麗な姉ちゃんかい? そりゃ、早く行ってやった方がいい」
 ああいう美人は目立つからね。良くない輩もいることだし、慣れていないのならなおさら一人きりにしない方がいいだろう。
 男性の言葉はもっともで、ホープは強く唇を噛みしめた。現地の人でさえこの認識なのだ。いくら現地の情報がなかったと言っても、もっと慎重になるべきだった。そもそも事の発端は、ホープ自身がエクレールのことを「ライトさん」と言い間違えてしまったことに他ならない。
「急ごう、モグ」
「エクレールを見つけるクポ!」
 ホープの言葉に、モグもまた神妙な様子になって大きく頷く。
 無性に胸騒ぎがして、ホープは左手に指を添えた。グローブ越しに硬質なリングの感触が伝わってくるのが分かる。
(……どうか、無事でいてください)
 この予感めいたものがただの杞憂であることを祈りながら、ホープは踵を返す。
 二年前のあの日、ホープはライトニングを取り零した。もう二度とあんな思いを味わうのは御免だった。
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