2015.10.25 執筆

俺とエルの朝ごはん

 明るい日差しを感じて、俺はゆっくりと重たい瞼をこじ開けた。
 ――頭が、痛い。例えて言うならば、風邪を引いた時のような。ちくりちくりと頭には刺すような痛みがあるのに、その原因が全くと言っていいほど思い浮かばないのが不思議だった。
 昨晩確かに『何か』はあったはずなのだ。その『何か』の心当たりが思い出せなくて、俺はううんと重い頭を捻った。
 その時、するりと腹の上に被さっていた毛布が滑り落ちた。どうやら俺は宿の一室にいるらしい。きちんと整えられている部屋を見渡して、俺は昨夜の記憶を手繰り寄せた。……そうだ。確か昨晩、珍しくローエンとアルヴィン、ミラ、ミュゼ、それからガイアスの成人組で酒でも飲むかという話になったんだ。
メンツ的に羽目を外すような感じでもなかったし、実際最初は落ち着いて呑んでいた……はずだった。
 それがどうして二日酔いになるほど、呑んだくれる羽目になったんだ?
 チクチクと痛む頭が思考をまとまらせてくれない。胃の中はとっくの昔にカラッポになっているくせに、食欲がてんで沸かない。それでも何か口にしなければ回復が遅いだろうことは目に見えて、俺はげっそりとした気持ちになって息を吐いた。せめて、吐き気がないことだけが不幸中の幸いか。
「ルドガー!」
 ばたん、と大きな音がしたと思ったら、栗色の髪の毛の幼い少女――エルが扉を開けて仁王立ちで立っていた。
「エル、ごめん。今は大声出さないでくれ……昨晩飲みすぎたみたいなんだ」
「あっ、ご、ごめん。えとね、『フツカヨイ』にはお水って聞いたから、エル、持ってきたの!」
 その小さな手が、水差しとグラスの入った盆を抱えていることに気がついて、俺は今更ながらに天を仰ぐ。ああ、流石俺のアイボー! 気が利いている!
 差し出されたグラスを手にして、一気に煽る。乾ききった喉に朝一番の水分は簡単に吸い込まれていって、ものの五秒もしない内にグラスの中身はからっぽになった。
「ありがとな、エル。これで大分楽になるよ」
「どういたしまして! エルは気が利くオンナなのっ」
「はは、本当だ」
 思わず笑顔になって感謝を口にすれば、エルもまんざらでもないように笑う。
「アルヴィンもミュゼはレイアとエリーゼが様子を見に行ったよ。みんな大人のくせにはしゃぎすぎー」
「……ごもっともすぎて返す言葉もありません」
 情報から察するに、アルヴィンとミュゼも二日酔い組らしい。あー……段々昨日のこと思い出してきたぞ。
「『酒は飲んでも飲まれるな』ってパパも言ってたよ」
「はい。大変反省しています……」
 確か、昨晩のアルヴィンとミュゼは、グラスを片手に随分と楽しそうにしていた記憶がある。元々微妙な空気感を持っていたはずの二人は、アルコールが入ると何故か意気投合して、俺に酒を押し付け合ってきた。俺(私)の酒が呑めないのかーって。……完全に呑んだくれのおっさん状態だったな。
 唯一の良心だったローエンは、歳も歳だということで、宴もたけなわになる前に部屋に戻ってしまっていた。そんなわけで、ノリノリのアルヴィンとミュゼを止めるものはガイアスとミラしかいなかったはず……あ、あああああ! 思い出した!
「……っう」
「どうしたの? ルドガーー?」
 思い出し脳内叫びで頭を振ったせいで、酷い頭痛を引き起こしてしまった。心配そうなに顔色を伺ったエルが、もう一杯とグラスに水を注いで渡してくれる。それをゆっくりと飲み干しながら、俺は昨晩の宴のことを思い出していた。

