「綺麗なペンダントですね。何の石なんですか?」
無意識の内に、首からぶら下げたペンダントを触っていたらしい。つるりとした青いガラス玉の感触が手の中にあることに今更驚きながら、ジュードははっとして振り返った。
声をかけた黒髪の研究員であるマキは、なぜだか興味津々だ。ジュードの手の中にある青いガラス玉を興味深げに見つめて、答えを待っている。
「えっと」
一般女性が期待するような高価なものじゃないんだけどなぁ。内心苦笑しながらも、ジュードは手の中にあるペンダントを持ち上げて返事した。
「多分、マキさんが想像しているような石とかじゃなくって……これは、普通のガラス玉なんだ」
「えっ、そうなんですか?」
やはり遠目からではよく分かっていなかったのだろう。分かりやすく落胆するマキに、ジュードもまた苦笑を漏らす。わざわざペンダントにして持ち歩いているくらいなのだから、勘違いするのも仕方もない。同時に、何の変哲もないこの青いガラス玉を宝物なのだと言って笑った人の横顔を思い出してしまって、ジュードの胸は切なく震えた。
「ジュードさん、何か大事なことを考えている時はいつもそのペンダントを触っているから……特別な石なのかなって思ってました」
「そう、だったかな」
「気が付いてなかったんですか?」
不思議そうなマキの表情に面食らったのはジュードの方だ。どうやら自分でも気が付かない内に、何度もペンダントを触っていたらしい。
まいったなあ。内心そう思いながらも、鮮やかに蘇るのは青い空の下で握った手のひらの感触だった。

『泣いてなどいない』

はらはらと透明な滴を零しながら空を見上げた彼女は、今はもう、ここにはいない。
まっすぐすぎるくらいにまっすぐな使命を胸に走り抜けた背中を、ジュードに鮮烈に焼き付けて、彼女は手の届かいない世界へと行ってしまった。
だけど、信じてる。もう会えないかもしれなくとも、彼女は……ミラは、精霊界で頑張っていることを信じていられる。人間と精霊が共に生きられる世界を作ろう。ルビーの瞳をきらめかせて、トリグラフの公園で交わした二人だけの約束は、今もジュードの胸の中に宝物のように光り輝いていた。例えばそう、このガラス玉のように。
「そうかもしれない。……マキさんが言うように、これは僕にとって特別なものだから」
思い出の品だと言って笑ったミラが、新愛の証として贈ってくれたペンダント。確かにそれは、市場価値で言えばなんの価値もないものかもしれない。けれど、ジュードにとっては世界でたった一つの掛け替えのない贈りものであることは間違えようもない。
ガラス玉を手のひらで撫でて、ジュードはマキに柔らかく微笑みかけた。思わずマキが小さく息を飲んでしまうほどに、綺麗な微笑みだった。
「ジュードさん」
「何かな、マキさん」
「…………いいえ、やっぱりいいんです」
「そう?」
首を傾げたジュードに、何かを思い出したようにマキは声を上げた。
「あっ!そう言えば、研究材料で切れているものがあるんでした。ちょっと買い出しに行ってきますね」
「う、うん? 気をつけて行ってきてね」
「はい」
ぱたぱたと小柄な背中が扉の向こうに消えていくのに手を振って、何気ない仕草でペンダントに触れる。マキの指摘通り、無意識にペンダントに触れることが癖になってしまっているらしい。すっかり手馴れてしまった動きに小さく苦笑して、ジュードは手の中に光るガラス玉を見つめ直した。
青いガラス玉は、あの時と同じように光を受けてきらきらと光っている。

『これを受け取って欲しい。私の気持ちだ』

そう言って動かない足を引きずったミラは、身を乗り出してジュードの首へとペンダントをかけた。すぐ近くにまで迫った金色の髪に、ものすごくドキドキしたことを覚えている。
手を伸ばしたら抱きしめられそうなくらい近づいたミラからは、お日様みたいな優しい匂いがしていた。
掠れた声で告げた感謝の言葉に、ミラは楽しそうに微笑んでいたっけ。大切なものを誰かに贈るということ。誰かに贈られるということ。くすぐったいような気恥ずかしいような、そんなこそばゆい感情が酷く懐かしいものに思えるのが、少しだけ淋しい。
「……待っててね、ミラ」
ペンダントに語りかけるかのようにして、ジュードは静かな口調で宣言した。
「ミラがくれた時間を、僕は絶対に無駄になんてしない。源霊匣をきっと完成させてみせるから」
今も、精霊界のどこかで新しい生命の誕生を見守っているであろう彼女に届けばいいと強く想う。
……そして、いつの日か。叶うことがあるのならば、この親愛の証に見合う証を贈りたい。惜しげもなく大切なものを渡してくれた、ミラのためだけに。

