「ミラも一人だったの?」
カラカラと空中滑車が動く音が聞こえる。
降りしきる雪の中、ぽつねんと一人佇んでいたジュードはミラの姿を認めて、親しげに話しかけた。
「…………」
そんなジュードの姿を見つけるのが意外だったのか、ミラは驚いたように一瞬瞳を瞬かせる。
とくり、と小さな鼓動がミラの胸を打った。
その理由が分からず、首を傾げる。
――――なぜだろう。やはり心当たりがない。
「な、なに……?」
異変の原因に思い至らず、ミラは目の前のジュードをじっと見つめた。
真正面、しかも至近距離からまじまじと見つめられて、困惑したようにジュードが瞳を揺らす。
ああ、そんな姿も好感が持てる。……恐らく場違いなのだろうが、そんなジュードを見つめながらミラは思った。
思えば、この異変の根源にはジュードがいるような気がしてならない。
ノール灼洞で一人目覚めてからと言うものの、ミラはジュードがいないと思考がまとまらない自分がいることに気が付き始めていた。
されど、胸の内でトクトクと早鐘を打つその気持ちを何と呼ぶべきものなのか知らない。マクスウェルとして生きたミラには、世間一般で言うところ、つまりは人の感情というものを理解するには、あまりにも経験が足りなさすぎた。
「いや、なんでもない。気にするな」
首を振れども、痛みにも似た胸に渦巻く感情に答えを出すことが出来ない。
痛みに手を押さえ、俯くミラの心情を知る由もないジュードは、見当違いの方向性で慌てることになった。
「どうしたの?具合が悪いなら少し休もう」
「なるほど……その可能性もあるな。そうしてみるか」
こくりと頷いたミラも分かっていないのだから、きっとその時の二人はお互い様だった。



