とにかく追いかけて、無事な姿が見たい。
ただそれだけの思いで階段を駆け上がろうとした私とルーティを引き留めたのは、リオンと……意外なことにフィリアだった。

続けたウッドロウさんが言うには、衛兵の目を掻い潜って三人はここへ潜り込んだらしい。私達の脱獄がバレていない以上は慎重に事を運んだ方が有利だ。とつとつとパーティ内の頭脳組に言われてしまえば、納得をする他なかった。

「あいつ……マリーに何かしたら許さないんだから!」

いらだちを隠しきれない様子で爪を噛むルーティ。
思えば、マリーさんと一番付き合いが古いのはルーティだった。レンズハンターとして今まで苦楽を共にした仲間だからこそ、人一倍動揺を隠しきれないのだろう。
……マリーさんを強く思うからこそ、先走ってしまう気持ち。燻り続ける思いで身を焦がしているからこそ、分かる焦燥。平時では考え方も物事に対する捉え方も全く違うのに、今ルーティと同じ気持ちを抱いていることが、少し意外で、でも心強かった。

「何か話し声が聞えるぞ……」

階段を登りきった先の一つの扉。
そこから漏れる声に聞き覚えのある響きが混じっていることに気がついて、私は思わず手を伸ばしかけた。

「おまえはこの剣を持っていた。何故だ?」
「……私がおまえの妻だからだ」

その腕をリオンが掴んで引き留める。
でも、そんなことをしてくれなくても……私の動きはもう止まっていた。スノーフリアの夜の食堂で聞いたマリーさんの内緒話。
ねぇ、私はもしかすると大変なことを聞いてしまっていたの――――?

「妻か、面白いことを言うな。だが……俺の妻は死んだのだ」
「私は死んではいない。ダリス、おまえが私を逃がしてくれたのだ」
「死んだのだ!愚かにもグレバム様に逆らったためにな!」
「私は生きている。ダリス、おまえには二度も命を救ってもらった」
「おまえが俺の妻であるわけがないのだ」
「おまえは忘れているだけだ。思い出せ、サイリルの町を!」

強い響きをもって告げられたマリーさんの言葉に、ダリスの動揺が伝わってきた。

「俺はサイリルから出仕しているが……サイリルがどうかしたのか?」
「ダリス、何もかも忘れてしまったのか?」

そう言ったマリーさんの言葉は形こそ尋ねるようなものだったけれども、悲しみを誘うようなそんな色合いを含んだものだったのは間違いない。

「忘れてなどいない。俺はずっとグレバム様に仕えてきた」
「ウソだ!」
「嘘などではない」

ホットミルクで乾杯をしたあの夜。好きな人がいるはずだった、と呟いたマリーさん。
忘れることの恐怖、忘れ去られたことの虚しさ。今、一体どれだけの思いを抱えてここに立っているのだろうか。

「ダリス、おまえに会って……私は、すべてを思い出すことができた」
「ほう、何を思い出したのだ?」
「私が……なぜ記憶を失ったのか。そして……その時、何が起きたのか」
「そうまで言うなら、話してみるがいい。おまえが取り戻したという、その記憶を」
「……………」
「どうした?俺とおまえは夫婦で……サイリルで暮らしていた、とでも言うのだろう?」
「そうだ……私達は平穏な時を過ごしていた。町が炎に包まれた……あの時までは……」
「炎に包まれる!?どういうことだ?俺はずっとサイリルに住んでいるが……サイリルが大火に見舞われたことなど、かつてない」
「いや、ある。今では鮮明に思い出せる。昨日までは記憶がなかったとは信じられないくらいにな」
「………続けろ……」
「初めから話すぞ」
「構わん……」

そうしてマリーさんは、この2年間の間求め続けたであろう記憶をひとつひとつ丁寧に掘り起こしていくかのように語り始めた。
時に強く、悲しく、そして微笑みながら。ようやく腕の中に取り戻した大切な思い出達を慈しむかのように。そんな風に語っているだろうなって、ここにいても伝わる。

そして私達は、そんなマリーさんの言葉に耳を傾けることしか出来なかった。

「今から10年以上も昔、ファンダリアは動乱の渦中にあった。そのため、当時のサイリルには自衛団が組織されていた。サイリルとスノーフリアを結ぶティルソの森で……かなり大きな戦いがあった。戦の顛末は知らないが、いやがうえにも治安は乱れた」

咄嗟にウッドロウさんの顔を見上げた。ファンダリアで育ったのならば、その頃の状況にも詳しいのだろう。
私達の期待に応えるかのように、ウッドロウさんが大きく頷く。それで充分だった。