   * * *

「そう言えばなかなかに興味深い座敷遊びとやらを聞いたぞ」
 程良く酒で体が温まってきた頃、ガイアスはふと思い出したようにぽつんと言ったのだった。
「座敷遊びだと?」
 それに不思議そうに首を傾げたのはミラだ。うむ、とミラの疑問に答えるようにガイアスは言葉を続けた。
「ああ、飲み仲間から教わったものだ。エレンピオスでも酒蔵として有名な土地で残っている遊びらしい」
「へぇ、気になるわね」
「ガイア……アーストから座敷遊びなんて言葉が出るなんてな。どんな遊びなんだ?」
 座敷遊びとは無縁そうに見えるガイアスの言葉に、皆が興味を惹かれたのはごく自然な流れだった。尋ねられた質問に、返事を用意しないガイアスではない。彼はこの時のために用意していたのか、ポケットの中から小ぶりなコマと杯を取り出してみせた。
「使うのはこのコマと杯だ」
「なぁに、これ?」
「ふむ……杯が人の顔になっていて、コマには杯と同じ絵柄が描かれているな」
 ミュゼとミラが顔を突き出して机の上に置かれたものを覗き込んで感想を伝える。確かに、ガイアスが持ってきた杯は奇妙な形をしていた。
「こりゃあもしかして「ひょっとこ」と「おかめ」と「天狗」か?」
「なんだ、その名は?」
 聞き覚えのない単語を上げたアルヴィンにすかさずミラが疑問の声を上げる。その声に答えるように、アルヴィンもまた杯の形を覗き込むようにして言葉を続けた。
「いや、俺も昔聞いたことがあるくらいなんだけどさ。確か……昔話に出てくる生き物だったはずだぜ」
「俺は聞いたことないなぁ」
「すげーマイナーな話だったと思う」
 確かにそんな気はする。こんなにも特徴的な顔をしているものだったら、昔聞いたことがあったら覚えていそうだと思ったから。
 机の上に並べられたそれぞれの杯とコマを見下ろしてガイアスは言う。
「この座敷遊びとは『べく杯』と言う。『べく杯』ではコマを回し、先が尖っている部分が指した位置に座っている人が、コマに描かれた杯を飲み干すという遊びだ」
「この人面杯を?」
「人面杯言うなミュゼ」
 茶化す様に入った横やりに、アルヴィンが嫌そうに顔をしかめる。確かに人の顔をモチーフにはしているのだろうけれど、人面杯というネーミングは嫌だ。
「面白そうじゃないか。せっかく実物もあるのだ。やってみればいいだろう」
 わくわくと顔を輝かせて杯を覗き込んだのは、案の定ミラだった。
 私はこの杯の形が気に入ったぞ。そう言って持ち上げたのは真っ赤な顔に伸びた鼻を持つ『天狗』の杯だ。その時の俺は、杯の珍妙な形にばかり気を取られていて、この遊びの真の恐ろしさを分かっていなかった。
 ガイアスの提案してきた座敷遊びは、興味半分で足を突っ込むべきものではなかったことを、この後痛いくらいに理解することになる。

   * * *

 コマは一面だけ先っぽが飛び出した形になっている。回した時、伸びた先端の先にいた人間が描かれた絵柄の杯を呑むというルールだそうだ。
 そしてこの座敷遊びの真に恐ろしいところは、杯の形にあった。
 『おかめ』は一番小さく、まだ普通の杯の形をしているので自分のペースで呑むことが出来る。
 『ひょっとこ』の杯は口の部分に穴が空いている。注がれた酒を零さないようにするには、口の部分を手で押さえなければならない。そのため、必然的に呑み方は速いペースになってしまう。酒を零すのはルール違反になってしまうからだ。
 『天狗』の杯。実はこれが一番凶悪だった。赤顔の長っぱな――これが杯を不安定にしていて、注がれた状態で置くことができない。つまりこれも『ひょっとこ』と同じように早く呑まなければならないのだが、鼻の分、酒の入る全体量が増えてしまう。つまり大量の酒を一気に煽らなければならないという、とんでもない杯だったのだ。
 コマが指した人は呑まなければならない。この絶対のルールに従って始まった座敷遊びは、参加者を簡単に呑んだくれ集団に変えてしまったわけだった。
「うふふ~、ルドガぁー」
 絡みつくような声を出しながら、宙を浮かぶミュゼがコマを指差してにこにこと笑う。
「あなたをコマが指したわ。ちゃーんと注いであげるからぁ、ぜーんぶ呑んでねぇ」
 その形は、どこからどう見ても真っ赤な長っぱな。
 いや、いやいやいやいや!? これは流石にまずくない!? ヤバイよね? ヤバイやつだよね、これ!!?
 いかついロゴの入った一升瓶を抱えるミュゼは、これでもかと言わんばかりの笑顔だ。中に注がれているのは、見間違うことなく焼酎で、俺は顔を引きつかせた。
 出された酒が焼酎だということに気がついていなかった提案者(ガイアス)が真っ先に潰れたのは意外だった。ザルであるはずの彼の唯一の弱点をピンポイントで付いてくるあたり、容赦がない。今この場で正気を保っているのは、悲しいことに俺だけだった。
 普段は頼りになるミラは、それほど酒に強くなかったようで、ぐでんぐでんになって机の上に突っ伏している。時折酔っ払ったガイアスのボケに、見当違いのボケを返すというボケ倒しの事態を招いている。いや、そういう実況してる場合じゃないんですけど!
 すっかり出来上がってしまったアルヴィンとミュゼに迫られて、俺は袋小路に追い詰められた鼠のような心境を味わっていた
「ルッドガーくんの、格好いいとこ見ってみったい!」
「ハァイ! ル・ド・ガー!ル・ド・ガー!」
 ひどいコールだ。ていうかほんとに俺、逃げ場なし!?
アルヴィンは陽気に腕を振り上げてるし、ミュゼはなんか目が据わってて怖い!
「ほらほらぁ」
 ぐいぐいと酒を注がれた杯を突きつけられる。もはやミュゼの目は笑ってすらいない。怖い! すごく怖い! ……ええい、もうどうにでもなれ!
「おおっ!?」
 アルヴィンが驚いたように目を丸くするのを尻目に、かっさらった杯を勢いよく俺は飲み干して――…
「へへっ……どんな…もんだゃい!」
 瞬間、世界がぐにゃりと歪んだ。そこから先のことは………うん、もう思い出さなくていいです。

