2015.04.18 執筆

Sweet Poison

 まったく、馬鹿馬鹿しい。
 そう内心、一人ごちながらも、透明な瓶を月光に照らしてみる。昼間に見た時は淡い薄桃色を湛えていた瓶は、月明かりの中だとより一層妖しく見える。微かに光ってさえ見えるその瓶の中の液体を眺めて、ミラは大きくため息を吐いた。
 やっぱり、馬鹿馬鹿しい。けれども、あんな世迷いごとに釣られてここにいる自分の方がよっぽど滑稽なことは身に染みて分かっていた。
 捨ててしまえばいいのだ。こんな瓶なんて。大体、これをくれた店主だって見るからに怪しかった。
 昼間は魔物と人間で賑わうシャン・ドゥの大橋は、こんな時間ということもあってか、すっかり人気がない。代わりに二つの丸い月明かりが、周囲の岩肌を煌々と照らしている。橋の下の河が、時折ちゃぷちゃぷと音を立てる以外、やけに静かな夜だった。
 手の中に収まってしまうほどの小瓶は、ミラの葛藤を知ってか知らずか、薄桃色の液体をゆらゆらと揺らしていた。表通りのアイテム屋がパナシーアボトルを切らしていたので、裏通りまで足を運んだ時のことだ。『体が強くなるような気がしてくる薬』だの『汗の臭いを抑える薬』だの、妖しい薬ばかりを取り扱う店の店主に呼びかけられたのは。
 あれほど露骨に胡散臭ければ、普通の感性を持っている人ならばまず近づかない。現にミラだって、無視して通り過ぎようとしたのだ。けれど、共に行動をしていたパーティ内二番目の年長者は、目ざとく店の品揃えの中からパナシーアボトルを見つけ出した。
「おっ、おっちゃん、パナシーアボトルも扱ってんの?」
「ああ、うちは薬専門だからね。まあ見てくれや。どれも効果はお墨付きだよ!」
「なんか妖しい薬もあるじゃないの。おたく、こんな堂々と店構えちゃって大丈夫? 取り締まりもあるでしょーが」
「はっはっは、うちの薬の成分には疚しいものは入ってないからね。後ろ暗かなけりゃ堂々としてりゃあいいのさ」
 それに、この街はこういう所だろう? だから、ネーミングは少し捻ってあるのさ。闘技場の方角を一瞥して、店主はけらけらと笑う。確かに闘技場で名を上げたいと野心を抱く相手を商売にするなら、相応の売り文句を考えているのだろう。とは言っても、見るからに胡散臭さを増量させているだけのような気もする。
「そういうもんかねえ」
「まあ確かにこういう店づくりじゃ冷やかしも多い。どうだい。一口分だが試飲もできるぜ?」
「へえ。どれができるんだい」
「ちょっと待ってな。……ほい、こいつだ。『肩こりが軽くなる薬』」
「だってさ、ジイさん。肩こりにはお悩みだろ?」
「私ですか」
 自分に振られるとは思っていなかったらしい。軽く目を見開いたローエンは、慌てたように言葉を続けた。
「最近は肩の調子が良いのですよ。私よりも研究に励んでいらっしゃるジュードさんはいかがですかな?」
「ぼ、僕!?」
「がんばれージュード君」
「骨は拾ってやるからなー」
「ひどいよ!」
 まあそう言いなさんなって。男ならぐびっと行こう、ぐびっと。相変わらずの店主の様子に、ジュードの逃げ場がどんどん埋められていく。
「別に無理して飲む必要ないんじゃない? 体調壊されても、こっちとしては迷惑なだけだし」
 助け舟を出したのは、見てられなかったからだ。嫌なら嫌で突っぱねればいいのよ、こんなものなんて。
あぁ、でも。唸るように渡された紙コップを握ってジュードが呟く。ようやく見つけたパナシーアボトル。ここが駄目なら、次を探さなければならない。ジュードの懸念はそんなところか。
「あ」
 紙コップがジュードの手から離れる。伸びた一本の腕がかすめ取っていった紙コップの中身は、そのまま銀髪の青年の口の中に吸い込まれていった。
「ちょっと、ルドガー!?」
 驚いたようなジュードの声。そのまま、怪しい薬を飲み干した青年はと言うと、へらりといつもの調子で笑ってみせた。
「思ったより飲みやすいな」
「ちょっと、あなた何一気飲みしてるのよ!?」
「いや、おっちゃんまっとうに商売してるって言ってるんだしさ。それなら飲んじゃっても大丈夫かなって」
「信じられない! それで体でも崩したら冗談じゃないわよ!」
「腹壊したらその時はジュードにでも診てもらうさ。そのために俺が飲んだんだし」
「ルドガー……」
 眉を寄せたジュードが、じっとルドガーを見上げて苦笑する。
「ありがとう」
「ん。気にすんなって」
「だからってあなたがそこまでする必要……」
「まあまあ、そう気にするなって、ミラ……ってあれ?」
 そこまで言って、ルドガーは何か異変に気が付いたように、ぐるぐると自分の肩を回し始めた。
「肩が……軽くなった?」
「え、本当?」
 まさか本当にさっきの薬が効いたのだろうか。驚きに目を丸くするミラに、体が軽くなったことを証明するかのようにルドガーが腕を振る。
「いや、ホント。うわー、これすごい。全然楽」
「だから疚しいもんは入ってないって言ったじゃないかい」
 にやにやと店主がルドガーを、そして様子をうかがっていた他のメンバーへと視線を投げる。そうして、ひょうたん型のオレンジ色のボトルを掲げて一言。
「さあ、お客さん、パナシーアボトルはいらんのかね?」
