2014.09.05 執筆

賢老人の死

 初めて出会った時、君はまだ少年だった。
 その日のことは、昨日の出来事のように鮮明に思い出すことができる。発光樹が灯す明かりで、幻想的に浮かび上がる夜域の街。淡く輝く水面に、おっかなびっくり足を乗せて進んだ君の瞳は、興味と畏れで揺れていた。
 人間で言うところの第二次成長期の真っ只中。少年と青年の間で揺れ動く君はまだ幼さを残していて、その甘さを残した声で呼ばれるのは、心地が良かった。
 ああ。人の世の移ろいは、かくも早いものなのか。
 暫く見ぬ間に、君はすっかり変わってしまった。甘さを残した声は、しっとりとした落ち着きを持った響きへと変わり、見上げられていた琥珀色は、いつしか高い位置にある。首筋に浮かび上がるのは、男性であることを象徴するかのような喉仏。肩幅も以前に比べるとしっかりとしていて、もはや見違えることもなく、彼は青年の域に達していた。その過程を見る間もなく、知ることもなく。
 再び逢いまみえた君は、私の知る君の面影を残した表情で寂しげに微笑みながら、唇を開いた。

「ローエンが、死んだよ」

「……そうか」
 気の効いた言葉一つ言えず。ただ、ぽつりと零した言葉は、思いの他乾いていたのが自分でも驚きだった。
「うん」
 そんな私の動揺を、君は恐らく見抜いていたのだろう。特に何を言うわけでもなく、ただ、静かに時が過ぎるのを待ってくれた。やがて君の言葉が腹の底へと届き、体内に染み込んでいった頃に、ようやく私は問うことが出来た。
「最期は」
「……まるで、眠っているみたいだった」
 とても穏やかな表情だったよ。静かに微笑んだ君は言う。
「そうか」
 その旅立ちが、健やかなものであったことに安堵をして、私は小さく息を吐く。ようやく少し、事態を認識できたであろう私の心情を察してか、君はゆっくりと息を吐くように告げた。
「それから、一つ、預かり物。ミラがこっちに来たら渡して欲しいって、手紙を預かっているんだ」
 ローエンから。
 最後の最後まで律儀な彼らしい心遣い。それがなんだか懐かしくて、胸の内に言いようのない想いが込み上げてくる。それを、一つたりとも逃したりなんてしたくなくて、ぐうっと強く唇を噛み締めた。
 ああ。人の世の移ろいは、かくも早いものなのか。

   * * *

『暦の上では風霊終節ですが、まだまだ肌寒い日が続いています。ジジイには寒さが堪えますよ。早く水場が恋しいものです』

 その手紙は、彼らしい季節を感じさせる文句から始まっていた。
真っ白な封筒に、真っ白な便箋。一見簡素であるように見えながら、よく見ると花をモチーフにした紋様が薄ら浮かび上がっている。質のいい紙と相まって、品の良さを感じさせるセンスは相変わらずのようだった。なんだか懐かしい匂いがしたような気がして、胸がきり、と小さく音を立てる。
 齢六十を過ぎてから、その人生を全力で駆け抜けた男の手紙は、ごくごくありきたりな文句から始まった。

『さて、ミラさんがこの手紙を読んでいるということは、既に私はこの世を去ったということでしょう。ジュードさんに手紙を渡したのは、恐らく、あなたと会うことチャンスが最もあるのが彼だと考えたからです。ミラさんがこれを読むのは、私がいなくなってからすぐのことかもしれないし、もしかすると十年、二十年先のことになるかもしれません。それでも、私はあなたに貰ったものを少しでも返したい。そんな気持ちで、筆を取りました』

 聞けば、ローエンはあの旅で関わった全ての人間に手紙を残していたのだという。全く、彼らしい。律儀で、丁寧で、去り際でさえも美しい。顔に皺を刻んで朗らかに笑うローエンの姿が、ゆっくりと浮かんでは消えていく。その体は、すでに灰になり天へと登ろうとも、彼の記憶は確かに息づいている。