   * * *

「…………死にたい」
 昨晩の痴態を思い出して、思わず泣きそうになる。
 こんな思いをするくらいな、いっそ忘れてしまっていたかった。なんで覚えているんだよ、俺。
ミュゼとアルヴィンはそのまま酒を注ぎ合うわ、息を吐くようにとんでもない嘘を吐くわ(主にミュゼ)、なぜかガイアスがそれに乗るわ、ミラはぐらぐら頭を揺らしながらボケに乗るわで、事態は完全に収拾がつかなくなっていた。
 大体いつからエレンピオスのトイレからアップルグミが沸きだす様になったんだ。酔った勢いというのは本当に恐ろしい。
 ぐるぐると回る世界のなかで目まぐるしく応酬されるボケ合戦についていけなくなった俺の記憶は、途中でぶつりと切れている。恐らく、誰かに介抱されたのだろう。多分、ミラの帰りの遅さに心配したジュードの線が濃厚だ。
「っあー……」
 このまま布団の中に逆戻りしてしまいたい、そんな甘美な思いが頭を掠める。
 きっとこのまま眠ってしまってもいいのだろう。みんなのはしゃぎようを考えれば、ダウンしまくっていることは明らかだ。……だけど、それじゃあ俺のことを心配してやってきてくれた、この小さなアイボーを心配させちまう。
 それなら、せめて料理をしようかなと思った。ここの宿は、前利用した時も厨房を貸してくれたはずだ。
 昨晩徹底的に痛めつけた胃でも、受け付けられるようなもの。塩見があって、体の回復を促すようなものを作ろう。今頃二日酔いで苦しんでいるだろうみんなも、何か食べることで少しでもマシになるかもしれない。恐らく迷惑をかけただろう、未成年組への俺なりの侘びという気持ちも半分入っている。
「……っっ」
 さっそく立ち上がろうとしたところで、頭の奥から鈍い痛みが思い出したかのように主張してくる。
「だいじょうぶ? もう一杯お水飲む?」
「ん。頼む」
 そう言えば、甲斐甲斐しくエルはグラスにまた水を注いでくれる。それをぐびりと飲み干して、俺は今度こそ息を吐いた。
「じっとしてた方がいい?」
「んー……、でもメシ作っちゃおうかなあって思って」
「頭痛いのに?」
「そんな時こそ、ちょっとでも食べておいた方がいいんだよ」
「でも、ルドガー……」
 むうう、とエルが難しそうな顔で見上げている。そういうところ、分かりやすくて本当に可愛いとこだと思う。多分、そう言ったら「何言ってるのルドガー」って照れてしまうんだろうけど。
「そんなに心配してくれるなら、エルも一緒に手伝ってくれないか?」
「え?」
 ぱちくりと驚いたように瞳を瞬かせたエルと視線が合う。意識をして唇を持ち上げれば、俺の体調を気遣ってか、少しだけ逡巡した後、エルは小さく息を吐いた。
「しょうがないなあ、ルドガーは。やっぱりエルがついてなきゃダメダメだね」
「ああ。しっかり者のエルがいてくれるからな」
「トーゼンでしょっ! 何作るの?」
 見下ろせば、ぴかぴかした笑顔でエルは応えてくれる。それに釣られるようにして俺も笑って、今度こそベッドから這い起きた。
   * * *
「トマトはなしだからねっ!」
「はいはい」
 リゾットの定番なんだけどなぁ、という言葉は水と一緒に飲み込んで、俺は手を動かした。せっかくエルも手伝ってくれるんだ。今回は好き嫌い云々抜きでやってあげないとな。
 作ることにしたのは、ほうれん草を使ったリゾットだ。
 ほうれん草は適当にざく切りにして、玉ねぎは少し大きめにみじん切り。じゃがいもは厚みを残して角切りに。それぞれ食感を楽しめるように丁寧に包丁で刻んでゆく。
 じゃがいもの皮はエルに任せることにした。役目を与えられたエルは、真剣な表情で一つ一つを剥いていった。本当は俺が手をつけてしまった方が早いのだけど、隣で一生懸命お手伝いをしようとしてくれる小さな姿が嬉しかった。
