数日間に渡った航海の終わりは、思いがけず唐突なものだった。
ぼんやりと海の向こう側に島影が映り始め、ようやくその形が肉眼でも確認できるか出来ないかといったところ。

「………これ以上、船を近づけることは出来ないわ」

島の姿を確認したイレーヌはそのまま船を留めるよう指示を飛ばし、一行に残念そうに言葉を告げた。

「構わん、ここでいい」

この船でアクアヴェイルに近づくにはあまりにも目立ちすぎるということは、でも簡単に推測できた。本来ならばレンズを運ぶため、オベロン社の規模の大きさを知らしめるためである輸送船は、船自体の規模も大きく、また、独特の造りゆえに目を引く。そんなものが鎖国状態の敵国の前に現れたのならば、何を言われるか分かったものではない。下手をすれば戦いを仕掛けられるだけでなく、戦争への口実にもなりかねないのだ。そうなってしまえばその責任を被らなければならないのは真っ先にイレーヌになってしまう。
そう言った意味を考えると、寧ろここまで危険を冒して近づいてくれたイレーヌには感謝することこそが正しいのだろう。

「ううん、それよりもここまでありがとう。イレーヌさん」

だからは、誰よりも真っ先にイレーヌに感謝を告げた。そうして帰路へ着く旅路の無事を。
次々に告げられる仲間達の感謝の言葉に、イレーヌは微笑んで手を振った。

「………ありがとう。皆こそ、気をつけて。何があるか分からない土地なんだから」
「はい。勿論っ!」

こんなにも素晴らしい仲間達に恵まれているんだもの。ノイシュタットで皆に助けてもらったように、これからもし何かあったら私が全力で皆を守るつもりだ。
それが支えてくれた仲間達に対するなりの精一杯のお礼の仕方、だと思っている。

「それからちゃんにお姉さんから餞別の言葉」

力いっぱいの返事にイレーヌはにっこりと微笑むと、の耳へと口を寄せて一言。

「頑張ってね」
「…………〜〜〜っ」

どうやらたった数日の間の出来事でもイレーヌにはすっかりお見通しだったらしい。
くすくすと大人っぽく悠然と微笑むイレーヌとは対照的に、酸欠の魚のようにぱくぱくと真っ赤になって口を開いたの姿はさぞかし仲間達には不思議に映ったに違いない。

「イレーヌさん!」


楽しそうに笑うイレーヌに抗議の声を上げるを見て、スタン辺りはどうしたんだろ、と間の抜けた声を上げて首を傾げていた。ルーティはイレーヌの思わせぶりな発言に心当たりがあったのか、こちらはニマニマと楽しそうにを見つめている。

、あとでちょーっと聞きたいことがあるんだけど?」
「ないないない!何にもないからーっ!!」
「なあなあ、、どうしたんだ?」
「あー、もう男はこういう会話に入ってこないって相場が決まってるでしょ!デリカシーがないわね!」
「な、なんだよルーティ!俺ちょっと聞いただけじゃないか。なぁ、?」
『スタン、こういう時の女の子にはそっとしておいた方が……』
『……ほっほっほ。手遅れのようじゃわい』
「う〜〜〜〜あ〜〜〜〜っ!」

真っ赤になって頭を抱え始めたに、タイミングがいいのか悪いのか、いつものようにイラついたリオンの怒鳴り声が向けられた。

「貴様ら、出発するんだろうが!さっさとボートに乗る準備くらいしろ!」

悲鳴のような同意の声が上げられたのは、言うまでもないことだったのかもしれない。





「………神よ………感謝致します」

頼りない浮遊感からの開放。踏みしめた大地は固く、ようやく陸地に上がれたことを実感する。そうして真っ先にフィリアが上げた言葉は、神に対する感謝の言葉だった。

「ほんと、転覆しなくて良かったわね」

泳ぎが苦手だ、そう言ったフィリアは小船の上では怯えっぱなしだった。何せ船から陸地までの距離は随分あったのだ。備え付けられていた小さな帆の助けがなければもっと時間がかかっただろう。
生きた心地がしなかったであろう時間から開放されたフィリアは、ようやく一息つけたようだった。もし船が転覆してしまったら助けて泳ぐつもりだったとしても、こうして安堵の息を吐くフィリアの姿にようやく胸を撫で下ろす。

「何はともかく、シデン領に着けて良かったよ」

アクアヴェイルは三つの島から成り立ち、それぞれに公国が存在する。公国の名はモリュウ、シデン、トウケイ。建国時に国を治めた治世者の家名を領地の名としたことが由来らしい。ワビサビという独特の文化と風習を持った国というのが、現段階でが知っているアクアヴェイルに関する知識だった。

