『わたしの洗濯物は自分で洗うから』

初めてその言葉を聞いた時の衝撃は、今も忘れていない。
その日は一日上の空で仕事もろくに手がつかず、気晴らしに作り始めた料理もトマト入りオムレツが大量に出来上がる始末だった。
親離れする娘を持つ父親の気持ちとは、こんなものなのかもしれない。いや、俺は結婚した覚えはないんだけどな。
あの戦いの結末を、時空の剣士に委ねてから五回の季節が巡った。早いもので、俺は25歳。エルに至っては13歳だ。本当に時が経つのは早い。
クランスピア社の社長だなんて肩書きも、ようやく馴染み始めたかと思うのも納得だ。あのちっちゃかったエルが一丁前にお洒落に目覚めるような年頃になったんだもんな。前までは俺が結っていた髪も、いつの間にか自分で結うようになっていた。……それはそれで、寂しいものがあったのだけれど。
そして、話は冒頭に戻る。
少しずつ年頃の少女らしくなってきたエルに、俺は先日ついに洗濯物禁止令を喰らった。自然に髪の毛を触らせてもらえなくなった時とは衝撃の程度が違う。面と向かって!ハッキリ!キッパリ!言われたんだぞ!?
このショックをどう表現したらいいんだ!!?
いじけてジュードに連絡を取ってみたものの、ジュードはジュードで『エルも女の子なんだから、ちゃんとルドガーも気を使ってあげなきゃ』とか言い出すし。
だってエルだぞ!?
一緒に布団でプロレス技ごっこしたり、手を繋いで歩いたり、ぎゅーって抱っこしたこともあるんだぞ!?……いや、もう流石に今はやってないけどな。
8歳の頃から一緒にいるエルは女の子以前に、そういう対象じゃない。なんというか……そう、タイトーなアイボーなのだ。
結局のところ、俺はエルが少しずつ手がかからなくなってゆくことが寂しいのだと思う。我ながら世話焼き女房気質だよなぁと思うものの、こればかりは生来の気質なので多分どうにもならない。