     * * *

ごつごつした岩肌を握りしめてようやく最後の足場を登り切ると、そこには荒々しくも見る者を圧倒するような絶景が広がっていた。異なる霊勢がぶつかり合うことにより、鋭く切り立った岩が独特の景観を作り出す、水と岩の土地、キジル海瀑。
「……う、わ」
この場所へ来るのは二度目だというのに、初めて時以上の感動を感じるのは時の流れのせいか。滾々と湧き出る水源を辿れば、その先には断崖絶壁とまで言うと言いすぎになるかもしれないが、それなりの高さを誇る滝が広がる。水しぶきは今も高く上がっており、太陽の光を受けて七色の光彩を作り出していた。
「時間ぴったりだ」
そんな景色の中に、この場所にある光を集めたみたいな金色があった。ふんわりと髪の毛を揺らして立つ彼女は、初めて出会った頃と変わらぬ姿で僕の傍へと歩み寄った。
「ミラ」
彼女を指す名前を呼べば、ルビー色の瞳が柔らかく細められる。久方ぶりに見るミラの微笑みに胸がどきんと音を立てたのが分かった。離れている間、ずっとしこりみたいにちくちくと刺していた寂しさとはまた違う感情。この場所でこの感情を自覚してからというものの、僕はいつだってミラに振り回されっぱなしだ。
「久しいな、ジュード」
「久しぶり、ミラ」
そうしてミラはにっこりとほほ笑んで告げた。
「……あれから源霊匣はどうなった?」
あれからというのは僕のハオ賞受賞のことを言っているのだろう。ミュゼに言付けた便りは、きちんとミラに届いていたらしい。そのおかげで今日という日をセッティングすることができたと言っても過言ではないだろう。
「うん。少しずつ普及しつつあるよ。ミラも知っての通り、マナ回復の兆しが見える実例もいくつか報告されてて、エレンピオスのウプサーラ湖では水源が回復しつつあるんだって」
「……君が頑張ったおかげだな」
「違うよ。僕たちみんなで頑張ったおかげだよ」
「そうだったな」
微笑んで、ミラはみんなのその後を訊ねた。その質問の答えをあらかじめ準備はしていたので、淀むことなく答えられたとは思う。とは言っても、準備するというほど大層なものでもなく、みんなからくるメールの返事を打っていただけなんだけど。
「エルはアルヴィンの仕事も受けつつ飛び回ってるし、エリーゼはローエンの補佐役も板についてきた感じ。ガイアスのおかげでリーゼ・マクシアは安定してるし、レイアは編集長の仕事を頑張ってるよ」
「……そうか」
告げられたそれぞれの近況に、ミラが少しだけ寂しそうに微笑む。その表情の中に浮かんだ複雑な色の意味が分かってしまって、ことさらに明るい口調で僕は言葉を続けた。
「ミラは」
「なんだ、ジュード」
「ミラは相変わらず?」
「ああ。精霊の誕生を見守っているよ」
ふふふ、と小さく微笑んでミラは穏やかな表情で言う。どうして僕がこんな質問をしたのか、まるで見透かしたように。……ほら、こういうところは昔と変わっていない。なんだかそれにほっとしてしまって、ミラを見上げれば柔らかい光がそこにあった。
……今更なことかもしれないけれど、どうやら僕は緊張しているらしい。昔と変わらないものを見つけてようやく肩の力が抜けた自分に思わず苦笑してしまう。
「どうした?」
それも仕方がないかな、とも思う。ポケットの中にそっと忍ばせた小箱の感触を確かめて、首を傾げるミラを見下ろした。
「ねえ、ミラ覚えてる?」
ミラの疑問には答えずに、わざとはぐらかすかのように言葉を続けた。
「セルシウスとここに来た日の事」
「……ああ。もちろん、覚えているよ」
不思議がるルドガーに秘密だと答えたあの日の出来事は、まだこの胸の中に宝物みたいに煌めいている。懐かしくも、パレンジのような甘酸っぱさを覚えたあの日の出来事を、ミラもまた覚えていてくれるのだとしたら。胸の内にジンと熱いものがこみ上げてくることを自覚しながら、僕は両のてのひらを握りしめた。そうでもしないと、この目の前の愛しい人を抱きしめてしまいそうだ。
「じゃあ、あの日に言ったことも?」
「……ああ」
ほんのりと頬を淡い色に染めて、ミラがはにかむ。花が綻んでゆくように少しずつ、女性らしい仕草を見せるようになったミラを見ていることが、今の僕の密かな楽しみだと告げたなら、ミラはどんな顔をするんだろうか。ちょっぴりいじわるなことを思いつつも、それよりも先に伝えたい言葉がある。続く言葉に少しだけ照れくささを覚えながらも、僕は名前を呼んだ。
「ミラ」
どきんどきんと心臓が音を立てている。多分、ハオ賞を受賞した時よりもずっと僕は緊張しているのだろう。
「精霊と人間が一緒に生きていけたら……そう思って、ここまで頑張ってきた」
