フライングブリッジデッキ――――地上が見下ろせる場所でミラは静かに佇んでいた。
水流の中で煌めくルビーのような瞳が、一心に手すりの向こう側を見つめている。その後ろ姿に、今にもどこかへ消えてしまいそうな危うさを感じて、ジュードは慌てて声をかけた。
「こんなところにいたんだ。捜したよ」
はっとしたようにミラがジュードを振り返る。怖いくらい真剣な眼差しは、一瞬のうちに四散していた。
「僕も一緒にいい?」
多少強引にそう言えば、ミラは少し困ったような顔をした。
それでも、今、ミラを一人にさせておくわけにはいかない。頭の中で確かに警鐘は鳴り響いていた。
「…………ああ」
どこか上の空に落とされた返事に頷いて、ジュードは風に揺れるミラの髪が触れそうなほど近くまで近づいた。……何かあった時に、すぐ彼女の腕を引けるように。そんなこと、きっとあるはずないけれど。
「妙なものだ。この光景を見ることは以前の私にとって難しいものではなかった」
マストの次に、船の上から良く地上を見下ろせる場所に立って、ミラは言う。
雲の下にはリーゼ・マクシアの広大な大地が広がっていた。
豊かなマナに溢れた土地は、人間だけでなく植物や動物、あらゆる生き物を育んでいる。自然が自由に根を伸ばすことのできる土地は、そこに循環した生のサイクルを見出すことが出来るものなのだ。
足元に広がる広大な緑を愛おしげに眺めて、ミラはジュードへ視線を移した。
「だが、今になってみると、世界が改めてすばらしいものだと実感できる」
マクスウェルの視点をジュードは察することしか出来ない。
知っているはずなのに……まるで遠い世界で生きる存在のように、世界のことを語るミラに堪えられなくなって、ジュードは口を開く。
「ミラ……あのさ……」
離れたくなかった。
なけなしの勇気を振り絞ってようやく一歩踏み出せたばかりなのに、どうしてこんなにも不安になる?
「前にも話したけど……この旅が終わったら……」
「……ああ」
ルビーの瞳が柔らかく細められる。
こんな風に自然に……綺麗に微笑まれたらどうしていいのか分からなくなる。整い過ぎると言っても過言ではない美貌を持つミラは、ただそこにいるだけで圧倒的な存在感を持つというのに、そこに特別な意味を持つ好意が乗っかているのだ。滅多に見ることのできない、ミラの柔らかい視線を直視することはとても難しい。
真正面から見つめられて、自身の頬が熱を持ち始めた事をはっきりと自覚しながら、それでもジュードは言葉を続けた。
「ミラと一緒にいたいんだ」
きっと今、僕の顔は火が出るくらい真っ赤なのだと思う。
茹だってまともな回路が動いてくれない思考の中で、どうにかこうにか分かったことはそのくらいだった。
ありったけの勇気を振り絞って伝えた言葉に、ミラは瞬きをした。そうしてその意味を噛みしめるように頷いて、桜色の唇を動かした。
「それは、この間の話の続きか?」
「……う、うん」
確かめるように投げられた言葉に、ジュードは素直に頷く。
「僕、ミラとずっとずっと一緒にいたいんだ」
何かに突き動かされるようにして言葉にした。
それはきっと、今にもミラが消えてしまいそうに見えてしまったからだ。だからミラの細い手のひらを握りしめて、離れることがないようにジュードは告げる。
ずっと一緒にいるだなんて――――まるでプロポーズの言葉みたいだ。そう思った瞬間に、これ以上紅くなることなんてないと思ったのに、耳の先まで熱を持ったことを自覚する。
カン・バルクの時と同じことを言っているはずなのに、その意味が少し違う。
この旅の先を見据えた約束を、ジュードはどうしてもミラと交わしたかった。
「――――」
いつも以上に積極的なジュードに、ミラは驚いたようにぱちぱちと瞬きをした。
言葉の意味をミラが正しく認識したかどうかまでは分からない。それでも、もう一度ジュードの瞳に映り込んだミラの頬は、ほんのりと淡く色づいていた。
「そう、だな」
確かめるようにミラが呟く。
「君とずっと……この旅が終わって共に生きてゆけるのであれば、私はきっと嬉しいよ」
その顔はどうにかなりそうなくらい可愛くて……つまりはジュードにとって反則級の破壊力を持っていたということだった。少女のようにあどけなく頬を染めて笑ったミラを、気が付いた時にはジュードは力一杯抱きしめていた。
