石を一枚、水面に投げた。
パシャ、パシャ、パシャ、パシャ。音を立てて、石は水面を蹴っていく。軽やかに水面を蹴った石は、5回目で沈み込んだ。残念。あんまり続かなかったね。口調と裏腹にちっとも残念そうな顔をしないで、ジュードはミラを見上げた。
「私もやってみよう」
ジュードに倣って、ミラもまた平たい石を振りかぶる。ぽちょん。勢いよく振りかぶった小石は、水面を跳ねることなく沈み込んだ。それに悔しそうな顔をして、ミラはまた小石を拾ったところではっとしたような顔をした。
「む。いかん」
「? どうしたのさ、ミラ」
「魚たちを驚かせてしまったようだ。悪いことをした」
そう言って、握りしめた小石を地面に下ろす。ミラは波打つ水面を見つめて、苦笑しながら言った。
言われてみれば、透き通った水を湛えた水面下には小さな魚たちが何匹も泳いでいる。彼らにしてみれば、空から突然石が降ってくるのだ。驚きもするだろう。
とは言っても、魚視点で物事を考えるだなんてことはなかなか思い付くものでもない。何気なく言ったミラの言葉を今さらながらに考え込みながら、ジュードはぽつりと言葉を漏らした。
「ねえ、もしも」
「む?」
「もしも、ミラが魚だったらどんなだろう?」
言いながら、変な質問だとジュードは自覚した。ミラは今、マクスウェルとして世界を見守る大精霊となっている。そんな彼女にもしも魚だったらだなんて。思わず口にした言葉を訂正しようとしたジュードの言葉は、予想に反して真剣な声音のミラの言葉によって遮られた。
「ふむ。私が魚だったらとしたらか。なかなか興味深い質問だ」
むむむ、と両腕を胸の前に組みながら、ミラはどこか楽しそうに考え込んだ。
「個人的な希望を言えば、クジラがいい。広い海の中を泳ぎまわるのだ」
「ミラ、それは哺乳類だから魚類じゃないよ」
「む? そうなのか。私には同じように見えるぞ」
「海を泳いでいる生き物でくくったら、そうなるかもしれないけど……」
苦笑したジュードを前にミラは不満そうに唇を尖らせる。
「私ばかり言っているのではつまらない。そういうジュードはどんな『魚』になってみたいのだ」
ことさらに『魚』を強調したミラに、ジュードは思わず吹き出してしまった。そこまで拘らなくても。そうして僅かな逡巡の後、小さないたずらを思い付いた子供のような表情を浮かべて、告げる。
「僕は魚より、鳥の方がいいなあ。シルフモドキとかいいかもしれない」
「ジュード、それは鳥類だ」
「うん、鳥類だね」
半眼になってこちらを見つめるミラに、思わずくすりと笑みが漏れる。どうやら彼女と同じように答えたことがお気に召さなかったらしい。
「でも、いいと思わない? あの翼で広い空を飛びまわれたら、きっと気持ちいいと思うんだ」
「ジュードは空を飛んでみたいのか?」
「飛んでみたいかそうじゃないかって聞かれたら、飛んでみたい、かな」
一年前、ジランドとの戦いの最中に敵の飛行船を奪い取って空を移動したことはある。その時も驚いたけど、例えばもし、ミュゼみたいに羽が生えていたのなら。空を飛ぶことのできない人間なら、誰もが一度は考えたことがあるかもしれない。
浪漫だよねぇ、なんて呑気なことを言っていたジュードは、次の瞬間ミラが言った言葉の意味をよく理解していなかった。
「飛べるぞ?」
「そうだね、飛びたいね」
「よし、飛ぶか」
「…………え?」
ミラの言った言葉の意味を一拍遅れで理解した頃には、ミラの細い腕ががっちりと腰回りに回されていた。それにどきりと心臓が音を立てたのも束の間、信じられないことに自分の足が地面から離れていくことに、ジュードは驚きの声を上げた。
「みっ、ミラ!?」
「今の私は精霊だからな。このくらい造作もないぞ」
そう言ってふふんと、得意げに鼻を鳴らす。自信満々なミラの表情は可愛いけれど、それよりも今はむしろ、動揺と覚えのない感覚に対する恐れの方が勝った。
足元がふわふわする。ジュードを抱えたミラはどんどん高度を上げてゆく。思わず動揺で身動ぎをすれば、ミラは困ったように眉根を寄せた。
「じっとしていてくれないか?」
ミラにとって僕は軽くはないはず……多分。だとすれば、動き回る方が危ないのは間違いないだろう。
告げた言葉と同時に大人しくなったジュードに、ミラは満足げに微笑んで抱きしめる腕の力を強くした。
「安心しろ。君を離したりなどしない」
力強く言い切るミラの姿は頼もしい。素直に頷き返せば、ミラは「いい子だ」と柔らかく微笑んだ。キリリとしたその表情も素敵だけど、何かが激しく間違っている気もする。
「ジュード、見てみろ」
思考の海に落ちかけたジュードを掬い上げるかのような声が耳元で聞こえた。ミラの柔らかい声音に導かれて顔を上げれば、眼前に広がったのは広いリーゼ・マクシアの大地だ。
「う……わぁ……!」
豊かなマナに溢れた大地を俯瞰で見下ろすことなどそうあることもではない。思わず息を飲みこんだジュードのすぐ傍で、ミラは満足そうに頷いた。
「どうだ? ジュード。鳥の気分は味わえたか?」
「……うん。なんか、すごいね」
「そうだろう」
ふふふ、とミラが嬉しそうに微笑む。
「これが君たちが暮らす世界なのだ」
眩しい太陽の光を受けて、湖はキラキラと輝いていた。そこで暮らしているのはなにも魚だけじゃない。野を跳ねる兎や子鹿は水辺に育つ草を食み、狐や狼がそれを狙う。それぞれに循環した生のサイクルと辿りながら、それでも皆、この広い大地で生きている。
「……やっぱり、人間で良かったかな」
抱きしめられる細い腕に、そっと手を添えてジュードは静かに言葉を続けた。
「だって、人間だったからミラとこうして一緒に空を飛べて、同じ時間を過ごせたんだから」
そっと見上げれば、すぐ傍には驚いたように丸められたルビーの瞳がそこにある。ジュードは微笑んで、もう一言、ちょっとだけ勇気を出すことにしてみた。
「それに、マクスウェルは人間贔屓って聞いたから」
「――――確かに人間贔屓だが」
抱きしめられる腕の力が、ほんの少しだけ強くなった。
「その中でも、君は特別だ」
もしもその両の腕が自由だったのだとしたら。きっと彼女は唇に手を当てていたのだろうなと、なんとなく、そんな気がした。





13.05.08執筆