『ミラさん、あなたにはどれほど感謝しても感謝しきれません。覚えているでしょうか? ミラさんとジュードさんそれに、アルヴィンさんとエリーゼさん。あなたたちが、カラハ・シャールに立ち寄られた時のことを。あの頃の私は、クレイン様とドロッセルお嬢様にお仕えしている単なる執事でしかありませんでした』

 ああ、覚えているよ、ローエン。囚われた四大を救うため、イル・ファンへ向かう最中の出来事だった。瀟洒なカップを買い求めようとしたドロッセルに、それはイフリートの焼いたものではないと言ったことが切っ掛けだったな。

『ナハティガルと袂を分けた私には、もはや居るべき場所などありはしませんでした。そんな中、旦那様が与えてくださった執事長という居場所。私は、ここで静かに余生を終えるものだと、あの時は信じて疑いもしませんでした。ミラさん達が、訪れるその日までは。
 旦那様が亡くなり、国を頼む、と言われた時、私は悩んだのです。ナハティガルとの対話を諦め、既に負け犬となった私に、今更何が出来るのだろうと。そんな私の前に現れたミラさんは、まるで太陽のようでした。
 常人であれば挫けてしまうような大怪我を負いながらも、あなたは使命を前に、決して諦めるということをしませんでしたね。その、潔い立ち姿は、ジジイにはそれはそれは眩しく映ったものです。そして私は、再び指揮棒を振るう決意をしました。
 あなたの姿を追いかけて、ジュードさんもまた、大きく成長をしました。若者が奮い立とうとしているその時に、大人が萎みこむ訳にはいきません。気がつけば、私もまたお二人に感化されて、走り始めていました。エリーゼさん、アルヴィンさん、レイアさんと同じように。
 私はガイアスさんと共に、再び国政に携わることとなりました。今にして思えば、私はとても恵まれていたのでしょう。六十を過ぎたジジイにもなって、国を背負うなどという大役を任せて頂けたのですから』

 一つ、また一つと文字を追うごとに、彼の穏やかな微笑みが蘇ってくる。まだまだ現役ですよ。そう言って、しゃんと背筋を伸ばして歩く老人の姿を慕い、付いていった人々は決して少なくはなかっただろう。
 確かに時には厳しい決断を迫られることはあっただろう。しかし、人生の酸いも甘いも噛み締めてきた彼だからこそ、下された結論は決していい加減なものではなかったことだけは断言できるはずだ。少なくとも、ミラの知るローエンとはそう言う男だった。
 そうしてローエン・J・イルベルトは、ミラが精霊界へ消えてから十年と数年の間、政の最前線を駆け抜け続けたという。

『体調には気を付けてはいたつもりでしたが、私も年は誤魔化せません。かかりつけの医師に、霊野力(ゲート)硬化の末期症状であることを告げられた時、不思議と気持ちは穏やかでした。いつか、こんな日がくることを予感していたからかもしれません。
 私はガイアスさんに全てを打ち明けました。その頃にはリーゼ・マクシアも随分状態が安定しており、通常国会も滞りなく進行していましたから。
 ミラさんはまだご存知ないかもしれませんがリーゼ・マクシアは王政国家から、民主主義国家へと緩やかに推移しました。国王一人が政を決めるのではなく、国民が選定した議員と呼ばれる複数人の人間が、国を動かすのです。既に私の手から離れたところでも政は十分機能できる仕組みが整っていました。ですから私は、ドロッセルお嬢様のところで、最期のひと時を過ごす時間を頂いたのです』

 さあ、と一陣の風が通り抜けて目の前の君の髪を揺らした。
「着いたよ、ミラ」
 静かに微笑んだ君は、言う。眼前には立派な白い十字架が並んでいた。刈り取った草の匂いがする。きっと誰かが、ここの手入れを欠かさずしているのだろう。美しく整備された空間のその一角、クレイン・K・シャールの墓のすぐ傍に、果たしてその十字架は立っていた。

