「レクシアが、だって?」
街の喧騒から隔離されたかのように、レクシアを取り巻く空間に静けさが広がっていく。
って………あの、?」
リアラが指した『あの』とは、彼女に対する様々な悪意ある憶測のことだろう。恐らく騒乱後に創作された個所がかなりあるだろうが、そこに揺るぎない事実が混じっていることは確かだ。彼女の性根はともかく、少なくとも同性の少女にさえ眉をひそめられるほどにという存在は悪評が立ちすぎていた。先ほどの石碑の一件で彼女に対するパーティ内での認識に多少変化はあったようだが、それでも植えつけられた始めの印象は一朝一夕で変わるものではないだろう。……そんなとレクシアの顔が似ているということだけは、出来れば知られたくなかったのに。
「……ってどう考えても冗談だろ!大体例の騒乱からもう18年経ってるんだぜ?年齢的にもありえねーだろ。なっ、レクシア?」
ことさらに『レクシア』の箇所を強調してロニがレクシアに笑いかける。
「………あの。その、すみません。わたしには何の事だかまったく分からないんです」
ロニの言葉で我に返ったのだろう。呆然と肩を掴んだまま見つめてくる男と、背中に貼りついて泣きじゃくる女に困惑したようにレクシアは言葉を続けた。
「申し訳ありませんが―――…」
………この、馬鹿野郎……っ…」
くしゃり、と男の顔が歪んだ。
気の強そうな、見るからにプライドの高そうな男だった。そんな大の大人が街の中で人目も憚らず、恥も外聞も振り払って大粒の涙を落したのだ。そしてそんな男を払いのけて無関心でいられるほど、レクシアは非情な女ではなかった。
「……っ!……なんで、どうして……おれたち、約束しただろう……?」
「おねえちゃん……おねえちゃん……!」
喉の奥から絞り出すかのように、これ以上苦しいことがあるわけないといったように、悲痛な響きで告げられる言葉の一言一言に、レクシアは熱心に耳を傾けていた。その瞳が次第に覚悟の色を帯びてゆく。まるで、彼女こそがであるかのようにレクシアが頷き返す。
「いっしょに新しいおうた、歌おうねって。イレーヌさんのアップルパイ、お花見しながらみんなで食べようねって、言ったよね」
「……うん」
「どんくさい真似するなってあれほど言ってたのに。……なんでがあんな俗の低いこと言われなきゃいけないんだよ……。どうせ……またヘマしたんだろ…?あれほど道と人には気をつけろって言ってたのに……!」
「うん。あんまり上手に出来なかったみたい」
「……馬鹿」
「また道に迷っちゃったんでしょう……?……おねえちゃん、いつも間違えてたもの。……ここ、もう間違えちゃやだよ……?」
「うん。もう迷わない」
「うそ。……おねえちゃん、いつもそればっかり」
「全てが終わったら、きっと帰ってくるよ。………この桜の木に誓う。そう言ってたよな……!遅えよ、遅すぎるよ、大馬鹿野郎……!!」
「うん。……遅くなって、ごめんね」
「……いい。おねえちゃんが帰ってきてくれたから、やっぱりいい……っ」
レクシアを前にした二人は、もはや成人を迎えた男でも、女でもなかった。
ただ純粋に、目の前で柔らかく微笑む女の胸の中で無条件に甘えることが許された子供のように―――実際、彼らの心は18年前に戻っているのだろう。18年前に凍った想いの丈をぶつけるようにしてとつとつと語るそのさまは、まるで母に縋る幼子のようだ。
「……なんか、邪魔みてぇだな」
二人を見つめるレクシアの表情は……それが例え演技だったとしても、春の木漏れ日のような温かさを伴った優しい笑顔だった。
童顔で実年齢よく幼く見えるレクシアが年相応な顔立ちの年上の男と女に縋られている姿は、なにかがちぐはぐではた目から見ていたら奇妙なものに見えるのかもしれない。けれども慈愛に瞳を細め、震える二人の肩をそっと抱きしめたレクシアの嘘は、例えどれほどそれが奇妙なものであったとしても誰かに口出しされる謂われはなかった。
