2月14日、某マンションの一室にて。
「わあっ!?ミラ、チョコをお湯の中に入れちゃダメだってば!」
「む。チュコレートは湯煎で溶かすと本に書いていたぞ」
「確かに湯煎だけど、お湯の中に直接入れるんじゃないって!」
「そうなのか?だが、チョコレートは溶けているようだぞ」
「どうやって取り出すのさ。お湯でグズグズになっちゃってるよ」
「なぁに、これくらいの温度なら取り出すことも……あつっ」
「ミラ、それ熱湯!はやく水で冷やして!?」
「あ、ああ。すまない。……君には迷惑をかけてばかりだな」
「そんなことないよ」
「……ジュード」
「ミラ……」
――――甘ったるい甘ったるい甘ったるい。
コッテコテにコーティングされたベタ甘すぎるピンク色空間に吐き気がしそう。
「あ〜〜〜〜〜っもうっ!!あなたたち!!!」
我慢しきれず叫んだ私の声に、初めて気がついたようにジュードとミラが私を振り返った。……ったくなんで私たちの家なのに、完全私無視で二人の空間作り出してんのよ、ホント腹立つ!
「ど、どうしたのミラさん」
「姉よ。また何か不服なことでもあったのか」
「あるわよ、大アリよ!あなたたちウチのキッチンでイチャイチャイチャイチャとほんとにもう……っ!!」
「いっ、イチャイチャだなんて……。ただ、ミラがチョコレート作ってみたいって言うから、僕はほんの手伝いに来ただけで……」
「結局食べるのあなたでしょーが!それがイチャイチャだって言ってんのよ!!」
「えっ、そ……そうなの?ミラ」
「ああ。そういえば言ってなかったな」
「僕、てっきりミラが自分で食べるのかと……」
「いくら私が食いしん坊だと言っても、世間一般のイベント事くらいは把握しているぞ。今日は日頃家計を助けてくれている君のために、チョコレートを送りたいと思ったのだ」
「ミラ……!」
「ふふ、ジュード」
……もうダメだ、コイツら。
私のことを完全に無視して、二人だけの世界を作り始めた脳内春色バカップルにほとほと呆れて肩を落とす。
出ていこう。私がここにいれば、不快度指数が跳ね上がる一方だ。それならいっそ外に出て気晴らしでもしていた方がずっと建設的ってもんだわ。
せめてもの当てつけに、全身全霊の力を込めて玄関のドアを蹴飛ばして出ていった。ものすごい音がしたけど、この際気にしない。

そもそもどうしてこんなことになったのかというと、私の三ヶ月間の留学が事の発端だった。
生活能力が皆無の同居人(妹)を置いて出て行くのも、確かにどうかとは思ったわよ。でも、私もミラも成人している。それなりに生活力がついてもおかしくはない年齢だと思うわ。
……そりゃあ、出て行く時はすごく心配した。でも、いつまでも私がミラの世話を焼いているわけにはいかないから。お互いがお互いに自立するために、断腸の思いで留学を決めて――――…帰ってきたらこんなになってるって、一体誰が想像できるって言うのよ。
知らない間に年下尽くしちゃう系優等生男子をゲットしていた妹は、ちゃっかり彼氏に家事全般をお願いしていたというわけだ。ふざけないでよ、ホント。
帰ってきたら、すっかり居場所がなくなっていた私の気持ちを一体誰が理解してくれるのだろう。しかもあいつら、人目も憚らずイチャイチャイチャイチャ……!ホント、何回思い出しても腹が立つ……っ!!
思わず怒りのままに、目の前にあった木を蹴り飛ばした。
『木を大切に』なんて看板が一瞬目にとまったけど、この際気にしない。公園の樹木はみんなの樹木。つまりは私にも蹴る権利はある。ええ、そう。
「うわっ!?」
驚いたような声が聞こえて、私は思わず振り返った。
まさか日も落ちようとするこんな時間に、公園の中に人がいるだなんて思ってもいないのだから、盛大に蹴り飛ばしたこの姿を目撃されることは想定外の出来事だ。
半笑いでごまかそうと振り返った先で――――いい年こいて、顔面グシャグシャの泣き顔の男の姿が飛び込んでくる。
「……は?」
思わず、素の声が出た。
驚いたのは男の方も同じだったらしい。泣き腫らしたウサギのような真っ赤な目でこちらを見て、瞬間、慌てたように顔を背けた。
「………遅いわよ」
気まずいのはこちらだって同じだ。だからといって、こうなってしまった以上無視するわけにもいかない。
「あー…うん」
男の方も同じ結論に至ったらしい。
涙で濡れた目尻を服の袖でなんとか拭ってから、何とも言えない表情でこちらを振り返った。

