今にして思えば、私は君のことを頼りにしきっていたのだと思う。
ファイザバード沼野での戦い……そう、ラ・シュガルとア・ジュール両軍の衝突の最中、正面突破するなどと強行軍甚だしい策を実行できたのも、皆の助けがあったからだ。
きっと誰一人欠けても私たちは生き残ることは出来なかった。
ああ、そうだ。分かってはいるんだ。だがそれでも、この旅の始めから私と共にいてくれた君――――…ジュードの背中を、私はこれ以上なく頼もしく感じていたのは紛れもない事実なのだろう。
現にジュードがいないだけで、私はこうも動揺してしまっているのだから。
「……うかつすぎた」
自分自身の間抜けさに呆れる。
助けてくれたレイアやローエンを置いて単独行動を行い、挙句の果てにアルクノアへ奇襲をかける前に物音を立てる始末。
私は一体どうしてしまったと言うのだ。
この胸の中にざわざわと残る不快な感覚。集中しようとすればするほどに、それらは私の意識を掻き乱してゆく。
こんなこと、今まではなかった。四大を失おうとも、足が動かなくなろうとも、それでも私はたった一人きりで使命を果たすつもりだった。今までだって、そうだった。
「変われば変わるものだな」
小さく息を吐けば、白い息が浮かび上がる。
灼熱のノール灼洞を抜けた先にあったのは、凍てつく寒さのザイラの森だった。深々と降り注ぐ白い雪は冷たく、灼洞の熱風に慣れた体には堪える。
ぶるりと、体に震えが走った。
それは寒さのためか。――――それとも、君が傍にいないから?
ジュードは生きているだろうか。寒さに震えていないだろうか。
あの戦場からきっと無事に生き延びているに違いない……彼を真に信頼しているのであればそう強く信じなければならないのに、なぜ、私はそのような心配をしてしまう?
いつからか、新しい場所へ赴く時はジュードが傍にいることが当たり前になってしまっていた。
だからなのかもしれない。今この場にはローエンとレイアという心強い仲間がいるはずなのに、たった一人、君がいないだけで……私はまるで人間のように動揺している。
私一人でも使命を果たす。
――――本当に?
現に、私は動揺しているぞ。
――――何故?
もし、君を失うようなことになったとしたら?
――――考えるだけ不毛なことだ。
考えることを放棄するのか。らしくないぞ、マクスウェル?
―――――私はジュードを信頼している!
相反する二人の私がいがみ合う。
なぜ私は、こんなにも心掻き乱されている。集中しようとすればするほどに、もう一人の私が疑問を投げかけるのだ。
ミラ・マクスウェルは元素を司る精霊『マクスウェル』。
断界殻<シェル>を維持し、リーゼ・マクシアを守るために決して滅してはならない存在。
そして、人と精霊を見守り続けるという使命を果たさなければならない。ならない、はずなのに……夢の中で懐かしい声を聞いてからというものの、一つの矛盾が鎌首を持ち上げる。
決して滅してはならない存在のマクスウェルが、なぜ最前線でその身を危険に晒しながらアルクノアと戦っている?
その疑問は、私自身の存在を不確かなものに変える疑問だった。
……だからなのかもしれない。こんなにも感傷的になっているのは。
「ミラさん?」
「あ、ああ。ローエンか」
「そろそろ一度休憩にしましょう。ノール灼洞から出て、まだ一度も休んでいません」
柔らかい表情のまま、それでも彼にしては珍しく有無を言わせぬ提案に、気を使わせてしまったことを悟る。
……すまない。ここへきてからというものの、私は迷惑をかけっぱなしだ。
「大丈夫!ジュードもアルヴィンもエリーゼも、きっと皆無事だよ」
こんな時でも笑おうとするレイアのいじらしさが染みる。
激戦の後にろくな休息も取れず、背中を預け合った仲間もバラバラになるという普通であれば心折れそうな場面でさえも、ローエンやレイアは人への気配りを忘れない。それが二人の人となりなのだと知って、思わず微笑が零れた。
これだから、私の人間好きはやめられそうにない。
「……ありがとう。二人のおかげで元気が出たよ」
「ミラ?」
「休憩ならザイラの森の教会へ向かってからにしよう。ここからなら、さほど遠くなかったはずだ」
気付けばイル・ファンからカン・バルク方面へ逆戻りすることになっていた。しかし、今回に限り好都合だ。勝手の分かる土地で一度体制を整え直す必要がある。
――――破られた断界殻<シェル>のこと。
――――空から降りてきた異世界の兵達のこと。
――――行方が分からなくなったジュードたちのこと。
――――そして、私たちのこれからのこと。
ありとあらゆる問題が山積みだ。
「ああ、教会が見えてきましたね」
木々の茂みの中でひっそりと佇む石造りの建物は、白い化粧を纏ってそびえ立つ。
ともかく、こちらも一度体制を整えなければ。
胸の中に巣食い始めたマクスウェルの矛盾を力ずくで押し込める。――――今は、まだ、そのままに。私たちが考えなければならないことは、まずはどうやってジュードたちと合流するかということだ。