もちろんそんな光景を前に邪魔をするほど、僕たちも野暮な人間のつもりはない。
「行こう。レクシアなら後から来るだろう」
「……ええ。ねぇ、見て。二人ともあんなに嬉しそう」
「俺……ってずっと裏切り者の最低な女だって思ってた。どんなに見てくれが美しくても、心が醜い女は醜女だってな」
嗚咽と笑い声が交る光景を背に、ロニがぽつりと小さく呟く。
いつもは短慮なバカをやるくせにこの時ばかりは困惑したような、それでいてどこか頼りなさそうに遠くへ視線を向けていた。あいつなりに今のこの光景に対して思うところがあったのだろう。
「………今度、ルーティさんに聞いてみてぇなぁ。街の人たちのために石碑残して、子供だったあの人たちにあんなにも好かれて。なのにどうして世界を裏切るような真似、しちまったんだろうなぁ……」
「………そんなこと、僕が知りたいくらいさ」
思わず零してしまった言葉こそが―――僕の本心だった。
古びた家で、ステアからに充てた手紙から彼女の出生にまつわる重要な情報は手に入れた。その情報に踊らされてヒューゴの傀儡になったということも分かった。けれど、始まりのキッカケだけが見えてこない。なぜはヒューゴの元につくことになってしまったのかということだけが、その一番始まりの部分が分からない。
あの時僕は、彼女が未練を残さないように斬って捨てたはずなのに・・・・・・・・・・・



レクシアが港で待っていた僕たちの前に再び姿を現したのは、それから2時間後のことだった。
「ごめんなさい。……お墓参りしていたら、少し遅くなってしまって」
それが誰の墓なのかは、聞かなくても分かった。
おそらく、ロイもミシェルもレクシアがではないことを勘付いていたのだと思う。何せ年齢が年齢だ。現実と妄想の区別の出来ぬ歳ではない。レクシアが墓参りをしてきたということは――――つまりは、そういうことなのだろう。
「……二人の墓はどこにあった?」
「あの丘の上。奥に小さな十字架が立てられていたわ」
「………そうか」
次にこの街を訪れる機会に恵まれるのであれば、二人の墓参りをしようと思った。無邪気でどこか子供っぽいところのあったは、黄色い花がとてもよく似合った。
「ねぇ、カイル。待っていて貰ってこれ以上は本当に申し訳ないのだけど、もう少しだけ出発を待ってくれないかしら?」
いざ港に出発、という段になってレクシアはカイルを呼び止めて言った。
レクシアの性格から判断すれば、ここでさらに時間を消費するということは相応の理由があってのことだろう。そしてその『相応の理由』に先程の件が絡んでいるのは疑いようもなかった。
「レクシア?……うん、いいよ!」
「カイルがいいなら、私も」
「じゃあ俺は美女探しを再開するかな!」
「……だそうだ」
「ふふっ。……ありがとう、皆。でも、ジューダスはこっち。わたしとデートして貰います」
「は?」
「鳩が豆鉄砲くらったみたいな顔してる。……わたしとデートじゃ不満かしら、ジューダス?」
……ここで『デート』などという場違いもはなはだしい言葉が飛び出すとは思えなかった。つまりこの言葉はそのままの意味ではなく、おそらく。
「……いいだろう」
「レっレレレレレレレレクシア、なんでジューダスみたいな気の利かない陰険野郎をお供にっ!!?むしろ俺とデートしませ――――いてぇ!!」
ロニと違ってきちんとレクシアの意図を読んだリアラが、ロニの腕のバンダナを力いっぱい引っ張るという荒業で口を塞いだ。
「いってらっしゃい、レクシア」
「ありがとう、リアラ。一時間後くらいには必ず戻ってきます」
「ええ。気をつけてね」
段々ロニのあしらい方を心得てきた女性陣が末恐ろしい。痛がるロニの姿を眉一つ動かさずににこりと見放すと、レクシアは悪戯っぽい瞳を向けて小さく笑った。
「心強い用心棒さんがいるから、ね」

それから先は、毒にも薬にもならないような当たり障りのない会話が続いた気がする。
