今日は何だか肌寒いね。
節の変わり目になり、気温の変化に体調を崩す患者が増え始めた頃、話の流れでたまたま鍋の話が出た。

「鍋か。いいな」

じゅるり、と食欲旺盛なミラが涎をすする。
――――こうして本日のマティス家の夕飯は、鍋になることが確定した。





リズミカルに動く刃の動きに合わせて、大根の皮がしゅるしゅると流しの中へ吸い込まれてゆく。淀みない包丁の動きに目を取られがちになるが、肝は恐らく左手だろう。大根を持つ手が器用に角度を変えるのを見ながら、ミラもまた、ジュードと同じように包丁の柄を握る。

「力まないで。……そう、ゆっくり、ね」

焦らなくて大丈夫だから。
そう言ってふわりと柔らかく微笑んだジュードの掌には、すでに二個目の塊が握られている。
常日頃の戦闘は拳を使っているくせに、刃物の扱いも手慣れているのだから大したものだ。そう感心しながら、ミラは自身の手元に視線を落とした。加減が分からず、でこぼこの厚さで剥かれた皮がぶちんと切れる。流しの中に落ちたそれを見て、ああ、とため息が零れた。

「大丈夫。後で、酢ものにしちゃうから」

くすくすと微笑を洩らしながらも、抜かりなくジュードは言う。
食べ物を粗末にしないで済みそうだ。釣られてミラも、笑みを深くした。
拙いなりにも一生懸命剥いだでこぼこの大根と、お行儀よくまな板の上に鎮座している大根の姿は、何だか微笑ましい。
これはこれでいいかもしれないな。満足げにミラが息を吐いた丁度その時、ぽこぽこと湯が沸く音がした。
昆布を取り上げるに良い塩梅だ。沸騰した湯の中に、さっとジュードが鰹節を投げ込めば、まるでダンスを舞うかのように湯の中で踊る。

「合わせ出汁にしておくと、うま味がしっかり出るからね。火の番は任せていいかな?」

おお、と感嘆の息を吐くミラを愛おしげに見つめて、ジュードはそう告げる。鰹節から出汁が出たら掬いとり、シャケを入れることを忘れずに。もちろん、火を見るだけの番では終わらせない。

「任せろ!」

重要な任務を与えられたミラは誇らしげに胸を張り、お玉を構えた。形だけはとても頼もしく見えるが、ミラはまだ家事一年生以下である。
フォローする気満々の腹積もりで、ジュードは手際良く白菜や豆腐、葱を切り、しいたけには切れ目を入れた。ミラがきっと喜ぶに違いない。にんじんには花のように見えるに切れ込みを入れる手のかけっぷりだ。

「シャケはこのままでいいか?」

艶々とした腹のサーモンピンクは、この季節ならではの色合いだ。
旬のシャケは、色艶もよく、身が引き締まっていてすこぶる味もよい。
言い終わらない内に大ぶりなシャケの切り身を、ぼちゃんとミラが落とした。途端、熱い湯が跳ねてミラは小さく悲鳴を上げる。

「ミラ!」

慌てて火を止めたジュードは、熱湯のかかったミラの細い腕を掴み、水をかけた。こんな些細なことで、彼女の肌に跡など残したくなかったが、当の本人は全く頓着しないらしい。

「大丈夫だよ」
「駄目、ちゃんと冷やして。氷を持ってくるから」
「むう」

一刀両断とばかりに強い口調で窘められて、ミラが不満げに唇を尖らせた。
強烈な美貌を持つ彼女だが、時々こういった子供っぽい仕草をすることに、最近ジュードは気が付いていた。それがまた、たまらなく可愛らしいのだ。
思わず抱きしめそうになりながらも、ジュードは優先順位を見誤らなかった。透明な袋に入れた氷水を差し出して、ミラには患部を冷やすよう促す。
しぶしぶと袋を受け取る彼女の姿も、凶悪に可愛らしかった。

豆腐を並べ、にんじん、しいたけを落とす。白菜は芯の方から出汁に付けた。シャケの油が汁の中に溶け出て、美味しそうだ。みりんと酒と醤油を適量。たったそれだけで、魔法みたいに鍋の中から良い香りが溢れ出す。
部屋の中を香りが充満し始める頃には、すっかり大人しくなっていたはずのミラが落ちつかないように体を揺らし始めた。

「まだかな、ジュード」
「まだだよ、ミラ」

コトコトと音を立てる鍋と、白い湯気。
穏やかな時間が流れてゆく。

「まだかな、ジュード」
「まだだよ、ミラ」

堪えられなくなった小さな頭は、迫るようにしてジュードの眼前にあった。

「もういいかな、ジュード」

そんな彼女を、やっぱり愛おしげに眺めてジュードは笑みを零す。

「もう少しだよ、ミラ」

手を伸ばせば、すぐそこには彼女の姿。
先に我慢が出来なくなったのは――――…さて、どっち?





12.10.11執筆