僕の瞳を見つめるルビーの瞳の深さに吸い込まれてしまいそうだ。意志の光を宿したまっすぐな視線。そんなミラの姿に憧れて、追いかけたのが一番の始まりだったっけ。
「もちろん、まだまだこれからのこともいっぱいあるよ。源霊匣だって改良の余地があるし、環境問題に対する人の意識を変えていかなくちゃならない部分も多い。一つずつ、しっかり手を付けていきたいと思うんだ」
何度も繰り返し練習してきた言葉。
「それで……その、人と精霊が一緒に生きていける世界を、えっと、その……」
ミラにちゃんと伝えようって、あれほどシュミレーションしてきたっていうのに、肝心なところで尻すぼみになってしまう。そんな僕を、ミラは呆れたりなんてしなかった。
「ジュード」
「……え?」
ふんわりと微笑んだミラが、僕の上着を引っ張った。そのままざぶん、と音を立てて透明な水面の中に二人揃って転がり落ちてしまう。咄嗟にミラが岩肌にぶつからないように抱き寄せられたのが不幸中の幸いか。それでも二人揃って全身びしょ濡れになってしまった。
「み、ミラ……?」
「あの時と一緒だな」
「え?」
くすりといたずらっぽい光を宿したミラが、懐かしむように微笑んだ。
「私の答えはあの時と一緒だ」
そうしてそっと僕の唇に人差し指を当てたミラは、顔を寄せて秘密の約束事を告げるかのようにして言葉を続けた。
「私と君とで、人と精霊が共に在れる世界を作っていこう」
水滴はまるで光の粒子みたいだった。太陽の光を受けて、ミラの金色がきらきらと輝いている。思わず見惚れてしまいそうなほど綺麗な笑顔に言葉を無くしてしまってから…………肝心な言葉をミラに言わせてしまったことに気が付く。
「ずるいよ、ミラ」
「む? なんだ?」
「…………僕が言いたかったのに」
「なんだ、そんなことか」
恨みがましい僕の視線をそっちのけでミラはコロコロと鈴を転がしたように笑う。
「私と君の願うことが同じなのは今さらだろう?」
「そう、だね」
 ……本当に。一体どこでこんな殺し文句を身につけてきたのだろうと思う。きっと僕はこの先何年かかってもミラには敵わないんだろうなあ。
「恰好がつかないから、せめてこれだけは続けさせて」
笑うミラの細い手のひらを握りしめて、胸の前にかざした。ほっそりとした白い指は、僕の指とは一回り以上大きさが違う。その小ささにミラが女の人なんだってことを改めて突き付けられたような気がして、思わず喉がこくりと音を立てた。
「……二人で作って行こう」
ポケットの中から小箱を取り出して、封を開けた。唾を飲み込んだはずなのに、喉の奥は奇妙なほどにカラカラだ。それでも、掠れる声でなんとか絞り出して告げる。
「健やかなるときも、病めるときも」
 現れたシンプルな指輪の片方を手に取って、ミラの指先を持ち上げた。
「喜びのときも、悲しみのときも、富めるときも、貧しいときも」
揺れる瞳に微笑んで、確かめる。こくりと小さくミラが頷いたのを見て、その左手の薬指に指輪を通した。
「これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、その命ある限り……真心を尽くすことを誓います」
残るもう片方の指輪を手に取ろうとすれば、ミラの指先が優しく妨害した。そのまま指輪を手に取ったミラが、僕の指先にそっとそれをはめ込んでいく。
「……君の気持ち、確かに受け取ったよ」
そうして瞼を閉じたミラは、宝物を抱きしめるかのようにして胸の前で指輪の通った指先を握りしめた。
「ありがとう」
「どういたしまして」
揺れるルビーの瞳が、こんなにも愛おしい。この世界を守るマクスウェルとしてじゃない。たった一人の、僕だけの大切な女の人として、ミラの事を大切にしたい。例え、遠く離れていたとしても、心は傍にあることを伝えたかった。
「私からも誓おう」
そうしてミラは、どこか泣き出してしまいそうな瞳で、それでも真っ直ぐに……僕が一番初めに憧れたあの眼差しで告げた。
「私の心は君の傍に」

首の下にぶら下がったガラス玉は、今日も太陽の光を受けてきらきらと輝いている。
安っぽいとか、質素だとか。そんな簡単な言葉で終わらせることが出来ないくらい、このペンダントは僕の宝物になった。それは、思い出のある大切なものを惜しげもなく贈ってくれたミラに対する、僕なりの信頼の証だった。
ミラが僕のためにくれたおくりもの。
いつかその気持ちに見合う何かを贈りたいと、願いを込めた、十年越しのおくりもの。
大切そうに指先を抱きしめたミラを抱きしめて、僕はこの小さな幸せを噛みしめて空を見上げた。





13.04.09執筆