2015.04.14 執筆

おでむかえ

「……アルヴィン、ちょっと」
 引きつる口元でなんとか呼んだ名前は、非難の色を帯びていた。すでに三十路を突入した彼は、腹が立つほど満面の営業スマイルでウインクを決めている。……はめられた。そう気が付いた時には事態はすでに手遅れだった。
「きゃ~! 本当にマティス博士!」
 がたん、と椅子を引く音と同時に黄色い声が上がる。反射的にそちらの方角へと振り向けば、両手を胸に組んだ女性が目を輝かせてこちらに視線を送っていた。
「いやー、こんな綺麗な女性の頼みとありゃね~。連れてきましたよっ、噂のイケメン源霊匣研究学者、ジュード・マティス先生っ!」
 へらへらと笑う髭面が腹ただしい。こちらは源霊匣の流通に一枚噛んで貰える人材の紹介をしてもらうという話だったのに、飲み屋の一室のこの状況は、どこからどう見ても合コンだ。
「覚えといてよね」
 相手の女性に勘付かれない程度に落とした声音に、この一連の首謀者はおお怖いと大げさに胸をすくめた。そしてその垂れ目を油断なく光らせて、隙なく言葉を続ける。
「まあそう言いなさんなって。そこにいる女史は、うちの取引先でね。絶対悪い話じゃないはずだから、ここはまあ、俺に免じて付き合ってくれよ」
 彼がそこまで言うのであれば悪い話ではないのだろう。あながち誘い文句がウソだったわけでもなさそうだ。だからといってこういう形で呼びつけられるだなんて思ってもみなかったけれど。というか知っていたら、多分断っていた。アルヴィンのことだから、それも見越してのことなのだろう。
「それにご褒美もちゃーんと用意してるし」
「は? アルヴィン何言って……」
「ジュード先生は今年で二十歳でしたよね? 最初の一杯は何にします? あっ、サラダ取り分けますね!」
 ……どうやらこの状況で、今更帰るわけにはいかないようだ。それに、形となった源霊匣を一般の人に流通させる手段がまだ十分ではないということも、現状、間違っていない。この会合をどうまとめるかで今後の一手が増えるのであれば、数時間くらいのお付き合いなど安いもののはずだ。
「ちゃんとご挨拶もせず、すみません。ご存知のようですが、僕はジュード・マティス。いつもはヘリオボーグで源霊匣の研究をしています。今日はお手柔らかに」