 それから先の顛末は想像に難しくない。一同は必要数のパナシーアボトルを買い揃え、おまけにパーティの一部は先ほどの肩こりに効く薬を買い求める始末。さあ用事もすんだし宿に戻るかといったところで、振り返りざまにミラは店主に声をかけられたのだ。
「ちょいとお姉さん」
「私?」
「そうだよ。お姉さん、ずっと俺の薬のこと疑ってただろ?」
「それは……その、悪かったわよ。あなた、まっとうに商売してたみたいだし」
 まだ根に持っていたのか。いや、相手の商売人としてプライドを考えれば当然だったのかもしれない。振り返ったミラは、素直に眉を下げて口にした。筋が曲がったことは嫌いな彼女だが、自分に否があった認めたならば、謝罪を口にできる律義さもあった。
「ああ、そのことならもういいさ」
「何? だったらどうして私だけ呼び止めたわけ?」
 ミラだけが呼び止められたことに、他の皆は気が付いていないらしい。どんどん小さくなっていくルドガーたちの背中を目で追いながら、ミラが苛立ちを込めて店主に言葉を投げる。このままだと本当に置いていかれそうだ。
「ああ、手短にまとめるさ。いやね、お姉さん、あの銀髪の兄ちゃんのこと気になってるんだろ?」
「なっ……」
 ひゅうっと、言葉にならない声が喉から音になって零れ落ちた。そのまま酸欠になった金魚のように、顔を真っ赤に染めてぱくぱくと口を動かすミラを前に、店主は楽しそうに笑う。
「やっぱりそうだと思ったんだ。それで、ほら、お姉さんにこの薬。今なら300ガルドにまけとくけどどう?」
「…………どう、って言われても何の薬とも言ってないじゃない。怪しすぎるわ」
 問答無用で突っぱねるのではなく、薬の中身を訊ねてきたミラの言葉に、店主はきらりと目を光らせる。そのまま内緒話をするように声のトーンを落として、身を乗り出した彼は続けた。
「これは飲んだ人を、一時的により魅力的にする薬さ。相手の心を虜にするような薬ってのは、俺の教示に反するからな。ともかく、これを飲んで相手に迫ればもうそりゃイチコロってもんだい。さあ、お姉さん、どうする?」
「なっ……、せ、迫るって、告白しろとでも言ってるの、あなた」
「ほらほら、お連れさんもう行っちまうよ。早く決めた方がいいんじゃないかい?」
 ――その結果が、今現在、ミラの手元にある薄桃色の液体を満たした小瓶である。
 冷静になって考えてみれば、上手いこと乗せられてしまったという間抜けな自分の姿が浮き彫りになって、ますます打ちひしがれてしまう。あそこで急かしてくるのは反則だ。今更突き返してくる気にもなれず、にこやかな顔で「それはちっとばかし特殊な薬だから、飲む前に必ず月の光を当てるように」という店主の言葉通り、こんな時間に一人宿屋を抜け出している始末。……本当に、どうかしている。
「別に、あいつと会う約束してるわけでもないし」
「買ったものをどう使おうと、私の自由だし」
「……ちょっとくらい可愛く見えるなら、悪いもんじゃないと、思うし」
 言い訳がましく手の中の瓶を転がしながら呟いて項垂れる。……薬なんかの力に頼るものか。そう反発したくなる自分がいることにも気が付きながら、口を開けばつい憎まれ口ばかり叩いてしまう素直じゃない自分に肩を落とす。
 結局のところ、自分はただの意気地なしなのだ。今の心地よい関係を壊してしまうことが怖くて、気持ちに蓋をして押し込めているだけ。……だったら。
「えーい! もうどうにでもなれよ!」
 きゅぽんと封を切った瓶に口を付けて、ミラはそのまま一気に中身を飲み干した。苦い、かと思いきや味は意外に甘ったるい。もしかしたら、シロップでも入っていたのかもしれない。
 何はともかく、飲んでしまったのだ。効果は一時的と言っていたから、そうは長くないだろう。ここまできたなら、後はルドガーに会えばいいのよ、会えば。半ばやけくそのように思いながら、ミラは宿屋に向かってどすんと一歩を踏み出した。
 どくん。瞬間、心臓が嫌な音を立てた。
「………え、っぁ……な、なに、これ…………?」
 どくん、どくん、どくん。まるで、血液が心臓に逆流でもしているかのようだ。ぷつぷつと肌が泡立つ感覚と共に、電流のように痺れる感覚がミラの脳天に突き抜ける。
 体が燃えているかの様だ。絡みつくような甘い疼きが腹の奥から広がってきて、全身へと広がってゆく。ぞくぞくと震えが走る体は、奇妙なことに些細な感覚でさえもミラの体を過敏に反応させた。
「う、うそ……。まさか、この薬って……!」
 なんてものを売りつけてくれたのだろう。後悔しても、もう遅い。震える腿を支えるために、橋の手すりに手をかけて、呻くようにミラは呟く。
 『これを飲んで相手に迫れば』そう言った店主の言葉が、今更のようにぐるぐると木霊している。彼は率直すぎるくらいに率直な言葉で表現していたのだ。急かされたミラが解釈した意味とは違った、そのままの意味で。
(これ、媚薬だわ……!)
 じんじんと腹から膨らんでくる得体のしれない感覚に体を折り曲げて、店主を呪ってみても今更なことだ。
 泣きそうになりながら震えて蹲るミラの頭から、こんな非常時に限って声が降ってくる。
「おっ、おい、ミラ! 大丈夫か!」
 …………なんて、間の悪いひと。心の底から湧き上がってくる悪態をどうにかこうにか飲み込んで、ミラはそっぽを向くように足を抱え込んだ。
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