「?ジュード……?」
「……っ」
ゼロにまで接近した距離は、思った以上に色んな刺激が強すぎた。
例えば、鼻孔をくすぐる花のような匂いだとか。まわした腕の中に収まった、思った以上に細い体の柔らかさだとか。ふんわりと揺れた金色の髪の毛の繊細さだとか。
「ジュード、少し痛い」
「ごっ、ごめん!」
慌てて腕を離そうとして、引き留められる。
ジュードの頭の少しだけ上にあるルビーの瞳が、控え目に、それでも甘えるように揺れていた。
「もう少し……こうしていてもいいだろうか?」
反則級の可愛さ第二波を、ジュードが断る理由なんてどこにもあるわけがなかった。
「……うん」
ミラが痛くないように、腕を緩める。
壊れものを抱きしめるように優しく回された腕に応えるようにして、ミラの細い腕もジュードの背中にまわされた。背中に感じる別の体温に、どうにかなりそうだ。
ミラもまた応えてくれたという事実は、ジュードの頭の中を占めるには十分すぎる出来事だった。
「ミラ……」
「……ジュード」
呟くように落とされた互いの存在を確かめる名前は、特別な響きを持っていた。
腕の中に収まった存在は、まるで始めからそこにあったようにしっくりと馴染む。瞳を閉じて、全身でその熱を感じれば、トクトクといつもより早く打つ心音が耳に届いた。
「どきどき言ってる」
「ああ、ジュードの心臓も言ってるぞ」
「うん……そうだね」
振り絞った勇気の対価は、それ以上の報奨があった。たまらなく恥ずかしい想いも確かにあるけれど、それ以上にミラの傍には不思議な安らぎがあった。
子供みたいに少しだけ高いミラの体温は、温かい。
「ミラ」
すぐ傍にあるはずの彼女の顔を見たくて、狭い隙間の中で顔を上げれば、安心したように頬を緩ませる表情が目の前にあった。
伏せられた瞳と、弛緩した表情は、実年齢よりもずっと幼く見える。想いを告げたカン・バルクから、こうしたミラの表情を見られることが、ジュードにとってはたまらなく嬉しいことだった。
まるでミラの特別になれたような気がして――――…その実感と、僅かな独占欲が胸の中を満たしていく。
「ねぇ、ミラ」
「……なんだ?」
「キス、してもいい?」
自然と言葉に出てしまってから、その意味の重大さに気が付く。
安心しきったミラの表情の中に驚きの色が浮かぶのを見て、後悔が鎌首を上げ始めた頃、ミラから返事が返ってきた。
「いいぞ」
その言葉の簡単さに、ジュードは肩の力が抜けてしまった。
「……本当に、分かってる?」
「「男性と女性の唇を合わせる行為」」
カン・バルクで話した解説をそっくりそのまま二人揃って口にする。
ミラは自慢げに、ジュードは少し呆れ半分に口にした言葉は、一言一句違いがなかった。
「本に書いていることだけじゃ、分からないこといっぱいあるよ」
「そうなのか?」
不思議そうに首を揺らす彼女が、この時ばかりは恨めしい。
「……じゃあ、試してみる?」
だから――――これは、きっとほんの悪戯心。
柔らかそうな桜色の唇に、ほんの少し背伸びをして自身のそれと重ね合わせる。羽のように触れた唇の感触は、思った通り柔らかくて、簡単に形を変えた。
驚いたようなルビーの瞳が間近にある。
今回ばかりはそれに知らないふりをして瞼を閉じれば、ミラもそれに倣った気配を感じた。ほんの少し張った肩はお互い様だ。
「………」
とても近い場所でミラを感じる。
触れたミラは柔らかくて、温かくて、口の中はしっとりしていて。…………え、口の中?
「……?」
不思議そうなミラの瞳と真正面からぶつかり合った。
「……っ…!?!!?」
「これがキスというものか。……なんだか落ち着かないな」
ほんのりと頬を染めたミラが、落ち着かないように唇を手のひらで覆う。その仕草は普段のジュードが見ればどうにかなりそうなくらい可愛らしかったものの、残念ながら現在のジュードは通常外運転だった。
「ミ、ミラ……?」
「うむ?」
「キスって、普通……えと、口、閉じる……?」
「唇と唇を合わせるものだろう?」
「あの、口……開いてた……」
「…………」
ふむ、とそこに来てミラは思案顔になった。
「突然のことだったので、口が開いていたな」
いや、うっかり舌入れちゃった僕も僕だけど!