     * * *

 お酒は、それほど強い方じゃないことは分かっていた。分かってはいたので、それとなく水やお茶で誤魔化した筈なのに、体がふわふわしているのは、自分の限界値をまだ正確に判断しきれていない証拠なのだろう。
 成果を掴んで、気が緩んでしまったというのもあるかもしれない。相手がアルヴィンの商売相手ということもあって抜け目なかったというのもある。ともかく、今の自分は多分酔っ払いで、どうにかこうにか自宅に引き上げてきたということが分かっていれば十分だ。幸い、明日は休暇を取っているから、ベッドに潜り込んでしまえばどうにでもなる。
「あれ?」
 鍵を回したドアノブがガチャリと音を立てる。間違えて鍵をかけてしまったのだろうか? いつもよりも鈍くなった頭で考えて、もう一度鍵穴を回す。今度こそ回したドアノブの向こう側には、いつもの殺風景な自分の部屋が広がっているはずだった。
「ジュード!」
 そこには、金色の長い髪を一本にまとめて結い上げ、青いエプロンを付けた『彼女』が、満面の笑顔で仁王立ちしていた。
「…………え?」
 頭の処理能力が、目の前の映像を理解するのに時間を必要とした。えっと? なんで精霊界にいるはずのミラが? 僕の家に? エプロン付けて立って、いる……の?
「これがかの噂の旦那の帰りを待つ新妻というやつなのだな! ずいぶんと待たされたぞ、ジュード」
 玄関で棒立ちとなっている僕を前に、ミラは数節前に会った時と変わらない様子で、ふんふんと嬉しそうに頷いている。
「む、酒の匂いがするな。さては呑んできたのだな? 呑んだ帰りには手土産と頭にネクタイというのが相場だと聞いたが……君は手ぶらなのだな」
 僕の両手が空いていることに、彼女はどうやら不満足のようだ。いやいや、そういうことじゃなくって。
 もしかして僕自分で思った以上に酔っ払っているのかもしれない。ていうか多分そうだ。じゃなきゃ、こんな風に都合よく、自分の家でミラが出迎えてくれるはずがない。
「っと、そうではなかったな。すまない、私としたことが大切な一言を言い忘れていた」
 憂いを帯びた表情のミラも可愛いなあ。自分の想像の世界の出来事だと思ってしまえば、心のタガは簡単に緩んだ。だって、暫く会ってないし。思わず零れた本音は、酒のせいだということにしてしまう。
「食事にする? お風呂にする? それとも、私か……?」
 わあ、すごい。脳内の出来事なのに、ここまで自分に都合のいい展開くるの、ちょっとひく。分かってる。うん、そんなことは分かってるよ。
「どうした、ジュード。なぜ君は頭を抱えて玄関先で座り込む」
「あ、うん、ごめん……ちょっと幸せすぎて。少しだけ噛み締めさせて……」
「不思議なことを言うな。ともかく、君はどうしたいのだ」
 ぐい、とミラの顔が近づいてくる。ふんわりといい匂いが鼻腔をくすぐって、なんとも言えない気持ちになった。僕の部屋にはない匂い。なんだかそれが、胸に突く。
「さあ、選べ」
 ここに、都合のいい選択肢が三つ用意されています。
 一、食事をする。
 二、風呂に入る。
 三、ミラを選ぶ。
 さあ、どうする。
「えっと……もし、ミラを選んだら、どうなるか聞いてもいい?」
「私か!」
「あ、ちょっと聞いてるだけなのに!」
 なぜだか嬉しそうにミラは胸を張る。丁度良かった。食事は焦がしてしまった。風呂はぬるくなってしまった。私なら逃し時期はない。
「え? ミラ、本当にご飯やお風呂準備してくれたの?」
「何を不思議なことを言っている。さきほどからそう言っているではないか」
 背中を押されながら歩く、この胸を満たすものに誰か言葉を付けて欲しい。細やかな作業に関しては決して器用とは呼べないミラが、例え夢の中だけだとしても、自分のためにあれこれ用意してくれたのだ。そう考えると、胸の中がふわふわと心地よく浮き上がるような気がした。
(本当は全部って言いたいんだけど)
 多分、きっとそれは贅沢な夢なのだろう。この夢が醒めてしまう前に、僕が一番大事にしたいと思うのは、変わらないから。
 僕の背中を押すミラが連れてきた場所は寝室だった。その選択をしたのだから、期待してしまうといえば期待してしまう胸の高鳴りを知ってか知らずか、ミラは躊躇なく足を踏み入れる。
 半ば本に埋もれるようにして確保されている就寝スペースは、整頓されているとは程遠い。こんなことなら整理の一つくらいしておけばよかった。夢の中だとは言え、そう思ってしまうのは仕方ないだろう。僅かばかりの就寝スペースの前まで僕を引っ張ると、ミラは唐突に、ベッドの掛け布団を捲り始めた。
「さあ入れ」
 ポンポポンとリズムよく叩かれるベッドの音に呆気にとられているあいだに、ミラは僕をベッドの中まで押し込んだ。このあたりの強引さは相変わらずというかなんというか。そうこうしている内に、ちゃっかりエプロンを外したミラが僕の隣に潜り込んできた。
 シングルのベッドに男女二人で並んで寝るには少し手狭だ。けれど、その密着した空間の中で、ミラがふふふと笑う気配を感じた。
「……ミラ?」
「これなら私を感じられて、君も疲れを取ることができるだろう?」
 どうやら、ミラとしてはこのまま僕に眠って欲しいらしい。……僕としては、これってすごいお預け状態ではあるのだけど。
 温かな人肌と、横になった安堵感から、意識がとろりと融解していくことを自覚する。もしかすると、自分でも思った以上に疲れていたのかもしれない。ここのところ研究続きでろくに休めていなかったし、その仕上げに今日の飲み会だ。ミラに触れたいと思う気持ちに反して、体はとろとろと眠りの中に沈みこもうとしていた。
「……ミラ」
「なんだ?」
「手を、握ってほしいな」
「ああ」
 手のひらを、細い指がきゅっと握りしめてくれた。その手を離さないように、固く握り返す。ここにいて欲しいと口にすることは叶わない。……だけど。
「ミラを感じられるね」
「ああ、私も君を感じられる」
 微笑んだミラの優しい口調と、温もりに意識が次第に遠のいていくことを感じる。例えこれがひと時の夢であったとしても、それは確かに安らいだ時間だった。