セインカンドと敵対関係にある国家であるので、アクアヴェイルに出入りをする者の話は滅多に聞くことが出来ない。そのためここにいるほとんどの者は、アクアヴェイルに関しては書物といった物を介した断片的な知識しか持ちえず、これから先見通しが利かないことに少なからず不安を持つのは仕方がないことだったのだろう。

少なくともはそうだった。船に乗っている時は、まだ現実味がなかった。だから暢気にも興味があるだなんて思うことが出来たけれど、いざ知らない土地に着てみればまるで不安になる。ざわざわと落ち着かない気持ちが動き出す。

「―――なんだかワクワクするな」

だから、スタンがそう言った時には本当にびっくりしたのだ。純粋に、ただそう思った彼の言葉に。

「あんたはまた!ここは敵国なのよ、もうちょっと危機感くらい持ちなさいよ!」
「そんなことぐらい分かってるよ!……ただ、ここってセインカンド人は滅多に入ることが出来ないんだろ?そう考えるとさ、なんかこう―――とにかくそう思ったんだよ!」

暢気なものねぇ、とルーティが半眼でスタンを見つめている。それにスタンはいつものように応戦していたけれど、やっぱりいつものように旗色が悪い。リオンの呆れたようなため息に抗議を上げたために辛口の返答を返され、やっぱりいつも通りの展開になった。

―――そう言えば、いつもはこうだったじゃない。

しょんぼりと項垂れるスタンの後姿を眺めながら、噛み締めるようには思った。
たった一年ほど前までは、不本意では合ったけれど自身のこのどうしようもない位の位置把握能力の欠落、つまりは方向音痴のために見知らぬ土地に行く経験は呆れるほどに豊富であったこと。そうしてそんな経験が人よりちょっと多かったから、どんな場所にだって結構楽しんで進むことが出来た。正確に言ってしまえば、半ばやけくそ気味にただ驀進しただけのことなんだけれども。

旅から離れた一年間。たったそれだけの期間に臆病になってしまった自分が少し恥ずかしい。学者として、未知なる物への探求を求めるものとして、新たなものには常に関心を持っていたい。そう思っていたのは確かなことのはずだったのに。

「ねぇ、スタン」
「………なんだよ。も変って言うのか?」
「そんなこと言わないよ。だって私もちょっとワクワクしてるもん」

そう言ったの言葉に、さっきまで萎れていたスタンの表情がぱっと明るくなった。そこにすかさずルーティが、無理にスタンに合わせる事なんてないのよと言ったけれど。

「だって知らない土地って楽しみじゃないっ」

不謹慎かもしれない。でも、不安に思うよりは明るくて楽しい方向に物事を捉えたい。そうやって進んで行きたい。そう思っていたことを今更ながらにスタンに再確認されたような気持ちだった。

そう言えばあんたもそっち側だったわね、とルーティがまた半眼になって二人を見つめる。それにフィリアがくすくすと笑い声を上げて。リオンは付き合いきれんと言って、小船をさっさと人目に付かないよう移動させる指示を飛ばす。そんないつも通りのやり取りが、やっぱり一番安心した。





シデン領にはバティスタの姿はなかった。
試作段階であったティアラはバティスタがシデン領にたどり着いた所までは反応を示していたが、その先の正確な位置までは把握することが難しいらしい。結局情報収集がシデン領での主な行動となったのだが、その時偶然老婆から詳しい話を聞くことが出来た。老婆の話によると、バティスタはシデン領からモリュウ領へと居を移し、なにやら良からぬことを行っているらしい。バティスタの行方が分かっただけでも十分な収穫だった。船が出せない状況だったため、一行はそのままシデン領から繋がる海底洞窟を抜け、モリュウ領へとたどり着いた。

「どうかお許しを……!この子に悪気はなかったんです!」
「ならん!そのガキがワシにぶつかってきたのだ。ならばどうしようとこちらも勝手が出来るというものだろう」

そんな……!震える体で我が子を抱きしめながら、女性は悲痛な声を上げた。

一行がモリュウ領にたどり着いてすぐのこと。あろうことか街の真ん中で、衛兵が一般市民であるはずの親子に手持ちの武器をちらつかせながら近づいた。
明らかに街の治安を守るものとしての自覚もモラルもない。ただ力を持たない弱者に対しての歪んだ優越感に浸りたいがために振りかざされる、一方的なやり取りだ。近くに同じような職種の人間が幾人かいたが、彼らは男のやり取りを止めるでもなく、ただにやにやと事態をはやし立てるだけだった。道往く数少ない人々は関われば次は自分と思っているらしく、そそくさと身を潜めて遠のいてゆくだけだ。
この街が―――いかに荒んでしまっているのか、チンピラもどきが街を闊歩している様子からどうしようもないくらい良く分かった。

