「ただいま」

いつものように、ドアノブを開けて帰宅の言葉を口にする。
彼女がいれば、まもなく飛び出してきて、にっこりと「おかえり」と告げてくれるだろう。その時間がたまらなく好きだった。

「……今日は、出かけてるのかな」

しんと静まり返った室内に、返事はない。
小さくため息を吐いて、玄関へ入る。
どうやら彼女はいないらしい。それに一抹の寂しさを覚えながらも、今日の講義で使った荷物を降ろすためにリビングへ進んだ。

少し寂しいけれど、仕方ない。
夕食でも作りながら待っていよう。そんなことを考えながら、暗い部屋に灯りを灯す。

「……ミラ?」

ランプの温かな光に照らされた室内では、珍しい光景が広がっていた。
帰宅と共に思い浮かべた満面の笑顔――――…その持ち主であるミラが、机に頭を預けたまま、小さく体を揺らしている

「寝てる?」

こんな時間に、こんな場所で眠っているだなんて珍しい。
いつだって目的と行動がはっきりしている彼女は、時間の有限性を常々嘆いている。だから、机の上でうたたねをしている姿が物珍しくて、思わずまじまじと覗き込んでしまった。

ふわふわとした金色の髪が、惜しげもなく広がっている。
伏せられたまつ毛は長く、長くて深い息は、彼女がすっかり寝入ってしまっていることを教えてくれていた。
普段は凛々しいと言う言葉が似合うミラも、こうなっていれば可愛らしい女性そのものだ。
あどけない寝顔に思わずどきりとして、たたらを踏む。
せっかく寝入っているのに、起しちゃ可哀そうだ。……そう思いかけて、いや、と医師としての自分が思いとどまらせた。
こんなところで眠っている方がよくない。体もちゃんと休められてないし、どうせ寝るのならベッドでしっかり休息を取った方がいい。

「ちょっとごめんね、ミラ」

かといってわざわざ起こすのも忍びない。
なので、うたたねをしているミラを抱き上げて寝室まで運ぶことにした。

以前よりも一回り大きくなった肩幅と身長は、こんな時に役に立つ。
キスをする時見上げなければならなくなった、とミラは不服そうだったけど、僕はそれなりに今の体格を気に入っていた。

「……んぅ」
「ごめん、やっぱり起しちゃったね」

小さく震えた瞼が持ちあげられる。
やっぱり、起きちゃうか。
少し悪い気はしたけれど、良質な睡眠をとってもらうためには仕方ない。もうちょっと寝てて、とあやす様に持ち上げ直すと、ミラは予想外の動きをした。

「……そんなにしがみ付かれたら、ベッドに降ろせないよ」
「ひゅーど」

僕の服に鼻先を押しつけたミラがふがふがと言う。
だから、そんなにくっついたら降ろせないって。

「ひゅーど、おかえり」
「……うん。ただいま」

時間差できた『おかえり』にほんの少し、面喰う。
でも、それ以上に彼女の言葉が嬉しかったから、多分、今僕の顔はにやけているんだと思った。

「さ、寝るならちゃんと寝ないと。それとも起きる?」
「ジュードが帰ってきたのなら、私が選ぶ方は決まっているだろう?」
「ふふ、そっか。じゃあ降ろそうか?」
「……もう少し、こうしていたいのだが」

先ほどまで眠っていたためか、とろんとした眼差しでミラが僕を見上げる。
普段の彼女からは考えられないような甘えた仕草に、心臓を鷲掴みにされたような感覚がした。

……ずるい。こうやってミラはいつも僕をどぎまぎさせるんだ。

「だが、あまりこうしていてはジュードに負担をかける。
そこで提案なんだが、ベッドへ行かないか?」
「……もしかして、誘ってる?」
「ああ」

そう言って、少し照れたようにはにかむから反則だ。
こういうところ、無自覚でやってのけるから敵わないと思う。

「あ、ちょっと待って」
「ん?」
「僕、さっきまで外にいたから汗臭いや。シャワー浴びてきてからでいい?」
「……私の誘いを無下にする気か?」
「するわけないじゃない。でも、汗臭いの嫌でしょ」
「どうせ汁まみれになると思うのだが」
「……ミラ」
「本当のことを言ったまでだ」
「もう……」

つんと唇を尖らせてミラが拗ねたふりをする。
無自覚でこれをやっているのだから手に負えないとも思うけど、僕が好きになったミラはそういう女性なんだから仕方がない。
というか惚れた腫れただの話は、先に自覚した方が負けだと相場が決まっている。

「じゃあお風呂一緒に入る?」
「ああ、そうしよう」

胸に顔を擦り寄せたミラから甘い香りがして、余裕なんてすぐに消し飛びそうだなと思った。
まあ、その辺りもいつものことだ。

「やっぱり、帰ってきた時ミラが傍にいるとほっとする」
「私もだ。帰ってきたジュードを迎えるのは楽しいよ」

そうして、二人で顔を見合わせて。
ミラを抱き上げたまま、僕らは浴室へと向かった。





12.09.27執筆