   * * *

「まあ、そんな都合のいいことあるわけないよね」
 あの時の自分は酔っ払っていたし、人寂しい気持ちになっていたことも分かる。だけど自分を納得させるように呟いた言葉に、自分で傷ついていては世話がない。
 目が覚めた時、空っぽの隣の空間を見つけて思わず肩を落としてしまったのも、正直なところ落胆があったのだ。もしかしたら、ミラがいるのかも。そんなことあるわけないことは自分が一番よく知っていたはずなのに。
 ベッドを抜け出して、衣装箪笥から換えの服を取り出した。昨晩そのまま眠ってしまったから、服はすっかり皺だらけだ。ご飯食べて、朝風呂に入って、それから。
「おや、ジュード。もう起きたのか」
 扉を開けると、リビング兼ダイニングの狭い部屋の中で、焦げた卵焼きらしきものを机の上に並べているミラと視線があった。
「……え」
「風呂も沸かしておいたぞ。結局、君は昨日入らなかったからな」
「いや、え……ちょ、なんで……?」
「なんでも何も、君のことだろう。身だしなみを整えることは礼儀だとエリーゼも言っていた」
「いや、そういうことじゃなくて、なんでミラがここに……?」
「おかしなことを言う。昨日一緒に眠ったではないか」
「それは、そうだけど」
「君ともあろうものが、酒で記憶を飛ばしてしまったのか? 私は昨日のこと、嬉しかったのだが」
 そう言って、ぽっと頬を淡く染めるミラの仕草に見当がつかなくて、僕は今度こそ慌てた。
「え!? ぼ、僕なんか変なことしたの!?」
「……覚えてないのなら、秘密だ」
 つんと澄ました仕草でそっぽを向いたミラは、今度こそ昨日用意してあったらしい焦げた食事を、朝食にするために手を動かし始めた。
「君は風呂に行ってくるといい」
 そう言って、くすりと笑う。
「そう困った顔をするな。用があって私は暫く人間界に来ることになってな。そのあたりも追々話をする」
 近い場所に彼女の顔がある。微笑んだミラに、ようやく僕も肩を降ろして。
「……なんだ、そうだったんだ」
 胸にあった隙間をいともたやすく埋めてしまうミラに、力が抜けてしまう。悩みなど簡単に吹き飛ばしてしまうミラの行動力と実行力はとうに骨身に染みている。
「お風呂に行ってる間にいなくなったりなんて……ないよね」
「君はいつからそんなに心配性になったんだ?」
 呆れたように眉を寄せる彼女に、微笑んで答えてみせる。
「ミラのことなら、いつでもじゃないかな」
 それから、もう一つ。大事なことを言っていなかった。
「遅くなったけど、おかえりミラ」
「それはこっちの台詞だよ。ただいま。それから、おかえりジュード」
「……うん。ただいま、ミラ」
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