「ただいまー。……って、あれ?ルドガーいたんだ」
「酷いな。俺とエルの家じゃないか」
「いや、だって最近ずっとお仕事だったみたいだし……」
「ほとんど缶詰だっから、ついにヴェルに休めって社長室を追い出された」
「ぷっ、社長なのに」
「実質はヴェルが社長みたいなもんだよ。表立った実績もない俺が社長なんてできたのも、ヴェルのおかげだ」
「ううん、そんなことないよ。ルドがーが頑張ってるの、わたし、ちゃんと知ってるもん。それに今は、ジュードの源霊匣の普及に一役買って、みんなに認められてきたところじゃん」
見上げる身長も、昔に比べるとずっと伸びた。
「……ありがとな」
「子供扱い禁止ー!」
ぽんぽんと頭を撫でると、照れくさそうにエルが抗議の声を上げる。
やなこった。徐々にエルに関する規制が増えてきてるんだ。このくらいは許してもらわないと、エル欠乏症になっちまう。
……いつかエルが嫁に行くとか言いだしたら、俺、発狂するかもしれない。今ならヴィクトルの気持ちが痛いほどよく分かるだなんて、とてつもない皮肉な話だ。
「もー」
ほっぺたを丸く膨らませて抗議を上げるその声すら心地いい。……そういえば、最近は仕事漬けでこうしたやり取りをすることさえも少なくなっていた。
「あれ、メールか?」
「うん。学校の友達」
「これから遊びに?」
「ううん、逆。断ろうと思って」
「えっ、何で」
「久しぶりにルドガーが家にいるんだもん。今日は家にいる」
「別に気を遣わなくていいんだぞ」
「学校の友達とはいつでも遊べるけど、ルドガーはそうじゃないでしょ?」
だから、今日は家にいる日。
送信ボタンを人差し指で押しながら、事もなげにそう言ってしまえるから、エルはエルなんだと思ってしまう。
……くそ、年甲斐もなく嬉しい。俺、こんなんでほんといいのかな。
「そういや、ルドがーは今日何をしてたの?」
「んー。掃除したり洗濯物してたりしたな」
それでエルから洗濯物禁止令を喰らったことを思い出して、ブルーになっていたわけだけど。
もちろん、そんなことはエルがいる前で表情に出さない。社長業を始めてからというもの、ヴェルから表情筋を動かさない指導を何度も受けたからな。流石に大分板についてきた。
「せっかくのお休みなんだから、そんなことしないでのんびりすればいいのに」
「家事やってると落ち着くんだよ」
「何それー」
コロコロと鈴を鳴らすようにエルが笑う。
そんな時間が心地よい。……本当に、たまには休まなくっちゃな。
「今日の夕飯はスープとトマトクリームパスタだぞ。仕込みもバッチリだ」
「ルドガーのスープ!?」
「ああ。久しぶりにエルに食べて貰おうと思って」
そう言えば、まるで花が綻んでゆくようにエルがふんわりと笑う。
「うれしい」
思わずそれにぎくりとして……ぎくりはないだろ、と思い直す。今更何を焦ってんだよ、俺は。
「じゃあ、わたしはサラダでも作ろっかな。トマト入りのサラダ!」
いつしかすっかりトマトを克服し、好物になったエルが片手を上げて宣言する。その辺りは昔と変わっていなくて、なんだか笑えてしまった。
「何で笑うー」
「いや、エルはやっぱりエルなんだなって思って」
「当たり前でしょ。変なルドガー」
くすりと笑って、エルはハンガーにかけてあったエプロンを手にとった。
「もう作るのか?」
「久しぶりのルドガーのスープだもん。待ちきれないよ」
「……そっか。じゃあ、一緒に作ろう」
にかりと笑って見下ろせば――――そこには、驚いたように頬を染めたエルの姿があった。
「えっ……あ」
「ん、と……あっ、お、俺もエプロンとってくるよ」
「わ、分かった。待ってる」
『待ってる』そう言ったエルの言葉にまたどきりとする。元々エルは可愛かったけれど、最近はなんというか……その、少しずつ俺の知らない表情を見せるようになった。
ま、まさか学校で好きな奴とかできたのか?もしどこの誰ともわからないような馬の骨だったりしたら、俺何をするか……って馬鹿か。俺はエルの父親なわけじゃないし、そこまでエルを拘束できる権利もない。
分かってはいる。分かってはいるんだ。
それでも、一度頭の中に浮かんだ考えは簡単に消えてくれそうにもなく、ぐるぐると堂々巡りをしてしまう。
小さかったエルが、まるで蛹から蝶へと羽化するように成長してゆく姿を見るのは嬉しい。けれど……大人になれば、いずれ一人立ちして巣穴から飛び出していってしまうものだ。その日がくるのを、俺は果たして黙って見守ることができるのだろうか。
「……いや、見守ってやらないといけないんだろうな」
部屋の中で小さく、独り言つ。
誰にも届くことはないけれど、思わず零さずにはいられなかった。俺のエル依存症もここまできたら手に負えない。その事実にやっぱりまた笑って、すぐ傍にある扉にもたれ掛かった。そのままずるずると座り込む。
「あー、俺、こんなんで結婚とかできるのかな」
分史世界の俺、ヴィクトルはリューゲン商会のラル・メル・マータさんと婚姻関係にあった。そこへ至ったプロセスも、なんとなく分からないわけではない。ラルさん、本当に優しくて綺麗な人だから。
ラルさんのこと、気にならないわけじゃない。けれどそれ以上に……今の俺にはエルがいるという想いの方が強い。それに万が一、俺とラルさんがうまくいって子供が生まれたとしたら……今、ここにいるエルはどうなってしまう?
「……やっぱいいかな。結婚」
憧れが全くないわけじゃないけれど、やっぱり今の俺はエルの成長を見守ることの方が大切だ。ヴェルに休暇を押し切られた最大の原因を全力で見なかったことにして、立ち上がる。
いつか、エルが一人立ちするまではこの手で見守ってやりたい。その気持ちは本物だと思うから。



ルドガーがくぐった扉のすぐ向こう側。
そっと指先をドアに添えて、栗色の髪の少女は瞳を閉じる。
「ルドガーの……ばか」
すぐ傍にいるはずなのに、今はどこか遠い。それはわたしが子供だから?
「はやく大人になりたいよ」
ルドがーの頼れる相棒でありたい。傍にいたい。……その気持ちは、本物なのに。
阻む扉の厚さになんだか泣きそうになって、少女は祈るように扉の向こう側へ想いを寄せた。





13.01.23執筆