とかなんとか口走っているジュードの方は、完全に正常な思考を保てていない。後ほど振り返ってみれば、悶絶することは必至の内容を口に出していた。
「あああああ……初めてはちゃんとしようって思っていたのに……!」
頭を抱えてしゃがめ込めば、そんなジュードの上に影が落ちた。
「ちゃんと出来ていなかったのか?」
「わ、ミラ!」
思った以上に近いところにあったミラの表情は不安げに揺れている。ハの字に下げられた眉と、落ちつかなさそうに体を揺らしているミラを見て、ジュードは驚いたように顔を上げた。
「そっ、そんなこと……!ミラは悪くないよ!」
「だが、君の落ち込みようから察するに、正しい『キス』ではなかったのだろう?」
「ええっ……と、正しいか正しくないかという問題というか、手順を一足飛びしたというか……」
「仕切り直そう」
「うん。……ってええ!!?」
驚き大げさすぎるくらい声を漏らしたジュードをそっちのけで、ミラは瞳を閉じる。
今度はきちんと唇を閉じることを忘れていなかった。
ジュードとキスを仕切り直そうと言ったミラは、本当にやる気らしい。色づいた頬はそのままに、何かを強請るように唇を僅かに尖らせて立っている。
思わずゴクリと喉が鳴った。
立ちあがって、右手でミラの手を取る。躊躇いに震えそうになる左手で背中を抱き寄せれば、ミラとの距離はあっけないほど簡単に縮まった。
「ミラ……」
さっき以上に心臓がばくばくと音を立てている。
これ以上激しく動いたら壊れてしまうかもしれない。それでも暴れまわる心臓を抑えつけて、瞼を伏せたミラの顔にそっと唇を近づけた。
「ん……」
目的地へと到達すれば、長い睫毛が震える。
ちぐはぐの順番で行われたバードキスは、本当に軽く触れただけで離れた。けれど絡みつくように交わった視線が、どこか物足りなさそうに揺れている。
「……ジュード」
いつの間にか回された腕は、ジュードの背中を抱いている。
至近距離で互いの名を呼べば、どう口にしていいのか分からないほどの幸福感が沸きあがった。
「なるほど。確かに本に書いていることだけでは分からない」
息のかかるほど近い場所でミラは笑った。
「好きだよ、ジュード」
その笑顔があまりにも鮮明に視界に映りこんで、ジュードは思わず声をなくしてしまう。
体を離したミラは、余韻を払うようにしてターンをした。
金色の髪が風を孕んでばさりと揺れる。
「ジュード…………私からも話しておきたいことがあるんだ」
ミラは振り返らなかった。
すぐ傍にあったはずの彼女は、いつの間にか腕を擦りぬけて遠いところへ行ってしまう。何度も焦燥を覚えた背中が向こう側へ歩いてゆくのを見て、ジュードは思わず身を乗り出した。
「私の身に関わることだ」
髪を揺らせてミラが振り返った。
その瞳にはもう、先ほどの甘い余韻はない。
ミラは、何かとても大事なことを伝えようとしている。ただ、その事実だけがそこには在った。
「ミラの?」
ゆっくりと瞼を持ち上げたミラを、ジュードが見つめ返す。
交錯した視線に、ミラが切なげに瞳を揺らせた。
「君をだますつもりはなかったが、結果的にウソを……」
「おい、つり目のガキンチョー!どーこ行ったー!」
ジュードを探す少女の声が、ミラの言葉を遮った。瞬間、ミラはびくりと体を震わせて、動きを止めてしまう。
「ミラ?ウソって何?」
その時、ジュードは確かに安堵の息を吐いたミラを見た。
そうして何かを考え込むように唇に手を当てて、思案する横顔も。そうしてデッキの先端へ移動したミラは微笑むようにしてジュードに告げた。
「呼んでいるぞ、行った方がいい。話ならいつでもできる」
押さえこむようにして作られた表情が痛い。
つい先ほどまで、あれだけ近くに感じていたはずなのに……知らずに呼んだアグリアには悪いが、何か打ち明けようとしたミラの言葉を遮ったことを恨んでしまうのは仕方のないことだ。
もう一度ミラを見つめる。
けれど、もうミラには何かを語り出すような気配はどこにもなかった。
「う、うん……」
時が来たらきっと話してくれる。
そう。これからずっと僕らは一緒にいるのだから――――…そう自分に言い聞かせて、ジュードはミラに背を向けた。
一度だけ、ミラを振り返る。
けれど、空の向こうを見つめる彼女はジュードの視線に気が付かなかった。



「…………ウソ」
今見た光景が信じられなくて、膝から下の力が抜け落ちた。
ぺたりと看板に座りこんだ彼女の姿を不思議そうに見つめる人の視線すら気が付かず、茶髪の少女――――レイアは喉を震わせた。
「そんな、どうして……」
付き添いで医務室まで行って、なんとかエリーゼが落ち着いたから、それをジュードに伝えようと彼を探していたところだった。
だからたまたま視線を上げた先で、二人の男女の密事を目にしてしまうだなんて思ってもみなかったのだ。
どうして。
どうして。
胸の内を、よく分からないものがこみ上げてくる。
……分からない。今見てしまったものの衝撃があまりにも大きすぎて、沸きあがってくる気持ちの正体を突き止めることが出来ない。
「……っ…」
衝動的に恐ろしい感情が沸き上がり、瞬間、我に返ってレイアは唇を手で押さえた。
……こんな自分なんて、知りたくなかった。



To be continued…







12.10.21執筆