昼下がりのウプサーラ湖は、太陽の光を反射してキラキラと輝いている。
覗き込めば鏡のように映り込む湖面を背に、栗色の髪の少女は父の背中を見つけて駆け寄った。
「パパっ!」
「エルか。どうしたんだい?」
振り返った男性は、愛娘の姿を認めて顔を綻ばせる。
今日で8歳の誕生日を迎える彼女――――エルの表情は明るい。今夜はとびっきりのパーティをしよう。そう指切りした先週の約束に小さな胸を高鳴らせているのだろう。子供らしい無邪気な笑顔を浮かべる娘にそう推測して、彼はまた笑みを深くするのだった。
「宅配便っ!受け取っておいたよ!」
「そういえば時間指定していたんだった。すまない、助かったよ」
「そういうとこパパは抜けてるんだから。しっかりしてよね!」
「エルがしっかり者だから、つい抜けてしまうんだよ」
「もーっ、パパはエルがいないとダメダメだなぁ。そんなんじゃ立派な大人になれないよ」
「エルにそう言われてしまうと、パパも形なしだ」
呆れたように腕を組む姿すらも愛くるしい。そう思ってしまうのは親の欲目なんだろうなと内心理解しつつも、恐らく……いや、確実にやめることはできないだろう。結局のところ親馬鹿なのだと結論をつけて、彼は娘と同じ視点になる様に腰を折った。
「エルも迎えに来てくれたことだし、そろそろ戻ろうか。もう少しだけ待ってくれよ」
「……うん。パパの日課だもんね」
こういうところで聞きわけがいいのも、我が娘ながら本当によく出来た子だと思う。
小さな石碑に振り返った彼は、落ちていた枯れ葉を拾い、ごく簡単に周囲を片付けてから両手を合わせた。瞼を閉じて、暫くの間黙祷する。
その姿に習うようにして、エルもまた小さな手のひらを合わせて石碑を拝んだ。
静かな沈黙が周囲の中に溶けて消えてゆく。
十分な時間が経ったと思われる頃、瞼を開いた彼は、いつもより少しだけ固い響きで彼女の名前を呼んだ。
「エル」
見下ろすエメラルドグリーンの瞳を真正面から見つめ返すのは、同じ色の瞳だ。
「今日は、エルに大切な話をしようと思うんだ」
「大切な……話?」
不思議そうな双眸を見返して、彼は柔らかく微笑み返す。
「この石碑について、エルにはまだ話していなかっただろう?」
「大事な人がいるんだよって、前に教えてもらったよ」
「よく覚えていたね。そう……この石碑はパパにとって大切だった人を想って建てたんだ」
「……大切だった人」
「ああ。とても大切だった人たちだ」
遠いところを見るようにして、彼はウプサーラ湖の湖面を眺めた。
クランスピア社によって源霊匣<オリジン>が普及したこの世界では、マナの循環作用が少しずつ回復し、乾ききった湖を蘇らせるまでに至った。太陽の光を受けて輝く湖面に眩しそうに瞳を細めて、彼は言葉を続ける。
「あの頃は何の疑いもなく信じていられたんだ。……共に生きていけるって」
石碑を見つめる父の視線の中に寂しげなものが宿っていることに気が付きながら、今ここで告げられた言葉の真意を探るためにエルは言葉を探す。
「その人は……?」
「もうこの世界のどこにもいないんだよ。遠い遠い向こう側へ行ってしまった」
「……そう、なんだ」
困惑したように言葉を途切れさせたエルに、彼は手を乗せた。
そうして小さく首を振って、言葉を続ける。
「パパはエルを困らせるために言っているんじゃないんだよ。パパの大切だった人たちのこと、エルに知ってもらいたくて話そうと思ったんだ」
「……いなくなるってこと、エルには難しいよ」
どこか途方に暮れたように石碑を見上げるエルの肩に手を置いて、彼は言う。
「エルはパパがいなくなったら困る?」
「やだ!」
間髪いれずに入った娘の抗議に、一瞬だけ面喰らう。
この小さな手のひらが、他でもない自分を求めている。それを改めて突き付けられたような気がして、彼は確かめるように言った。