……その辺りをはっきり覚えていないのは、会話の中身が実にならないことであったということもあるし、何より僕には大きな気がかりが残っていた。僕はあのひょろりとした男……ロイとは18年前に一度、面識があったからだ。
こればかりはロイが忘れてくれていることを祈るしかなかったが、小さいなりのクセに燃えるような眼差しは、きっとかつての出来事を忘れてなどいないだろう。……ああ、ロイにしてみれば小さく思えるのはこちらの方かもしれない。18年後の世界では、僕の記憶が正しければ彼は28歳だ。そして僕は、あの頃と変わらぬ16歳のままここにいる。
問いただされたら、真摯なあの瞳をかわす自信はあまりなかった。
「着いたわ」
レクシアの言葉で、ようやく僕は堂々巡りにしかならない考えから意識が浮上したのを感じた。そんな調子だったから、目の前の光景は本当に不意打ちだったのだ。
「―――――っ」
「……ここの話をした時、来たそうな目をしていたから」
ひどく静かに、穏やかな表情でレクシアは微笑む。そうして彼女は目の前の小さな十字架を愛おしげに撫でた。


1XXX年XX月XX日 永き眠りにつく』

その十字架には、簡潔な言葉だけを彫りこまれていた。
ここに眠る人間がどんな考え方をしていて、どういう選択をして、どんな生を生きたか――――そんなものを丸ごと削ぎ落として、たったそれだけ。
「わたし、このって子と本当に良く似た顔をしているみたい。……そう、二人は教えてくれた」
胸の中に満ちてくる情景を阻むことなく、レクシアの透き通るような声が染み込んでゆく。
「………の体はここには残ってないんだって。でも、気持はいつか必ず帰ってくるはずだからって……イレーヌさんと一緒にここにお墓を建てたそうよ」
僕が死へと導いた彼女とまったく同じ顔で、レクシアは微かに微笑む。
「わたし、ここでのことは覚えていないことにするわ。あなたのことを問いただす気もない。……それでも気にするなら、白雲の尾根の一件の借りを返したと思ってくれると嬉しいわ」
そうしての墓の前で、とそっくりな顔を持った彼女が言った言葉を、僕が受け入れないでいる理由を教えてほしい――――。
「ジューダス………時間はまだ半刻ほどあるわ。ここでしたいことがあるなら、今するべきよ。あなたの目は先を見通していない」
『裏切り者のを女性の立場から見た意見を言って欲しい』
レクシアに問いかけた、自己満足のための言葉。
古びた家で手にした、レクシアそっくりの顔の幼いと母親の写真をすり替えた。そう。ヒューゴとクリス、ステアとタナットの写真を言い訳のために皆に見せた時、元の写真を見ていたレクシアが違いに気が付かないわけがなかったのだ。……でも、彼女は何も言わなかった。
石碑を目にした時、思わず本心が零れ落ちた。彼女たちの悲劇的な結末ばかりに思いを馳せた自分の目を醒ませてくれた、尊い想い。
そうして知った二人の墓。の想いを留める場所、その言葉にどうしようもなく情景に駆られてしまった。
これだけの情報を、僕はすでにレクシアに与えてしまっていたのだ。聡い彼女に悟られないわけがない。それでも高をくくっていたのは、やはり僕はレクシアを鈍感だったと同一視していたということなのだろうか?そうだとしたら、なんて滑稽な。
……今、はっきりと言おう。レクシアはとは似て非なるまったくの別人だ。
そうでなければ説明がつかないことが多すぎる。
そしてそれは、間違いなくロイとミシェルを思い知らせたことだろう。現にこの僕でさえそうなのだから。
「少しでいい、一人だけにしてくれないか」
剥き出しにされた本心を取り繕うものを、レクシアは何一つ与えてくれなかった。彼女はなんて残酷な女なのだろう。の想いを留める墓の前まで僕を連れてきて、刻々と胸の中を満たしてゆく取り返しのつかない後悔をどうさせるつもりなのだろう。
