我らは今日、一人の偉人を亡くした。 これはリーゼ・マクシア、エレンピオス両国における大いなる損失である。 だが、遺された我々は彼の志を継ぎ、精霊と人の共存社会を維持するべく邁進してゆかねばならない。それは両国の発展・存続のために、決して蔑にすることのできぬ人類の課題なのだから。 取り上げられた本人の人柄に反して随分と仰々しく締め括られたその記事は、マクシア新聞の三面の下部にそれなりの大きさで掲載された。 源霊匣<オリジン>の研究に携わる人々が見れば、深い驚きを与える内容になっていることは間違いないだろう。 その日、喪主を勤めることになった淑女は、静かに新聞を畳む。 源霊匣研究の第一人者として知られるジュード・マティスの訃報は、こうして世の知るところとなった。 「……すっかり寂しくなってしまったわね」 伝えるべき相手は、数年前に世界の理に従って遠い旅路へ出た。 それでも、彼女は言葉にして乗せる。 「行きましょうか」 寂しげに笑ったその視線の先には、物言わぬ紫色の人形が在った。 古ぼけたその人形を手に取り、彼女は黒いワンピースの裾を翻して扉へと向かう。――――不思議と、悲しくはなかった。それは、彼の行くべきところを知っていたからなのかもしれない。 ただ、ぽっかりと胸の内に開いた穴だけが寒々しい。人の世の理だとは言え、一人、また一人と知った人が亡くなってゆくものはたまらなく寂しいものだと、エリーゼ・ルタスは小さく嘆息した。 * * * 僕の余命はもう、一節と持たないだろう。 エリーゼに衝撃を与えた電報は、酷くあっさりとした言葉で始まった。 医者として勉強していた時期もあったから、分かるんだ。彼はもう自分が手遅れであることを受け止めたかのようにして文面を続ける。その淡泊さがエリーゼには信じられないと思うと同時に、彼ならば、とどこかで納得してしまった自分がいることに気が付いたのもまた事実だった。 15歳と言う若さで源霊匣研究の世界へ飛び込み、ひたすらリーゼ・マクシアとエレンピオスの共存を夢見て働き続けていたジュードは、どこか崩れてしまいそうな危うさを兼ねそろえていた。 使命と決意に燃える彼の傍には、もう、その手を取ってくれる存在がいなかったから。 あれからそれなりの年月を過ごしたエリーゼは、流石にもう分かるようになっている。 たった数カ月の短い旅路の中で、鮮烈にその姿を焼きつけていった人――――今はもう、精霊としてこの世界を見守ってくれているだろうミラ・マクスウェルの存在は、それほどまでにジュードの中を占めていたのだろう。 だからこそあの旅路の果てに、彼女の生き方に恥じぬ選択した彼は、ただ走ることしかできなかった。 少年から殻を破るように精悍な青年へと顔つきを変え、責任を持つ大人へと変わった。地道に、しかし着実に源霊匣の研究成果を上げ、あのガイアス王とも親交があったと聞く。彼の伴侶を狙う女性の数は少なくなかっただろうに、それでも彼は生涯独身を貫き通すこととなった。 頑固で、一途で、お人よし。 そんな彼だからこそ、自分の死という衝撃を努めて冷静に伝えようとしていたのだろうと、今なら分かるような気がする。……そうして、喪主という大役を自分に託したその意味も。 「本日はご多忙のところ、遠路ご会葬いただき、厚く御礼を申し上げます」 多分ジュードは、この長い長い人生と言う旅路の果てに、一番初めに見た原点に帰りたかったのだと思う。 「ジュードが源霊匣の研究を始めたきっかけは、一人の女性との出会いでした」 棺の中で眠るようにして横たわる彼を背に、エリーゼは紫の人形を握りしめて言葉を綴る。 驚いたように息を呑む音がした。 ジュードが源霊匣の研究に熱心だったことを身近に知る人でさえ、彼がそれに傾倒した理由までは知らされていなかったのだろう。 「彼女はミラと言いました。金髪の、とても美しい人でした。 容姿もでしたが、それ以上に気高く、鋼のようにまっすぐな信念を持った美しい人でした。 彼女は、精霊も人間もどちらも守るべきものだと言ったのです」 ミラの傍で、その考えに触れ、変わって言ったのは何もジュードだけではなかった。 レイアも、ローエンも、アルヴィンも……そしてエリーゼも。あの旅でミラに触れた人間は、それぞれに何かを知り、考え、自らで行動することを知ったのだ。 「ミラはその想いを貫いて、遠い、とても遠い世界へと行ってしまいました。 その時ジュードは、ミラの意志を守ることを誓ったのです」 世界を覆う断界殻<シェル>が取り払われ、リーゼ・マクシアとエレンピオスの両国に光が降り注いだあの日。 涙に濡れたミラにかけた言葉を。握りしめた手のひらのことを。……私たちだってちゃんと、覚えている。 「それからの彼は、皆さんのご存じの通りです。 頑固で一途で、それからお人よしなジュードでしたが、生前寄せられました皆様のご厚情に対し、彼の古い友人として心より御礼申し上げます」 顔を上げた。 たくさんの人の顔がエリーゼの瞳に映る。生前の彼は、これほどの人に慕われていた。それは、ジュードにとってどれほど幸福なことだったのだろう。 そう。悲しんじゃいけない。……だって、ジュードは。 「うっ、うわぁ!?」 誰かが驚いたように声を上げた。 その声につられるかのようにして、エリーゼは振り返り――――そうして、棺の傍に立つ金色の髪の女性を、確かに見た。 しい、と。 彼の眠りを覚まさないで欲しいと言わんばかりに、彼女はその可憐な唇に人差し指を当てる。 うっとりするほど美しい様だった。その姿に心を奪われそうになって、そうして一瞬遅れで眩い光に気がつく。 光が消えた葬儀場には驚くほど何の変化もなかった。 「………ミラ」 けれど、エリーゼは確かにその奇跡を見た。 彼女が来たのだと。 大いなるマナの循環の一員となったジュードを、ミラが迎えに来たのだと。確かに理解し、この目で見届けた。 「ジュード……ミラ……!」 ――――ああ、願わくば。 どうか二人のこれからの行く末に、幸あらんことを。 はらりと零れた透明な滴は頬を伝い、小さな古い友人の体へと吸い込まれて消えていった。 12.10.08執筆 |