振り返れば、恐らくあれが芽生えだった。
滅してはならぬ筈のマクスウェルの矛盾と、ジュードへの特別な感情。
いつからだろう。
果たさねばならぬ使命と向き合うことに恐れを抱き始めてしまったのは。
人間や精霊を守りたい。『マクスウェル』の信念に揺らぎはないはずなのに、不確かな『私』が揺さぶりをかけようとする。

「ん……」
仕切り直しに落とされた唇は、軽く触れただけで離れてゆく。
琥珀色の瞳の中に私の姿が映し出されたのが目に入って、何だか不思議な感覚がした。そこにいたのはどこか物足りなさそうな視線を宿した女だったから。
「……ジュード」
いつの間にか回した腕は、ジュードの背中を抱いている。
至近距離で互いの名を呼べば、どう口にしていいのか分からないほどの幸福感が沸きあがった。
「なるほど。確かに本に書いていることだけでは分からない」
ジュードの言った通りだった。
うず高く積んだ書物に埋もれていただけではきっと一生知ることはなかっただろう。特定の誰かを、こうして愛おしく思う感情のことを。
「好きだよ、ジュード」
その言葉は、まるで始めからあつらえていたかのようにストンと私の胸の中に落ちていく。
ああ、そうなんだ。君はいつの間にか、私の特別になっていた。
私を追いかけ続けてくれる、そのまっすぐで無垢な瞳が……ジュードのことが何より大切になっていた。
精霊や人間を守るため、ただがむしゃらに生きただけだった私の在り方を、認め、励まし、共に在ろうとしてくれる君を……失いたくないのだと強く願ってしまった。
「ジュード…………私からも話しておきたいことがあるんだ」
なぁ、君はこんな話を聞いたらどう思う?
信じた存在が――――もしも。もしも、偽りの紛い物だったとしたら?
振り返ることなんてできずに、私はジュードに背を向ける。
ジュードはどんな顔をするだろうか。幻滅し、呆れ、私から離れてしまうのだろうか?
「私の身に関わることだ」
たまらなくなって、君を振り返った。
君は……ジュードは、不思議そうな顔をしていた。私が何を話すのか、きっと見当もついていないのだろう。
「ミラの?」
視線が交錯する。
何も知らずに信頼を寄せてくれるその瞳が痛かった。
ああ、やはり君の言った通りだ。誰かを愛おしく思うことが、こんなにも苦しいことだなんて私は知らなかった。愛を囁く物語に、いくらその愛の辛さを連ねようとも、私は真に理解などしていなかったのだ。
「君をだますつもりはなかったが、結果的にウソを……」
「おい、つり目のガキンチョー!どーこ行ったー!」
ジュードを探すアグリアの声が、私の懺悔にも近い告白を断ち切った。
……間が悪い。いや、違う。私はアグリアに遮られたことによって、安堵してしまっているのだ。
「ミラ?ウソって何?」
困惑気に瞳を揺らすジュードに何もかもを打ち明けようと思う気持ちは、あっという間に萎んでしまった。告げようとした言葉を呑みこんで、考える。
今、慌てて話すことなんてないのだと。それは逃げなのだと分かっていたけれど、それでも私はきっと、少しでも君が事実を知ることを先延ばしにしていたかった。
「呼んでいるぞ、行った方がいい」
私は笑えたのだろうか。
多分、ぎこちない顔だったはずだ。最後まで心配そうなジュードの横顔が全てを物語っていた。
「話ならいつでもできる」
君と、いつまでも一緒にいられるのなら。
ああ。それを願うことは―――――なんと苦しく、切ないものなのだろう。





12.10.24執筆