せめて最後の強がりを口にした僕を、レクシアは笑うことなく静かに頷くことで返事を返した。
そうしてひとりぽっちで残されたの墓を。半刻という僅かな時間だけ、僕は冷たくて固い十字架の前で――――――初めて懺悔した。
みっともないことも分かってる。墓の前でこんな醜態を晒すのも情けないし、いつまで経っても心が現実に追いついていないということを思い知らされるのも惨めだ。こんなの僕らしくない。もっと感情を抑えることが出来る人間だって思ってた。ずっとずっと、小さい頃から耐えることを覚えてきた自分は、これくらいのことは耐えなければいけないはずだった。なにより僕は彼女の想いの前に立つ資格もないし、感情を零すことだって許されないに違いない。でも、それでも……
「………なんで、お前が………」
一言漏らすと、後はもう塞き止められていた洪水のように言葉の渦は溢れ出た。
「どうして死んだ!何で僕の許可なくそんな真似をしたんだ!!」
冷たい石は、何も答えない。それが余計に憎たらしい。
「なんで死ぬんだよ!なんで諦めなかったんだよ!僕は捨てただろう!?マリアンが好きだって、お前に叩き付けただろう!!?なんで!どうして!!あいつの言いなりになんてなる必要があったんだよ………っ…!!!」
熱いものが喉から溢れ出て、迸る。目が痛い。奥がジンジンと痛む。
「お前は生きるはずだったろう!?スタンたちと一緒に世界を救う役割を持っていただろう!!?悪役は僕だけで十分なんだよ!どうして最後まで僕の後を追おうとしたんだ!!」
苦しい。もどかしい。痛い。辛い。――――哀しい。
彼女がいないこの世界が、哀しい。
「いなくなってもこんなに僕に見せつけるなんて………反則だ……」
熟れたオレンジのような光が、全てに等しく影を落としたあの日、が遺した言葉。18年前僕の存在を確かにした言葉を、もう一度渡したいと言ってあいつは微笑んだんだ。
それからノイシュタットへ旅だったお前は、僕の知らない間にこんなにも世界に慈しみを与えていた。捨て置かれ、誰からも忘れ去られた坑道の中にイレーヌと二人で想いを残した。たった一つの小さな石ころに想いを託して、世界の美しさを語った。子供達を守り、助け、明日という未来を信じていた。
処分してしまおうと思えば出来たはずの、森の奥の小さな小屋。は思ってもみなかっただろうが、彼女が育った家はきっとこれからも霧の中を彷徨う旅人を救うことになるだろう。
瓜二つと言っても過言ではないほどとよく似たレクシア。何の因果か彼女は僕と出会い、共に行動し、こうしてお前の想いが遺るこの地へ誘った。
これは全て偶然の出来事なのだろうか?
まるでの生きた軌跡をなぞるようにして、僕は旅をしているような錯覚にさえ陥ってしまう。世界はこんなにもが生きていたという証を見せびらかして、突きつけて、否が応でも僕の胸に刻み込んでくるのに――――どうしては、もうここにいない?手を伸ばせば傍にいた、あの締まりのないふにゃふにゃした笑顔がここにはない?
マリアンのことを愛している。
そのための犠牲はつきもので、はマリアンを救うという歯車の一部になっただけのことだった。ただ、それだけのことだった。
……それなのに、なぜ、こんなにも胸が痛い?
「…………『ありがとう』って僕に言うんだったんだろ……?」
被疑者が被害者を責め立てるなんてまったくもって馬鹿げている。でも、被害者はもう喋れない。あのくるくる変わる表情で、犬っころみたいに僕の後をついてきて、簡単なことですぐ赤くなって、下手くそな誤魔化しをして。……そんな風に、求めなくても降り注ぐようにして与えてくれた柔らかい響きを、彼女が発することはもう二度とない。
「馬鹿者が……くそっ………くそ……!……」
悪態をつきながらも、本当は分かってる。は何一つ悪くない。本物の馬鹿者は、無垢で素直な少女をいいように利用した――――悪意ある存在たちだ。見殺しにするという選択肢さえ厭うとしなかった僕自身だ!
