2015.04.16 執筆

温泉恋バナ

 こんこんと涌き立つのは、白濁の秘湯。眼前に広がるのは、岩と水と緑が織り成す絶景だ。開放感あふれる野外の混浴温泉の一つを貸切状態で堪能しているのは、素肌にタオル一枚というあられもない格好の女性たちだ。友人の祝いという名目で集まった、職業も年齢もてんでばらばらだったが、裸の付き合いというものは彼女たちをすっかり開放的にさせてしまったらしい。温かい湯に肩まで浸かり、のびのびと雑談に花を咲かせていた。
「は~っやっぱり生き返る~!」
 ぱしゃん、とお湯の中で腕を伸ばしたのはノヴァだった。それに続くかのように、岩に腕を乗せたレイアが、幸せそうに顔を綻ばせる。
「女子だけでこうやって集まるのってちょっと新鮮だよね~!」
「フフ、たまにはね」
 同意に頷くのはヴェルだ。普段は隙のない真面目な敏腕秘書も、温泉の心地よさにうっとりと目を細めていた。
「本当だよ~。湯上り浴衣美人に、旅館で畳。う~ん、これが風流だねえ」
 うんうんと頷くノヴァの言葉に、エリーゼもまた首を縦に振る。ユカタ・タタミ・オンセン。普段は触れることのない異文化は、エリーゼにとっても新鮮で興味深いものらしい。
「で! 私、ずっと気になってたんだけどこの中でルドガーと付き合ってるのは、誰?」
 そんなほっこりとした空気の中、唐突に爆弾を投下してきたのはやはりと言うべきか、ノヴァだった。
「やっぱ年齢的にはミラ? それとも年下彼女でレイア? 大穴でエリーゼいっちゃう!?」
「もう、ノヴァ、よしなさい」
「え、えっと……」
「やっぱここんとこは気になるでしょー!ルドガーの大友人としては!」
 よりにもよってそれをノヴァが言うのか。ルドガーがノヴァに告白したことがあるという経緯を知っているレイアやエリーゼは、困ったように眉根を寄せる。そんな二人の仕草に、ヴェルが助け船を出すよりもノヴァの追い討ちの方が早かった。
「そんで、ホントのところどうなのよ~。ねっ、お姉さんに話してごらん??」
「それは男女の付き合いという意味でということだろうか?」
 困惑に顔を見合わせるエリーゼとレイアとは別に、ノヴァの質問に質問を重ねたのは、今まで沈黙を守っていたミラだった。
「もっちろん!」
「だとしたら、ここにいる者は該当しない。みな、良きルドガーの友人だよ」
 目を輝かせるノヴァを前に、苦笑してミラは答えた。
 うなじに伝う髪をかき上げながら呟く姿も様になっている。彼女なりに温泉を堪能しているようだった。
 平静な三人を前に、色恋の気配はなさそうだと、ノヴァは落胆したらしい。入浴の際に持ってきた盆の上からグラスを掴むと、ぐびりと一杯景気よく飲み干して、年頃の女性らしくない声を上げた。
「かーっ! せっかくの女子会なのに恋バナ一つも盛り上がれないわけ!? ヴェルはこんなだしぃ~」
「うるさいわよ」
「ねえねえ、何かないの~?」
 お湯を描き分けて進むノヴァが、丁度近くにいたエリーゼに詰め寄る。ギラギラと目を輝かせて迫ってくる様は、ある意味で鬼気迫っている。ただでは帰さんぞというノヴァの気迫に、エリーゼは短い悲鳴を上げた。
「可愛く悲鳴を上げてもダーメー! その顔は、何かネタを持ってるな~~! さー、吐け、吐くのよっ!」
「だ、男女的なお付き合いって意味で言ったら、一番近いのはミラとジュードなんじゃないですか!?」
 苦し紛れにそこまで言って、しまったという顔をするエリーゼ。仲間を売ってしまった形になってしまったものの、時はすでに遅い。しっかりとエリーゼの言葉を耳にしたノヴァは、まるでおもちゃを見つけた子供のような表情で顔を振った。
「へっ!? そうなの!? ミラ、ジュードとなの!? 年下彼氏いいねーいいねー!ひゅーひゅー」
「へえ、そうなの」
 ヴェルも少しばかり意外そうに目を開いて、目の前のミラを見つめた。一斉に視線を向けられたミラはと言うと、大して動じているわけでもなく、僅かばかり首を捻った後に、言葉を口にする。
「男女のお付き合いという形に私たちが当てはまるのかは定かではないが……」
「は~、ジュードいいね~。年上彼女で、しかも相手はミラでしょ。この胸! このくびれ! ナイスプロポーション! いやーもう彼氏としてはたまらんでしょ!」
 聞いちゃいない。ミラの言葉そっちのけで盛り上がるノヴァと対照的に、ぷくぷくとお湯に泡を立てながら半目になっている少女がいた。
「……う~」
「あっ、ちょっとレイアそれは……!」
 苛立つ気持ちを紛らわせようと彼女が手にしたものは、ノヴァが持ち込んだグラスだった。そこに何が入っているのも大して見もせず、一気に中身を飲み干して……そして。
「ひっく」
「お酒って言おうと思ったんだけど遅かったか」
 温泉で温まったのとはまた違う。誰の目からも明らかなほど頬を赤く染めたレイアの目は、妙に据わっていた。グラスの中身が酒であったというのならば、道理だろう。飲み慣れない酒はレイアの口を饒舌にさせたらしく、彼女はお湯の中から勢いよく立ち上がって、ミラを指さした。
「ミラもジュードもじれったさすぎなんだもん!」
「レイア?」
「離れ離れで、ようやく会えたのにいつも通りでぇ……」
 呂律が回らないなりに、彼女は一生懸命伝えようとしているらしい。
「お。もしかして面白い展開」
「あなたはちょっと黙っていなさい」
 入りかけた茶々に、ぽこんとヴェルが手套を下す。あいたー! という非難の声もどこ吹く風だ。
 そんな騒がしい外野の様子は目に入っていないらしく、レイアは依然熱のこもった調子でミラに語り掛けていた。
「ミラは不安になったり、心配になったりしないの? 他の女の子がジュードを取ったりしないって、ミラはそう思ってるの?」
 揺らめくエメラルドグリーンの瞳が、ミラの姿をまっすぐに捕えている。その真摯なまなざしを受け止めて、ミラはふわりと微笑んだ。
「レイアは私たちを心配してくれているのだな。ありがとう」
「そんなんじゃないよ! わたしは、わたしはただ……」
 そこまで言って、レイアは唇を閉ざしてしまう。まるで、それ以上声を発することを、自ら押し留めてしまうかのように。
「男女の関係を交わしたかと言うと、私たちはそうではない。ただ、言うとすれば……」
 そうして、ミラは何気なく『それ』を掴む。先ほど散々見たはずなのに、喉の渇きを潤すためか、はたまた自分ならば大丈夫なのだと過信したのか、ミラもまたぐびりと『それ』を飲み干した。
「だから、それ、お酒だって……!」
「私たちの望むせかいはおなじ……」
 ごちん、ざぶん。擬音を付けるとしたらこんなところか。そのまま勢いよく90度の角度でお湯に突っ込んだミラの姿に、今度こそ周囲は騒然とした。
「みっミラーーーー!!?」
「医者! 医者ーーー!!」