「そうだね。パパはいなくなったりしないよ。ずっと……ずっとエルと一緒だ」
「パパ……」
ぎゅっと握りしめられる手のひらを優しく握り返す。まるで壊れものでも扱うように。
「いなくなってしまうことはとても悲しいことなんだ」
ぽつり、と彼は呟いた。
「だけど、その代わりに得た掛け替えのないものもあった」
彼の腰ほどの高さしかない小さな娘の手のひらを握りしめて、彼は目をつぶる。
「結局のところ、その時何を『選択』したのかということなんだ。そうして未来は決められてゆく」
「………」
「難しいかい?」
「……うん」
「それでも、8歳になったエルに言っておきたかった言葉なんだ」
そうして彼は空を見上げる。
シルフモドキが一羽、青空を横切るようにして飛んでいった。リーゼ・マクシアとの交易が盛んとなった今、エレンピオスでも見かけるようになった光景の一つだ。
「シルフモドキは人間の霊力野<ゲート>を識別することのできる生き物だ。長距離の飛行を得意とし、リーゼ・マクシア間で文書を運ぶことも多かったそうだ」
「次世代GHSがあるし。別に鳥さんで連絡を取る必要なんてないよ」
「そうだね。もう彼らは文書を運ぶ役目は終えたのかもしれない。……それでも、彼らがこのエレンピオスの空を羽ばたけるようになった日常を」
そうして、噛みしめるように彼は言った。
「この石碑の人たちが守ってくれたんだよ」
「ここの人たちが……?」
「ああ」
穏やかな風が通り過ぎてゆく。もしかすると、風の精霊術を扱うことを得意とするシルフモドキが運んでくれた風だったのかもしれない。
重さのない沈黙中で、ふと、彼のポケットの中にねじ込まれた次世代型GHSの着信音が鳴り響いた。
「もしもし」
指の腹で端末をなぞった彼は、ディスプレイに表示された名前を見て顔を綻ばせた。
「ああ。うん。……分かった。……え?………も…一緒?ああ、迎えに行く」
そうして、視線でエルに合図をする。
慣れたもので、見慣れた父の合図にエルもまた表情を綻ばせた。
「ママがディールまで帰ってきた」
「帰ってきた!」
両手をぱっと上げて、エルが全身で喜びを表現する。
そんな娘の姿に笑みを深くして、彼――――ルドガーはエルの手のひらを取り直した。
「迎えに行こう。今日はスペシャルゲストも一緒だぞ」
「えっ!?誰だれっ!?」
「誰だと思う?」
「うーん…う〜〜〜ん……。エリーゼかな?」
「惜しい」
「えーっと、じゃあアルヴィンとレイアも一緒?」
「もう一声」
「ローエン!ジュード!あとミラ!」
「ガイアスとミュゼも来てる」
「王様も!?すごいすごーい!」
にかりと笑って、ルドガーは小さな娘のエメラルドグリーンの双眸を覗き込んだ。

青い空を横切るようにして、真っ白なシルフモドキは飛んでゆく。
その下の小さな石碑を祈るようにもう一度だけ見て、ルドガーは歩き出した。今日で8歳となる愛娘の手を引いて。

――――あの時、あの場所で、最後の最後で意気地がなかった俺の代わりに消えてしまった小さな女の子。エル。
ずっとずっと、後悔していた。どうしてあの時、エルを一番にしてやれなかったんだろうって。
本当にごめんな、エル。
あれから随分時間が経った。……あの時の気持ちを忘れるつもりはないけれど、後悔することはもうおしまいにしようと思うんだ。
俺は、今を生きている。
今ここにいて、奥さんが出来て、娘が出来た。そういう未来を、エルが俺に譲ってくれた。
……だから。

「皆、エルの誕生日を祝いに来たんだよ」

ここから開けてゆくこの子の未来を、どうか俺に――――…見守らせてほしい。
石碑に捧げた祈りが彼女に届けばいいと、切に願う。





12.12.11執筆