 水に晒してアク抜きをしている間に、さっとフライパンにごま油を流し込む。ごまのいい香りがキッチンに漂い始めたら、玉ねぎをフライパンに落として、飴色になるほんの少し手前まで炒めてゆく。
「いい匂い~」
 すんすんと鼻を鳴らしてエルがフライパンの中を覗き込む。
 身長が足りないエルは、匂いを嗅ぐことでフライパンの中身を想像しているようだ。その期待に応えるために、俺は温めたフライパンの中に米を入れて炒めてゆく。
 じゅわっといい音が立つ音を聞きながら、エルは楽しそうに鼻歌を歌った。少しだけ寝坊した朝の、俺とエルの二人の時間。なんだかそれがひどく心地いい。
「そこの調味料とってくれないか?」
「はい、ルドガー! これでいい?」
「うん、ありがとう」
 フライパンの中から熱した調味料の美味しそうな匂いが漂い始める。部屋の中に広がった匂いに釣られるようにして、キッチンの扉の向こう側から見慣れた黒髪が現れた。
「あれ、ルドガーとエル?」
「ん?……ああ、ジュード?」
「様子を見に行ったら部屋にいなかったから探していたんだ。料理してたんだ」
「エルも手伝ったんだよ!」
 えへん、と胸を張ってエルがジュードの前に立つ。その微笑ましい姿にジュードは頬を緩ませて、それから俺の方へ視線を移した。
「昨日は随分呑んでいたみたいだったけど……大丈夫なの?」
「あー…まあな。じっとしてるより何か腹に入れた方が具合も良くなりそうだと思って」
「そっか。ああ、それでリゾット?」
「あっさり味にしてみた。ジュードたちの分もあるぞ」
「僕たちのも?」
「そう!皆で食べたらいいってルドガーが」
「わあ、ありがとう。ルドガー」
 具合が悪いのにごめんね。そう気遣うジュードに「気にするなよ」と笑って返事を返す。実際、料理をしたことでベッドで痛みと戦うよりも、随分と気が紛れた。
「ミラ、随分具合悪そうだから、何かお腹に入れるものでも作って上げられないかなと思って来たんだけど」
 言葉に甘えちゃっていいかな。控えめにそう言うジュードに、もちろん! と満点の笑顔のエルだ。
「もうすぐ出来上がるから、ジュードは座って待ってていいよ!」
 一丁前な料理人みたいなことを言うアイボーの姿に、思わず俺の方まで笑顔になってしまう。
 米が炊けるいい匂いがキッチンに充満し始める頃には、頭の痛みよりもむしろ、穏やかな時間への心地よさの方が勝ってた。
「おー……いい匂いがすると思ったら」
「リゾットか?うまそうだな」
 頭を抑えてしかめっ面のアルヴィンに続いてやってきたのは、ケロリとした顔のガイアスだった。
「おっはよー!みんな!」
「レイア、大きな声出さないで……」
 続いてやってきたのは、今日も元気いっぱいのレイアに、ふらふらと怪しい動きで宙を飛んでくるミュゼ。
「そんなに痛くなるまで飲むのがいけないんです」
「へーい」
「皆さん、昨晩は随分呑まれたようですね」
「ああ、呑みすぎってぐらいだ」
 ぞろぞろと見慣れた顔触れが集まってくる。
 特に声をかけたはずでもないのに、食べ物の匂いに誘われて集まってきたのはいつも通りと言うか何と言うか。
「ほらほらみんな!ちゃんと座って待っててよ!」
 俄然やる気になって仕切り始めたエルに視線を向ければ、同じ色の瞳が俺の方へ向けられる。
「ルドガー!」
「分かってるよ」
 今日の料理人は俺とエルの二人だもんな。そう目で合図して、俺はフライパンの中身を皿へと盛り付けるため、お玉を手にとった。
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