     * * *

「へえ。あなた、フられたんだ」
「……うるさいな。しょうがないだろ」
「しかも相手が好きになったのはあなたのお兄さんなんでしょう?お気の毒様」
「うぐっ、……そ、そっちだって妹に追い出されたくせに」
「私のは出て行ってやったのよ」
「居場所がなかっただけだろ」
「いちいち余計な一言が多いわね、あなたも」
「お互い様だろ」
「私、傷の舐め合いだなんて嫌よ」
「知らないよ」
不思議なことに、夕方の公園で出会った男と話題が合ってしまった。
多分、それは自分の家のはずなのに居心地の悪さを感じてしまったもの同士、通ずるものがあったのかもしれない。……本当に不本意なことに。
「バレンタイン、か。全く、誰よ。こんなハタ迷惑なイベント設定した奴は」
そもそもこんな菓子会社の陰謀に振り回される一日に、どうして私が付き合わなければならなかったのだろう。思わず零した言葉に、男はふいと視線をそらした。
その先にあるのは――――ゴミ箱?なんで、あんなところを気にしてるのかしら。
思い立って、その先へ足を運ぶ。瞬間、慌てたように追いかけてきた男の姿に私は小さな確信を持った。
「……これ」
「別に、いいだろ。男が女に贈ろうとしたって」
決まりが悪そうに落とされた視線の先には、綺麗にラッピングされた小さな包み。
それを見た瞬間、脳裏にバカップルの姿がよぎった。
作る過程で大変苦労していた二人の姿だ。大切な相手に贈りたい、ただその一心だけで普段作ったこともない料理をやろうと決意した妹の姿。
ミラの誇らしげな笑顔がよぎった時、公園のゴミ箱に放り込まれるにしては手が込みすぎている包装に、思わず私の手が伸びた。
「あっ、おい」
「ゴミ箱に放り込まれてるって事は破棄したってことでしょう?それを誰が拾おうったって関係ないわよ」
「そういうことじゃなくて……!」
「じゃあ、どういうこと?」
一歩踏み出して男を見上げれば、うっと困ったように男は眉根を寄せた。――――確信。コイツは押しに弱い。
「だから、これは私のもの」
「おいっ」
「知りませんー」
くるりとターンして包を持ち上げれば、なんだか楽しい気分になってくる。家を出る前まではあんなにムカムカしていたはずなのに、妙に浮かれた気持ちになってくるのだから不思議だ。
困ったように慌てているこの人を見るのが意外と楽しかったからかもしれない。私、もしかしていじめっ子?
思わずクスクスと笑ってしまったら、男は意外そうな瞳でこちらを見下ろしてきた。
「どうしたの?」
「いや、なんか……意外だったから」
「何が?」
「……なんでもない」
「変なの」
見上げた男の瞳が、緑がかった綺麗な青色なことに気がつく。さっきまで真っ赤になっていたから気がつかなかった。
「さ、私はそろそろ帰ろうかな。なんだか、あなたのお陰で毒気が抜けちゃったし」
「おい」
「これは、私が美味しく頂くことにするわ。せっかくのバンレインだもの。女がもらっちゃ悪いって決まりはないんでしょ?」
言っても聞かないことを相手はついに悟ったらしい。呆れたように暫くこちらを見つめたあと、諦めたように手を挙げて降参のポーズをとった。
「やった」
思わず箱を抱きしめて飛び上がれば、驚いたような男の視線とかち合う。……しまった、ちょっとはしゃぎすぎてしまった。
「いいのかよ。今日初めて会った相手が作ったもんだぞ」
「そう言えばそうね」
告げられた言葉に、そう言えばと納得してしまう。思えば私たちはまだ自己紹介すらしていなかった。
「はじめまして、私はミラよ。……あなたの名前は?」
驚いたように男が目を見開く。この人、本当に驚いてばっかりね。
そうして僅かな時間のあと、男はゆっくりと瞳を細めて、この公園で初めて柔らかい表情を見せた。
「ルドガーだ」



「何かいいことでもあったのか?」
うちに帰ったら、妹の彼氏はすでに帰宅していたらしい。上機嫌にチャームポイントを揺らす妹が、出来上がった歪な形のチョコレートを前にしてそう言った。
「え、そう見える?」
「ああ、楽しそうだ」
「……そう」
自分でも驚く程穏やかな声が出たことに少しだけ驚く。
本当に、不思議な気分。
「む。なんだ、その包みは?」
「チョコレート」
そう告げれば、食いしん坊の妹の口からはじゅるりと涎が垂れ始めた。
「ダメよ。これは私のなんだから。あなたのはちゃんとあるでしょう?」
「そう言えばそうだったな。しかし、その包みは見たことがない。一体どこで買ってきたのだ?」
「ふふ、秘密」
夕方に出会った、泣き虫なルドガーの姿を思い浮かべて小さく笑う。わずかな時間のことだったけれども、あの時間は私だけのものだ。……べ、別に変な意味はないのよ。
「そうか」
くすりと微笑まれた同じ顔のミラに、私はそうよ、とほんの少しだけ強がりを混ぜて返事を返した。



追記。
ルドガーから奪い取ったチョコは、そんじゃそこらの店のチョコレートより断然美味しくって、後日血眼になって彼を探すことになったのは余談だ。





13.02.27執筆