2015.03.11 執筆

未来の話をしようよ

 空から落ちてくる雨粒が、傘の上でぱらぱらと跳ねている。いつもの街の活気も、今日はすっかり鳴りを潜めてしまったようだ。冷たくなってしまった持ち手を握り直して、傘の隙間から見上げた空は、相変わらずの鼠色だった。
 雨の日を好きか嫌いかで尋ねられると、答えることに少し悩む。蔵書の管理だとか、洗濯物が干せないだとか。そういうことでは確かに不便な天気だけれど、部屋に籠って本を読むのに、これ以上ないほどもっともな口実はなかったから。それに。
 ぱしゃん。靴が小さな水溜りを踏んで、音を立てる。雨は、世界の音を少しだけ飲み込んでくれる。うまく言葉にできないけど、例えば、そう。いつもの場所がいつもみたいに見えないというか。違う一面を教えてくれることも知っているから。
「やっぱりここにいた」
 見込んだ場所に目的の人はいた。いつもの場所のいつもの定位置。街を一望できる丘の上にある公園は、彼女――ミラのお気に入りの場所の一つだ。
「ジュード」
 振り返ったミラは、まるで僕が来ることを予見していたようだった。宝玉のような紅色の瞳を細めて、顎を上げる。
「もう、傘もささないだなんて……」
 さしていた赤い傘をミラの頭上へかざしてみるものの、気休めとしか言いようのないくらい彼女はずぶ濡れになっている。本当に、今更だ。金色の長い髪から伝う滴が、ぽたぽたと地面に吸い込まれていく。
「私は風邪をひかないから、些細なことだ。それに」
 頬に張り付く髪を指で払いながら、ミラは嬉しそうに笑う。
「雨の街をもっと感じてみたくなったのだ」
 その言葉に、僕は思わずどきりとした。
「どうかしたのか? ジュード」
「あ、いや……ちょっと、びっくりして。僕もちょうど、さっきまで似たようなことを考えていたから」
「そうだったのか」
 目を丸くして、それからミラはまた嬉しそうにはにかんだ。おそろいだな。そう、小さく零しながら。
「ミラは雨の街、どう感じたの?」
「そうだな……やはり、目を引くのは水精霊の活発さだろう。雨は彼らにとっては恵みだからな」
 人には感じ取れないほど力の小さな微精霊でも、万物を束ねる存在であるミラには感じられているらしい。あそこにも、ほら、そこにも。指さすミラの表情は、まるで子を持つ母のように優しかった。
 もちろんそれは、僕にとっても興味深い話ではある。精霊が元気でいるということは、すなわち自然の循環機能がある程度正常に働いているということだから。
「僕たちに感じ取れなくても、ちゃんと小さな精霊がいてくれてるんだね」
「ああ。雨は大地を潤す。それは作物に実りを与え、植物や人といった動物、あらゆる命を育むだろう。そして人は精霊にマナを分け、精霊は恩恵を与える。この作用が正常に働いて、初めて世界は均衡を保つことができるのだ」
 一望できる街並みに視線を向けて、それからミラはこちらを見上げた。真っ赤な傘は、鼠色の空を遮って二人だけの小さな空間になっている。
「……君には今更のことだったな」
「そんなことないよ。ミラが教えてくれるから、僕も頑張ろうって思えるんだもの」
「ふふ、ありがとう」
「どういたしまして」
 胸の内が温かいもので満たされたような気がして、思わず口元が緩んでしまう。そんな僕の小さな異変を知ってか知らずか、ミラは傘の中からぽんと一歩踏み出して、雨の中へと躍り出た。
「晴れの日もいいが、雨の日もいいものだ。いつもと少し違う街、建物の中で過ごす人々。跳ねる水精霊たち。この雨粒の一粒一粒が、私に命の息吹を教えてくれる」
 ぱしゃん、と小さな水音を立ててブーツが再び地面を叩いた。
「それに、君が迎えに来てくれるしな」
 再び傘の中に入ってきたミラが、満足そうに顔を上げて微笑む。やっぱり、ミラには何もかもが見透かされているんだろう。きっとそれは、いくつ歳を重ねても変わらない。
「――僕も」
「ん?」
「僕も、雨のこと好きになれそうだよ」
 傘が少しだけ傾く。通りを歩く、少ない人たちからの視線を隠してしまうかのように。赤色の中の二人だけの秘密の空間。掠めるように触れたその人を見下ろせば、宝玉のような瞳が、驚いたように丸く見開かれていた。
「いつもと違うことが知れたし、何より」
 呆気にとられる無防備な手のひらを、そっと手に取る。
「こうして、一緒にいることもできるしね」
 指と指を絡めるようにして繋ぎ合わせれば、薄らと頬を染めたミラが、弾かれたように顔を上げた。強い光で見上げられた瞳が、そのままぶつかるようにして迫ってきて、そして。
「やられっぱなしは性に合わないんだ」
「……僕はミラにやられっぱなしだと思うんだけど」
 唇の端を指で拭いながら、照れ隠しを込めて吐いた息に、ミラはきょとんとした表情になった。
「そうなのか?」
「そうだよ。昔も今も、僕はミラだけを見てきたんだから」
 やっぱり、ミラには叶わない。彼女の行動の一つ一つに笑えてしまうくらい振り回されて、でも、それが嫌いじゃなくて。
「帰ろう。いくら精霊が冷えないって言っても、ずっとびしょびしょのままでいるわけにはいかないでしょ?」
「そうだな、ジュード。……あ」
 驚きと共に零された言葉に、僕はミラの視線を追って振り返る。
「わあっ……!」
 視線の彼方。そこには、雲切れ目から覗く茜色の世界が広がっていた。柔らかな斜光に照らされて、トリグラフの街並みが優しく浮き彫りになっている。雲の切れ目から広がる空と街並みは、さながら絵画のような美しさがあった。
「……美しいな」
「うん。ほら、雨も上がったみたい」
 空を見上げれば、鼠色の雲はゆったりと東の方角に流れていっている。この調子だと、明日には天気になっているだろう。今日干せなかった洗濯物も、きっとよく乾く。
 握りしめたままになっていた手のひらに力を込めると、ミラもまた握り返してくれる。まるで、あの時みたいだ。二人揃って見上げる茜色の空に、なんだか胸が詰まってしまって。
「帰ろう、ミラ」
 ちゃんとお風呂に入って、体をあっためよう。そんな些細で当り前な、ありふれた日常の会話。それを伝えた僕の意図を知ってか知らずか、きゅっと指を握り直したミラが短く応える。
「ああ。……帰ろう」
 茜色に染まった街の中、僕たちはゆっくりと進んでゆく。あの日と同じように手を繋いで。
「今日の夕食は何にしようか?」
「私はミネストローネな腹になっているのだが……」
「なにそれ。ふふ、でもミラがそうなら、ミネストローネにしよっか」
「うむ! 手伝えるところは私も手伝うからな!」
 ゆっくり、ゆっくりと。
「あ」
 左手で空を指さしたミラが思わず、といった様子で呟いた。
「虹だ」
 ――雨は、好きでも嫌いでもなかった。……でも。我ながら現金なことを思いながら、指差すその手の薬指の光に、僕は目を細めて微笑んだ。
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