彼女のなれの果ては、今はもうこの冷たい石の十字架を遺すばかり。
柔らかい絹糸のような銀色の髪も、零れ落ちそうなくらい澄んだ大きな瞳も、カサブランカの茎のように細くてしなやかな首筋も、彼女を形どった何もかもが失われて久しい。
そしてその事実を突きつけられるのが、僕はたまらなく嫌だったんだ。
の想いを沈めるにはあまりにも簡素でそっけないむき出しの地面の上に、黒い染みが広がっていく。
「すまない……すまない………………」
今更謝ったって何の意味もないことも分かってる。でも、言わずにはいられなかった。
彼女の好きそうなカップの中で八分咲きの薄桃色の花びらが揺れている。この中に黄色を添えてみたら、もっと華やかになるだろうか。今はせめて、のために僕にでも出来ることを探したかった。



「…………綺麗ね」
最初に告げた半刻通り、レクシアは再びの墓の前に現れた。
その腕に抱えられたのは、色とりどりの花束。おそらく今まで花屋で時間を潰していたのだろう。丹念に選び抜かれた花たちは、ピンと張り詰め、美しい状態でレクシアの腕の中で咲き誇っている。
「じゃあこっちはイレーヌさんに」
そうして多分、二人分の予定だった花の束を丸ごとイレーヌの墓の前に添えて、レクシアは微笑んだ。
の分は、ジューダスが添えてくれたから勘弁してくれるわよね?」
まるで級友に語りかけるようにして、レクシアはの十字架を撫でる。その表情は年齢相応に大人びていて、優しい。ロイやミシェルから話を聞かされたことによって、もしかしたらレクシアはに親近感のようなものを感じ取ったのかもしれない。
「レクシアのような大層な物ではないがな」
のカップの中で揺れている野の黄色い花は、レクシアの持ってきた物に比べれば見劣りしていしまう。それでもレクシアはカップの中で揺れる花を嬉しそうに見つめた。
「大切なのは気持ち、よ。それにね、が話に聞いた通りの子だとしたら、多分こういう花より野の優しい花の方が似合うと思う」
風に揺れる黄色い花を見つめて、レクシアは目を細めた。
「良かったわね、
……レクシアはどこまで知っているのだろう。
彼女の言葉は、僕がただ花を添えたことだけに対する物ではなかったような気がした。
「さて、そろそろ帰りましょうか」
ふわりとスカートを翻して、レクシアは港を目指した。
抜けるような青い空と、そこまでも広がる地平線、そしてとイレーヌが愛した街並みが丘の上からだとよく見える。太陽の恩恵を受けて今日も活気づく街並みを見下ろすのは、眩しくて、美しい光景だった。
「………あ」
その時、さあと一陣の風がレクシアの髪を、そして僕のマントを揺らした。
がさよならを言ってるのかも」
生前のの通り名を知ってか知らずか、レクシアは真っ青な空を見上げて言う。『銀髪の風使い』。最初はこの通り名が自分の物だと気づかずに、自分の父親のことだと思っていたっけ。そんな些細な思い出を振り返ることが、今はそれほど苦痛に感じなかったのが不思議だった。
それはもしかしたら、風を操ることを得意としたのちょっとした贈り物のおかげだったのかもしれない。そう思うと、なんだか少しだけ――――救われたような想いがした。



ノイシュタットの桜並木をまっすぐに歩いていくと、そこには小高い丘がある。
その丘には先の争乱で亡くなった、特に『ある人』たちと仲の良かった人たちの骨が埋められていて。そうしていくつかの十字架の間を通り抜けた一番奥の方に、ひっそりと小さな石の十字架が二つ並んで建っている。
本の中では大悪人。けれど、一握りの街の人々は知っている。
本物の彼女たちが誰よりもこの街のことを憂い、そして愛していたと言うことを。
街を歌と笑い声で満たし、優しい世界を願い続けたということを――――…

丘の上の十字架は、今日も平等になった街並みを見守り続けている。
そしてそこには、黄色い花が彼女たちのお気に入りのカップの中で咲き誇っていた。
一筋の風が、また花びらを優しく揺らし始めた。



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09.5.16執筆
09.6.7UP