広間の手すりに腰かけようとしたミラに首を振って、場所を移すよう促す。
ミラの格好はこの雪国ではあまりにも薄着すぎる。しかも、当の本人は寒がっているくせに、風邪をひいてみたいと楽しそうなのだから困ったものだった。
そんなわけで具合が悪いらしいミラに気を利かせたジュードは、温かな暖炉のある宿屋に場所を移すことにしたのだった。
宿屋には食事処もある。城のあちこちを動き回り、気を張らせていたジュードにとっては一息つける場所であったことも間違いない。そして、このところ食べることに目覚めたミラにとっても。
「シーフードシチューだ!」
「僕はココアで」
軽く飲み物だけで、で終わらないのがミラらしい。食い入るようにメニュー表を眺めたミラのご指名は、お腹の底から温まるシチューだった。
やはり寒いものは寒かったのだろう。
それがなんだか可笑しくて、ジュードはミラを見てにっこりと微笑んだ。
それは、今の流れからするととても自然なことだった。
けれど笑顔を向けられたミラは、不自然なほどギギギと鈍く動きを止めて――――それから、驚いたことに眉根を寄せて視線を彷徨わせた。
自信に溢れ、堂々たる振る舞いが常のミラにはあるまじき挙動だった。ほんのりと頬は薔薇色に染まり、もじもじと落ち着かないように体を揺らす。
「ど、どうしたの?ミラ?」
見慣れないミラの姿に困惑したのはジュードが先だった。
「う、うむ……。私にもよく分からないんだ」
勿論、当の本人もよく分かっていない。
ただ、自分に向けられたジュードの嬉しそうな顔に、どうしようもなく落ち着かないことだけは自覚した。むずむずとしたものが腹の底から沸きあがってきて、たまらなく居心地が悪いのだ。
今まではこんなことはなかった。ジュードが嬉しそうにしていると、自分だって嬉しい気持ちになったものだった。
「なぜだ?どうしてだ?」
頬に手をやり、ミラは首を振る。
その所作は20歳の女性が行うにしてはあどけなかった。しかし普段凛としているミラだからこそ、いつもと違いすぎるギャップの可愛らしさに、ジュードは胸が早鐘を打つのを自覚せざるを得なかった。
こんなの、反則だ。
あのミラが――――こんなに可愛くなるなんて。
つられて紅くなる頬を隠せるはずもない。落ちつかない空気に視線を彷徨わせれば、斜め奥のテーブルから、好奇の視線が向けられていることに気が付いた。身なりからしてカン・バルクの住人だろう。可愛らしすぎるミラの動きに目を取られているのは、一目瞭然だった。
「そっ、そうだ!ミラ!」
上ずった声で、それでもジュードは声を捻り出した。
こんなに可愛いミラを他の奴らに見せてなるものか。妙な使命感に燃えたのは言うまでもない。
「具合はどう?ちょっとは落ち着いた?」
「む。……あまり変わらないが、気にしないでくれ」
ぱちぱちと瞬きをしたミラは、いつもの調子を取り戻したのか、ようやく落ち着いた声音で言葉を告げる。
それにほっと一安心して……いや、具合が変わっていないので良くないのかもしれないが、それでも痛みを訴える様子ではないミラに、小さく安堵の息を漏らした。
「適当に話でもしていれば、その内おさまるかもしれない」
「それじゃあ……ねぇ、外の世界ってどんなかんじ?」
今はとにかくミラとの会話を繋げることが急務と感じたジュードは、思いついたことをそのまま言葉にすることにした。
「エレンピオスか?前に話したとおりだが……」
そんなジュードの言葉に、ミラは不思議そうに首を傾げた。
それは前に話したことだと言わんばかりに。
「んっと……熱いとか寒いとか街とか人とかってこと」
文化や、生活圏について。
ただエレンピオスと言う世界だけではなく、そこへ生きる人々へ焦点を当てた質問に、ミラは答える術を持ち合わせていないことに気が付く。
「よく知らないな」
「ふーん……」
ミラの答えに、ジュードは意外そうだった。
失望させてしまったのだろうか。不安になったミラは、眉根を寄せてジュードに訊ねる。
「何か変だろうか?」
「ううん。ちょっとぐらい何かあるかなって思っただけ」
「昔だから忘れちゃったのかな?」
おどけたように返事を返したのは、きっとミラに気を使わせないためだったのだろう。ジュードの小さな心配りに感謝をしながら、それでもミラはノール灼洞で見た夢への違和感を思い出さずにはいられなかった。
「ふむ、確かに覚えていてもいい気もするが、私は知らないと口にしたな」
「うーむ……」
考え込んでしまったミラに、慌てたのはジュードの方だ。
「あ、そんなに考え込まないで。軽い興味だったから」
思考の海の中から意識を浮き上がらせたミラは、ゆっくりと瞼を持ち上げる。そのルビーのような瞳には、いつもの強い光を宿らせていた。
「わかるのは黒匣<ジン>が蔓延っている世界だということだ」
「……どうして霊力野<ゲート>を使わないで、黒匣<ジン>なんて使うんだろうね」
「きっと彼らは黒匣<ジン>に魅せられてしまったのだろう」
ミラは首を振って、そう答えた。
そのタイミングで、給仕係がミラとジュードの前にシチューとココアを置く。目の前に並べられた湯気の立つそれらに、会話はひとまず一区切りつけることになった。