「サイリルの自衛団は歩哨を立てて治安維持につとめ……その自衛団にいた若い剣士が、早朝の歩哨任務で一人の侵入者を発見した。胸壁の片隅にうずくまるように座り込んで……薄汚れた服……板金のはがれた鎧……そして刃こぼれした剣を抱くように握り締めていた。もちろん、若い剣士にも一目で敗残兵とわかった……餓えと寒さで疲れきった顔……涙をたたえた目は、恐怖に脅えていた。敗残兵が捕まった後、どんな扱いを受けるのか……若い剣士はそのみじめな姿に同情したのか……自分の家に、かくまい……その命を助けた」

想像するに、苦しい過去だったのだろう。
それでもマリーさんは語っていた。その表情は扉一枚に隔たれて見る事も叶わなかったけれども、微かに微笑んでいるのだろうな。そう感じさせるような話し方だった。

「ダリス、おまえは自衛団に居たことがあるだろう。その時、助けられた敗残兵というのが……それが、この私さ………少しは思い出してくれたか?」
「確かにその昔、俺はサイリルの自衛団に居たことはある。妻をめとったのも事実だ。だが敗残兵を助けたこともなければ…………………俺は妻と……どこで出会ったんだ?」

そうして語られる一つ一つの出来事が、ダリスに問いかける。
改めてダリスは自分の記憶に疑問を持ったようだった。

「ううっ……思い出せない……」

けれども、手がかりは微かな苦痛と暗闇ばかり。

マリーさんの言葉を私は全面的に信じてる。それは今までマリーさんと過ごした日々が、彼女が信頼における人物だということを教えてくれるからだ。
でも、ダリスは?マリーさんの言葉と彼の言葉には食い違いがあり過ぎる。そして彼はその違いをどう受け止めるか。この僅かな時間でマリーさんがどれだけ彼に記憶を伝えられるかということに懸かっているのだと、今、ようやく理解した。
しかもそれだけではないのだ。伝え、そして理解してもらわなければ意味がない。
これはマリーさんだけの記憶探しの旅ではなかったのだ。ダリスというマリーさんを支え続けた彼と共に、失ったものを取り戻すための旅だったのかもしれない。

「ダリス、おまえは……私と同じように記憶を封印されている。私が思い出させてやる」
「黙れ!!わたしは1年前、グレバム様に抜擢され、ハイデルベルグの警備を任されたのだ」
「1年前?さっき、おまえは『ずっと』仕えてきたと言ったな?それとも1年というのが『ずっと』なのか?」

ダリスは抵抗する。
マリーさんは問いかける。

本来ならば捕虜であるマリーさんの方が立場が低いはずだ。
問い詰められてもなお、彼がマリーさんに手を挙げようとしないことは僅かな望みと思ってもいいのだろうか?

「偽りの記憶には……つまらない矛盾が満ちているのだな。ダリス、それはまったくのでたらめだ。真実を話そう……」
「うるさい!!もう、たくさんだ!!」

ダン、と大きな物音がたった。
咄嗟に体が動きかける。ダリスがマリーさんの言葉を拒んでしまったら、この綱渡りをしているような状況もおしまい。私達はマリーさんを助けるべく、動かなければならなくなってしまう。
けれど、私を引き留めるリオンの腕はまだ離されないままだった。つまりはまだということなのだろう。
………大事な人がすぐ傍にいるのに。なんて、もどかしい。

「真実を聞くのが恐いか?」
「なんだと?!」
「私が真実を話した時、おまえはすべてを失う。でも、それは……自分を取り戻すことだ」
「ふん、こざかしいことを……いいだろう、聞いてやる。その後で処断してくれるわ!」
「好きにすればいい……私は、おまえのおかげで自分を取り戻した。つらい記憶ではあっても……自らの生い立ちが知れないよりはいい……」
「……………早く、話せ」
「そうしよう……」

静かになった部屋に、思わず安堵の息が漏れた。
マリーさんの気持ちを思えば踏み込めない。マリーさんの安全を思えば踏み込むべきだ。相反する思いに板挟みになって、どうしようもない焦りだけが残る。
……私は一体どうすればいいの?掴まれた腕の強さだけが今は頼りだった。

「どこまで話したか……ともかく動乱のファンダリアはやがて賢王イザークによって平和を取り戻した。長かった……おまえに助けれられてから4年が経っていた。その間に、私もサイリルの自衛団に入り……そして、ことあるごとに、町を守るために戦った。ダリス、おまえと共に戦った4年間は……辛くもあったが、本当に充実した4年間だった」

語るマリーさんの言葉に、私は、膝が崩れ落ちそうになった。

「おまえは、私に色々なことを教えてくれたな。おかげで私も、読み書きくらいはできるようになった。それと……戦場で干し肉をかじるような生活をしていた私に……料理を教えてくれたのも、ダリス、おまえだったな。おまえは獣肉のポワレが好きで……私はおまえに喜んでもらいたくて……がんばって、慣れない料理に取り組んだんだ」

例えば、リオンと一緒に討伐を命じられた時。
私がミスったりすると、とっても怒るんだ。
でもミスの後の成功を知ると、ほんの少しだけ、ちょっぴりだけリオンは優しくなる。
マリアンさんとリオンと三人でプリンを食べた。
私は料理が下手だったから、マリアンさんに憧れたっけ。今でも羨ましいのは変わらないけど。

……そんな、宝石みたいにきらきらしている思い出のカケラ。
マリーさんも同じように抱きしめて、同じ時間を共にしたはずの人に思い出してって、一緒にいたよねって語りかけてるのかな?