   * * *

「……む?」
 ぱちぱちと霞む世界に瞬きをする。やがて薄ぼんやりと滲んていた風景に焦点が当たり、目の前に見慣れた少年の顔があることを認識する。……ずいぶんと心配顔だ。また、いらぬ苦労をかけさせてしまったらしい。
「良かった。ホント、びっくりしたよ。ティポの中から叩き出されたと思ったら、ミラが倒れたって聞いたから」
 そう言えば、あの混浴温泉で男性陣はティポの中に詰め込んだままだった。はじめのうちは「出せー!」だの「横暴だー!」だの抗議の声が上がっていたが、それもやがて悲痛な悲鳴となり、そして沈黙に変わった。おかげさまでこちらはゆっくりと温泉を堪能できたものの、ミラが倒れたことでようやくティポから解放されたというのならば、ジュードはろくに温泉を堪能できやしなかったのではないか。そう告げると、ジュードは優しく「ああ、そんなことなら気にしないで。あとで入り直せばいいだけだから」と笑って答えてしまう。
 こんな時でもお人好しなジュード。その優しさは、誰にだって向けられて然るべきだ。けれど、今、ここで、自分だけに心配を向けられていることが、奇妙なことに嬉しいのだ。
(私はどうしてしまったのだろう)
 こんな複雑な感情など、かつては知りもしなかった。酔いの中叫んだレイアの言葉が、今更のように刺さる。ジュードと男女の仲になったというわけでもない。関係だけ言えば、ただの精霊と人間、何でもないはずだ。……だけど。
「ミラ?」
 不思議そうなジュードの声音で、ミラはようやく自分が彼の浴衣の裾を引っ張っていたことに気が付いた。慌てて放そうとしたその手のひらを、ジュードの大きな手のひらが優しく包み込む。
 何とも言えぬ沈黙だった。しかし、その言葉のない時間は、奇妙な心地よさが確かにあった。
「ジュード。……なあ、君は」
「なあに? ミラ」
「寂しく感じたり、傍にいて欲しいと思うことがあるのだろうか?」
「へ!? な、なに!? とととつぜん!?」
 その言葉は、彼にとっては思いがけないものだったのだろう。驚いたように声を上げ、そして。
「ミラは、寂しかったり、傍にいて欲しい時があるの?」
「……分からない。君と同じゆく道を歩いているというのはとても心強くあるんだ」
 精霊を統べる主であるのならば、マクスウェルならば。その言葉は、多分口にしてはならないことだ。迷いなど、あってはならないことのはずだ。
「だけど、こうして近くにいる時はもっと傍にと思う自分もいる」
 分かってはいるんだ。理解も、しているはずなんだ。それでも、握りしめた手のひらの温もりを離したくないと、未練がましく思っている『ミラ』がいることは、今更疑いようもなくて。
「矛盾しているな。自分でもおかしなことだとは思うのだが」
「そんなこと! ……ないよ」
 頬を薄らと赤く染めて、ジュードが小さくかぶりを振る。握りしめられた手のひらが、ただ、ただ熱い。
「ね、ミラ」
「なんだ?」
「ぎゅってしていいかな」
 掠れる声で請われる願いを、どうして拒めることができようか。
「……ああ」
 背中に温もりを感じる。首筋に微かな吐息。風呂上りで艶を持った黒い髪が、さらりと頬を撫でた。
「僕も」
 微かに熱を帯びたジュードの声が、優しく耳殻を叩く。
「僕もミラと同じ道を歩いて行けること、嬉しいよ」
「……ああ」
 胸を満たす、この感情を精一杯噛みしめたくて瞼を閉じる。背中から感じるジュードの鼓動は、とても速かった。けれど、多分、それは自分も同じことだ。
「でも、たまには……」
「?」
「こうやって触れていたいって思うよ」
 ――ああ、本当に。
「……ミラ?」
「酒を、飲み過ぎたようだ。胸が、ドキドキする」
 人の成長には、いつだって驚かされる。らしくない言い訳を口にしながら、繋いだままの手のひらをぎゅうっと強く握りしめた。
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