もしかしたら僕は、置いていかれるような気がしたのかもしれない。


リオンの世界はダリルシェイドの屋敷の中で完結していた。小さな世界。リオンがいて、シャルティエがいて、マリアンがいる。……ただ、それさえあれば良かった。そうだと信じていた。

けれどある日、その世界に一人の人間が現れた。
『彼女』は変なところで強引な所もあるけれど、妙に気が小さくて、恐る恐るリオンの世界に入り込んできた。この程度、無視していれば消えていなくなるだろう。始めはそう考えていた。
でも、彼女はいなくなったりはしなかった。小さな世界にいつの間にか上がりこみ、へらりと笑って、いつの間にか世界の一部になっていた。そしてそれを心の奥底で分かっていながらも、リオンは認めたくはなかった。ただ、それだけのことだった。

本来頭の出来は良い筈なのに、『彼女』は信じられないほど要領が悪かった。その上不器用だった。けれどいつも、あのだらしがない抜け切った笑顔に毒気を抜かれて、何となく憎めない存在になっていた。
そうして『彼女』はリオンとシャルティエ、そしてマリアンの三人だけの世界を壊して、新しい世界を創り始めた。それに憤りを感じながらも、心の奥底でどこか心地よいと思い始めた……その矢先のことだった。

『彼女』は世界を飛び出して、また新しい世界を創り始めたのだ。

それがリオンには酷く腹ただしい事だった。何だか裏切られたような気持ちになったのかもしれない。期待なんて最初からするものじゃないと、あれほど口にしていたと言うのに。

……だから言ってやったのだ。『彼女』が最も傷つくであろう、効果的な言葉を。





ぽたり、と小さな雫が空から落ちてくる。
そしてそれは、後から後から降り注いであっという間にリオンの衣服を湿らせてしまった。

(――……鬱陶しい)

肌に張り付く衣服の感触が酷く不快だ。顔をしかめながらも、リオンは雨の中を歩くことを止めたりはしなかった。
……雨音は、まださほど大きいものではない。水分を含んで重くなったマントを翻して、リオンはらしくもなく目的地を定めることなく歩いていた。多分、考え事をしたかったのだと思う。

『……風邪、引いちゃいますよ』
「これしきで風邪を引くほどやわな鍛え方はしていない」
『それもそうでしたね』

そう言ってシャルティエは苦笑を漏らした。

『でもあんまり打たれてると体が冷えてしまいますから、雨宿りした方が良いですよ』

僕だって錆びるのだけは勘弁ですから。軽口を叩きながら、彼は続ける。

『――……無理しちゃ、駄目です』

ぽたり、ぽたりと雫が跳ねる。
いつしか雨は大粒の雫となって、垂れ込める雲の隙間から降り注いだ。落ちる雨粒が痛いくらいだ。でも、それでもリオンは雨の街を歩き続けた。
シャルティエの助言をまるで無視するつもりではなかった。ただ……なんとなく、このままでいたかっただけ。

「………散ったか」

何となくたどり着いたその道は、すでに桜色に染め上げられていた。

桜並木。遠い昔咲き誇る桜に惹かれて、何度となく歩いた道だった。今年も立派な花が咲いていた。……もう、この雨ですっかり花は地面に落ちてしまったけれど。

そういえば、昔、迷子の少女を連れて歩いたのもこの道だった――……

今となっては憎々しい記憶。
でも、当時は彼女を助けることが出来たのが輝かしくて、誇らしくて………嬉しかった。

母親と楽しそうにこの道を歩いていた、小さな小さな女の子。手を繋いで、笑い合って。小さなリオンの理想が、そこには確かにあった。
その子が、途方に暮れた表情で立ち尽くしている。道の真ん中で今にも泣き出しそうな顔で、誰かの助けを求めている。……助けてあげたかった。あの眩しい笑顔を、もう一度見たかった。

その笑顔が次第に引きつっていく。……きっとそれは走り出す手前、が最後に見せた表情だ。
どこか途方に暮れた、今にも泣き出してしまいそうな酷い顔。でも、もう手を差し伸べることはない。

だって今度は僕が、あの子を迷子にさせてしまったんだから。










パシャ、と水を撥ねる音がした。


こんな雨の中、それは大しておかしな音ではなかったと思う。大雨の中、慌てて家に帰る人なんてどこにだってある風景だろう。
でも今日だけはなぜかその音が耳についた。差した傘を傾けて、ロイは音のした方角に視線を向ける。

ちなみにこの傘は使用人用にと貸してもらったものだ。ロイがこんなに立派な傘を持っているわけではない。風邪でも引かれたら、わたくしが困りますわ!そう言ってシャーロットに押し付けられた、というのが正解だった。

それは何かの予感だったのかもしれない。視線を向けた先には見慣れた銀色の光を持った人影が、雨の中傘も差さずに走っていた。

「あれ、じゃん」

どんどんロイの近くまでやってくる彼女に、傘くらい入れてあげようと思って声をかける。

だってこんなに酷い雨だ。俺達みたいな奴は雨宿りできる場所とか知ってるし、多少は濡れたってへっちゃらだけど、は引篭もりの研究オタクだろ?あんなもやしみたいなやつがこんな雨に打たれたら熱でも出しちまう。そしたらなんで傘を貸さなかったの、とシャーロットやミシェルに責められることなんて分かりきったことだ。

「こっちに…………って、え……?」

雨音がうるさい。ザアアと降り注ぐ雫の立てる音が、何もかもの音を奪い去っていった。
きっと……そのせいだ。声をかけたロイにが気が付かなかったのは。そのせいだと思いたかった。

「………ッ……!」

握っていた傘が、水溜りの中へ小さな音を立てて吸い込まれていく。
けれどそんなことなんて気にならない。ただ夢中でロイは駆け始めた。走らなければ、と思った。

すれ違った彼女の顔。それは今まで見たことも、想像したこともなかったくらい………悲痛なものに彩られていたから。

ッ!……………ッ!!」

一年前からずっと憧れていた。それはイレーヌさんに抱くものとは、ちょっと違う。……とにかく、は特別なんだ。

だから俺は、ただに追いつきたい一心で今までやってきた。どんなに上層のやつらに言われたって、蔑まれたって、仕事が大変だって……頑張ってきたんだ。が遠くに行く決断をしたのを応援したのだって、対等になりたかったから。

俺よりずっと手先が不器用でさ、髪を梳くのもろくに出来なくて。料理なんてやらせようものなら、何もかも真っ黒に焦がしてさ。みでぃあむ、どころかヴぇるだん、だってーの。いっつも道に迷って。ミシェルよりもずっとずっと手がかかって。
……でも、あの笑顔だけはいつだって眩しかった。輝くようなあの表情を見ると、いつだって暗い気持ちが吹き飛んでいった。これからの不安が嘘みたいに消えていった。が歌うと、心が躍った。どうしようもなく……焦がれた。

ロイがここまで変われたのは、きっとのお陰だった。

「………ッ……ーーーーーーーーーーーッッ!!!」

だからあの人の今にも泣き出しそうな表情が信じられなくて、胸が締め付けられて。どうしようもなく苦しくなったんだ。





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07.4.8執筆
07.4.20UP