その日はいつもより一刻ばかり早く目が覚めた。
まだ夜が明ける前のうっすらと白みかかった空を見上げて、水でも飲もうかと思い立つ。精霊となったこの身には、睡眠も水分も必要なものではなくなったが、人間として生きていた頃の習慣から今でもミラは眠りの時間を取る。とはいえ、一度目覚めてしまえば二度寝をする気にもなれず、ミラは布団から身を起こすことにした。
「………?」
水を求めて部屋を抜け出し、少しばかり歩みを進めた先で、ミラは細く伸びる光の線を見つけた。どうやら薄く扉が開いている部屋があるらしい。確かここは、宿の中でも共用で利用できるスペースだったはず。興味本位で薄く開いた扉の隙間から顔を覗かせれば、見慣れた黒髪が背中を向けて座っていた。
「ジュード?」
ソファに座っている彼に声をかければ、返事はない。物音に敏感なジュードが気がつかないだなんて珍しい。扉の隙間から体を滑り込ませてソファの前に立ってみると、なるほど。ジュードは両手に専門書を握り締めたまま、こっくりと船を漕いでいた。
開かれたページは精霊術に関するものだ。恐らく源霊匣の研究のために、精霊術の原理の解読を進めることにしたのだろう。随分熱心に読み込んでいたのか、本にはたくさんの付箋が貼り付けられている。それだけでジュードの源霊匣に対する真摯な態度が十分すぎるくらい伝わってきて、ミラの胸はよく分からない切なさで締め付けられた。
「君は頑張っているよ……本当に」
かがみ込んで、そっとジュードの寝顔を見上げる。強い光を持った琥珀色の瞳は、今は閉じられて小さな寝息を立てている。一年の間にすっかり凛々しくなったと思ったが、こうして見てみると一年前のあどけない面影もちゃんと残っている。それを見つけたことがなんだか嬉しくて、ミラは思わず小さく笑った。
ジュード・マティスという人間は、こんなにも簡単にマクスウェルの心を揺さぶる。その事実にやっぱり笑って、ミラは唇を尖らせた。
「だが、こんなところで眠るのは感心しない。休息はしっかり取らなければ、心身の回復を図れないぞ」
そうは言ってはみても、伝えたい肝心の相手はすでに夢の中だ。小さく息を吐いたミラは、次の瞬間よいアイデアを思いついて、ぽすんとジュードの隣に腰掛けることにした。
そのまま、船を漕いでいる頭をそっと自身の膝の上へと傾ける。ジュードは目を覚ますことなく、呆気ないくらい簡単にミラの膝の上に収まった。
「ふむ」
横になれば少しはゆっくりと眠れるだろう。我ながら良いアイデアだと頷いて、ミラは膝の上にある黒髪をそっと撫でた。
さらさらとした黒髪が指の間をすり抜けてゆく。その心地よい感触に目を細めて、ミラは微笑んだ。硬さのあるストレートな髪質は、ふわふわしたミラの髪にはないものだ。その感触が面白くて、つい何度も触れてしまう。
不思議と胸の中は温かだった。それは、こうしてジュードに触れているからなのかもしれない。夢の中で微睡んでいる君もたまにはいいものだ。思わずそう小さく漏らして、やっぱり笑う。ジュードが傍にいるとこんなにも穏やかになれる自分がいることを、ミラは改めて自覚をした。
「ゆっくりおやすみ。ジュード」
うん、とジュードが寝返りを打った。まるでタイミングを測ったかのような返事に少しだけ目を見開いて、彼はまだ夢の中にいることを確かめる。ああ、やはり君は。
胸の内にこみ上げてくる感情を指先に込めて、もう一度その髪に触れる。
夜が明けるまで、あと少し。――――この穏やかな時間が、少しでも長く続けばいいと願いながら、ミラもまた静かに瞼を閉じた。



「おや」
パーティ内でも比較的早く目を覚ましたローエンは、共用スペースで眠る二人の姿を見つけて微笑んだ。朝の柔らかい光の中で、まどろむ二人の表情はとても穏やかなものだ。
「仲睦ましいですねぇ」
冷やかしよりも寧ろ穏やかな気持ちになれたのは、きっと二人の寝顔が幸福そうに映ったからだろう。にっこりと笑みを深めたローエンは、時計を見上げて思案する。
さてさて、二人を起こすべきか。それとも、もう少しばかりこのままにしておくべきか。僅かな逡巡の結果、ローエンの出した結論はそのままにするというものだった。馬に蹴られるような無粋な真似をするのも憚れる。というよりむしろ、ミラの膝枕で目を覚ましたジュードが一体どんな反応をするのか楽しみだという本音もあった。
「きっと、さぞかし驚くんでしょうねえ」
すぐ傍に迫った目覚めの時を想像して、老人はいたずらっ子のような表情で小さく微笑んだ。





13.05.06執筆