「なにとぞ……なにとぞお慈悲を!」
「よし分かった。そこまで貴様がそのガキを庇い立てすると言うのなら」

懇願する女を見下ろした男の顔が、醜悪に歪んだのを遠目からでもはっきりと確認することができた。

「…………そのガキ共々公務執行妨害ということで切り捨ててやる」
「そんな……!?」

いとし子を抱きしめて、女はあまりの衛兵の言葉に顔を蒼白にさせた。

「…………」

力を持たない弱者を一方的に弄って、それを喜んで。なんて、醜い。汚い。じわじわと嫌悪感が広がっていくのを感じる。許すことが出来ない理不尽が目の前で行われることに、どうして無関心でいられるだろうか。
剥き出しの剣をちらつかせて卑下た笑みを深くした男に、もはや我慢の限界だった。

剣圧が空を切る。握り締めた右手が、思いっきり振り上げられる。

「「いい加減にしろっ!!」」

スタンと、二人の息が見事に重なり合った瞬間だった。

「馬鹿野郎!」
「あんた達に剣を持つ資格もないっ!」

宙を見事なまでに弧を描いて飛んでいった男に向かって、しっかり文句を言うことは忘れない。多分聞こえてはないだろうけど。
とりあえず、ばっちり息が合ったスタンと二人でハイタッチ。

「馬鹿は貴様らだ!」

そんな二人に飛んできた叱咤は、怒り心頭の客員剣士殿からだった。
関わり合いにならずにすんだものを、とか言っているような気もするけど、この際気にしないことにする。だってあんなのを見せられてしまったら、絶対に反応せざるを得ない。って言うかスルーなんて無理。

「………まずいぞ」

この騒動のスキに親子は上手く逃げたようだ。いつの間にか消えた二人に、ひっそりと安堵の息を漏らす。けれど、そう思っていられたのも短い間のことだけだった。

「これ、どーすんのよ」
「………あ、あははは」

いつの間にやら一行は―――衛兵に囲まれていた。
多分、いや十中八九、その原因はさっき(斬り)殴り倒した衛兵隊長の一件のせいだろう。

「この数を裁けば、確実にバティスタの耳に入るぞ」
「え……えへ?」
「何を誤魔化す気だこの考えなし」
「え、え〜っと………とにかく逃げろ!」

スタンの慌てて上げられた号令に、一も二もなく一行は駆け出していた。は一応飛び出してしまったことに対する責任感からか、先陣を切って兵をなぎ倒し、退路を確保する。そこに援護でまずスタンが、次にルーティ、マリーそれからフィリア。後方にリオンが立って、到着早々モリュウ領内をひた走る。

「なんで……着いた……早々っ!」

息を切らせながら上げたルーティの言葉にスタンと二人で謝罪をしながら、それでも言い訳は忘れない。

「「でも、見過ごせなかったんだもん(よ)!」」

後で、ルーティかリオン辺りの説教を免れないことは確定事項だった。


走っても走っても衛兵は後からやってくる。というか、寧ろ数が増えているような気がするのは気のせいだろうか?ばたばたと騒がしく響く足音を気にしながら、は滅茶苦茶に走った。地理なんて一切気にしない。迷うことに頭を悩ませる必要がなかったので、ある意味とても走りやすくはあったけれど。
はあはあと誰よりも乱れた呼吸を繰り返していたのはフィリアだった。運動が苦手なフィリアにはこの長距離走は堪えるものに違いない。若干皆よりも遅れ始めたのが何よりの証拠だった。

「………やばっ」

後ろの様子を気にしすぎて気付くのが遅れてしまった。入り込んだ小道は渡し舟を通す小さな船着場になっており、すぐ隣は水路が通っている。要は行き止まりだ。

まずい、と声を上げかけて慌てて口を閉じる。ようやく距離をとれたかと思った足音が、また近づいてくる音が聞こえたからだ。

(ど……どうしよう、どうしよう、どうしよう!)

最悪のケースは実力行使だろうが、それをしてしまえばせっかく内密に乗り込んだことがバティスタに知られてしまうのは時間の問題だろう。そのため出来れば避けたい事態なのだけれども、このままだと―――……

「こっちだ!」

低い男の声が聞こえたと思った次の瞬間には、手のひらを掴まれていた。そのまま、ぐるりと世界が回る。男の声にどこかで聞いたことのある響きを感じて、意識が移りかけたほんの僅かな時間の間の出来事だった。

気が付けばの視界は暗転していた。





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07.4.24執筆
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