「私も一つ、君に聞きたいことがある」
シチューとココアがお腹に入り、とりあえず一息が付けた頃、ミラは唐突にそう切り出した。
「うん?何?」
対するジュードの方は、特に考えもせずに軽く返事を返す。
その様子に、何故かミラの方が面喰らった。
「君は……うーむ……」
困ったように腕を組み、顔を伏せる。
ミラは自分が何を聞こうとしていたのか、ジュードにどのような声をかけるべきだったのか、その答えを持ち合わせていないことに気が付いて困惑していた。
「ふむ?何を聞けばいいのだろう?」
「どうしちゃったのさ?」
ミラらしくない行動。
先ほどの珍しい仕草諸々を思い出して、ここにきてジュードはようやくミラの異常に気が付いた。
ミラはミラだけど、どこかおかしい。
けれど、その原因は分からない。ジュード自身、そして恐らく当の本人であるミラでさえ。
「私はどうしてしまったのだろうか」
その異常はミラ自身感じることだったのだろう。困惑したように零れた言葉は、紛れもなく本心からだった。
「ジュードがいなければ足手まといになるし、いたらいたで落ち着かない」
「え、それって僕のせい!?」
「ジュードの責任ではなく、私の問題だろう。しかし、私の不可解な行動の起源は、恐らく君にあるようなんだ」
そう言ってむむむ唸りながら、ミラは言葉を続けた。
「君がいると、胸の上がりがざわざわとざわめく」
少し……いや、ミラの告白はジュードにかなり大きなダメージを残した。
「かと思えば、君の顔をいつまでも見ていたいと思う私がいる」
この言葉で、心の傷にレイズデットがかかった。ミラの率直な言葉は簡単にジュードの心を掻き乱す。
「一緒にいると心が安らぐ。君の背中は頼もしい。……なのに時に、君と一緒にいるとたまらなく落ち着かなくなるんだ。これは一体どういうことなんだ?」
ここまで話を聞いて、ようやく鈍感なジュードでさえもミラの感情が何と呼ばれるものか気が付く。それに信じられないように声を漏らして、確かめるようにしてミラに震える言葉を返した。
「ミラ、それってその………僕の、こと」
「ん?私は君のことを好ましく思っているよ」
「いや、あの。……そ、そうなんだけど、そうじゃなくって」
「では何だと言うのだ?要領を得ないぞ、ジュード」
「みっ、ミラ!」
テーブル越しに、ジュードがミラの手のひらを握る。
その握った手のひらが思った以上に小さかったことに驚きながら、それでもジュードは確かめずにはいられなかった。
「その、僕のこと……男として、好きってこと?」
「?君は男性だろう?」
「だからそうじゃなくて!」
思わず言葉尻が強い口調になって、慌ててトーンを落とす。
けれど、ここは紛れもなく大切なところだった。
「ええと、だからその……ミラ、僕とキスしたいって思ったりしないかって……うわああぁ、僕何言ってるんだ!」
言いながら赤面してしまうあたりが、ジュードの経験のなさを物語っている。それでもジュードは気になるようにちらちらとミラの表情を伺った。
「『きす』……?」
対照的にミラはジュードの言葉の意味を咀嚼するのに時間がかかっていた。
「『きす』とは確か『男と女の夜の駆け引き』シリーズに載っていたな。男性と女性の唇を合わせる行為だったか?」
非常に的確に、かつ淡々とした答えだった。
その意味は分かっていないんだろうなぁと、内心肩を透かしながら、それでもジュードはめげずに言葉を続けた。
「ええと、つまりミラは……僕とずっと一緒にいたいって思ってくれた?」
精一杯勇気を込めた言葉だった。
ジュードのありったけの勇気を詰めた爆弾を、ミラはいともたやく手にとって返した。
「ああ、思った。叶うことならずっと君の傍にいたい」
そう、微笑んだミラの表情は、これまで見た顔のどんなものよりも綺麗で。
――――思わず息を呑んで見惚れてしまったのは仕方がないことだったのだと、何度思い返してもジュードは頷いてしまう。それくらい、綺麗な綺麗な笑顔だった。



「こんなところにおられたのですか。船の準備が整いましたので、すぐに城へお戻り下さい!」
ガイアスからの使い走りとして、ジュードとミラを探していた兵士は、二人の姿を認めてようやく息を吐く。
「ああ」
「はい。分かりました」
その二人の姿に、おや、と彼は目を見張った。
「戻ろう、ミラ」
市街で仲睦まじく歩いていた二人の手のひらは、固く結ばれていた。
互いの瞳が信頼と愛情に充ち溢れていたのを見て、お邪魔だったな、と任務を優先しなければならない立場だと言え、彼は思う。
少し照れくさそうに、それでも嬉しそうに歩く二人の姿は初々しく、年相応の若者らしい。
彼らが戦地の――――それも最前線へ飛び出していかねばらなないことを知っていた彼は、せめて二人が無事で帰還できることを祈るばかりだった。



To be continued…





12.10.17執筆