今でも大好きな人に、伝えたいのかな……?

「そんなこんなで、私が人並みに生活できるようになったころ……世の中は平穏になった。その時の、私は……世間の安穏とは裏腹に、心穏やかではいられなかった。私はダリスの家に転がり込んだ居候……そんな引け目があったから。自衛団は時勢に従って縮小され……私は自分の居場所を見失いかけていた。なかば自暴自棄になっていた私に……ダリス、おまえが掛けてくれた言葉……」

扉の向こうで微かに漏れ始めた吐息に、思わず私まで釣られてしまいそう。

「………あの言葉は心に染みた……」

好きな人に言ってもらえる言葉に一喜一憂して。
伝えられた言葉が、何よりも望んでいたものだったとしたら………それはどれだけ嬉しい事なんだろう。

「それから次の4年間は……特に何事もなかった。平穏無事な4年間……しいて言うなら……子供に恵まれなかったのが、少しさびしかった。だが今思えば、それは幸いだったのかもしれない」

そしてマリーさんは記憶を失うまでの全てを語った。

「そして……そして今から2年前……サイリルの町は何者かに襲われた。 町の人々はティルソの森に難を逃れたが……防戦に加わった者はことごとく殺された。最後に残ったのはおまえと私の二人のみ……状況は絶望的だったけど不思議と恐くはなかった。私はおまえと一緒だったから恐くなかったんだ。一緒だったから…………………でもおまえは……おまえは最後になって二人の志を裏切った。死に臨む、その前に……私の記憶を封印し、そして逃がした」

掠れた声と共に、ずっと言い忘れていた言葉をようやく伝えて。

「自分は死すとも……か……気持ちは分かるが……つらすぎるぞ…………………」

相手ともう二度と会えないかもしれない。そう知った時の絶望はどれほどのものだったのか、考えたくもない。
だって、ダリスと同じように……もしもリオンがいなくなってしまったとしたら。
想うだけでもこんなに辛いのに、そんな、そんなことになってしまったら……私はきっと気が狂ってしまう。

「………どうした、終わりか?」
「ああ、これが全てだ……」
「残念だが……俺は知らないことだ。………っ……なんだ、この記憶は……っ!そ、そんな、まさか……サイリルの町で……っ!!」
「その記憶こそが真実なのだ…っ……!」
「何か……懐かしい……響き……うおぉぉ……あ、頭が……」
「ダリス、しっかりしろ!」

ダリスはマリーさんの言葉に耳を傾けた。
後は耳にした言葉を咀嚼して、自分の中に植えつけられた記憶と照らし合わす時間さえあれば良かった。……そのはずだったのに。

「お、おまえらっ!脱獄だな!」
「ちぃ!」

なんてタイミングの悪い。階段の下から現れた衛兵がどやどやと仲間を呼んで階下から迫る。
ウッドロウさんの舌打ち一つじゃ足りないくらい、空気の読めない奴ら!

「私は……誰だ……」

こんな時に、邪魔をしたくなかった。ようやく会えた二人だったのに……!!
逃げ場は部屋の中しかなくて、私達は転がるようにして広い空間の中へ飛び込んだ。

「た、隊長!」
「くそっ、分からん……」
「まずいぞ、マインドコントロールが!?」

………予想はしていたけど、やっぱりこんな事態だったのね……。
あーもーしっかりその言葉、この耳に焼き付けたから……学者を舐めんなよ!徹底的に調べ上げてあげてたっぷり後悔させてあげる……!!

「ダリス隊長。あなた様のお力で、こいつらを始末してください!」
「隊……長……?……………そうだ!俺の名はダリス。グレバム様の忠実な部下だ!よし、おまえたち、やるぞ!」

せっかく解けかけた記憶の糸が、またがんじがらめにされて、汚い塗装を施されてしまう。
あれだけ想いを込めてマリーさんが伝えていたのに……!引き裂いて、弄んで。こいつらは一体何様なんだ!

「ダリス、やめろ!」
「うるさいっ!!」

叫ぶマリーさんの体を、ダリスが突き飛ばす。
そして、それが合図だった。

「グレバム様に歯向かう愚かな奴らめ!死んで詫びるがいい!」

愛し合っていたのに、誰よりも信頼を誓い合った二人だったのに。
どこをどう掛け間違えて、二人は同じ剣で傷つけあうことになってしまったのだろう―――…





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09.3.23執筆
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