『ローエン・J・イルベルト。偉大なる、リーゼ・マクシアの宰相。ここに眠る』

 すでにその場所には、パステルカラーのカーネーションが彩られていた。ここを訪れている誰かの供え物なのだろう。私に花を飾る『美的せんす』というものは些か欠けてはいるとは思うのだが、なんとかカーネーションの傍に、道中求めた百合の花を添えてみた。風に揺れる白と赤のコントラストが、青空の下で映えて見える。
「ローエン、ミラが来たよ」
 私よりも一回りも大きい手のひらを、そっと墓石に添えて君はやさしく言う。その響きに釣られる様にして、私も彼を呼んだ。
「久しいな。来るのが随分と遅くなってしまったことを詫びよう」
 謙虚で控えめな彼のことだ。そう言えば、「いえいえ、いつでもいらしてくださって構わないのですよ」そう返す様が目に浮かぶ。そう、簡単に想像が出来る程度には彼とは濃密な旅を共にした自覚はあった。
「あなたの成した世界を見届けた。ありがとう、ローエン」
 資源の枯渇した巨大な近代国家と秘匿とされた潤沢な資源を持つ発展途上国。十年と少し前、断界殻が取り払われた時のエレンピオスとリーゼ・マクシアの関係はまさに、その通りだった。あのまま指を咥えて見ていたのであれば、リーゼ・マクシアはエレンピオスという大国の中に飲み込まれてしまっていたということは十分に考えられる。
 その激動の最中、リーゼ・マクシアという国家を存続させながら、圧倒的な国力差を持つエレンピオスと駆け引きを行うことがどれほど大変なことであったのか。
 少なくともミラが精霊界にいる間、大量のマナが失われるということは一度としてなかった。それはすなわち、二国間の間で巨大なマナの消費……つまるところ、戦争が起きなかったということを指す。何より今ここに、ミラが再び具現することを叶えたこの世界。潤沢なマナに満ち充ちた世界は、今日もまた美しく、これこそが、ローエン・J・イルベルトという男が成し遂げた偉業なのだ。
 だから、墓前を前にしてミラが感謝の言葉を述べたのは、至って当然の流れだった。
「丁度、一年前の出来事なんだ」
 白い十字架を前に、君は懐かしそうに目を細めて言った。
「ドロッセルとエリーゼが、昔の仲間でパーティしようって言い出したんだ。それぞれ皆スケジュール合わせて、シャール家でね、集まって」
 色んな料理を並べてね、立食式のパーティだったんだ。アルヴィンが面白がってパレンジワインなんて持ってくるから、レイアはすっかり出来上がっちゃって。エリーゼとドロッセルが強かったのは意外だったなぁ。ああ、でも社交界に出てるんだったら、お酒は強い方がいいんだろうね。エルはジュースだったかなあ。ガイアスまで来ててね、もう、最後はめちゃくちゃ。いつもみたいに馬鹿騒ぎして、ローエンも笑ってて、それで。
 琥珀色の瞳が、在りし日の情景を思い浮かべて微かに滲む。もう、それ以上の言葉は聞かなくとも、分かった。
「笑っていたのだな」
「……うん。すごく、すごく楽しかった」
 ローエンが逝ったのは、そのパーティの僅か三日後のことだったよ。寂しそうにそう締めくくった君は、ゆっくりと十字架を撫でた。

『冒頭で水場が恋しいと書きましたが、おそらく私は水場を迎えることなく、あちら側へ向かうことになるでしょう。
 ミラさんやミュゼさんとお会いできなかったことだけは心残りでしたが、私は迷いなく新しい旅路に向かうことができます。ジュードさん、レイアさん、エリーゼさん、アルヴィンさん、ガイアスさん、エルさん、ドロッセルお嬢様。私が出会ったたくさんの人達。彼らの歩む未来は明るい。もはやジジイがその先を立たなくとも、彼らは彼らの道を歩き始めました。その姿を見守ることができただけでも、私が駆け抜けた意味は十分にありました。今まで、本当に、ありがとうございました』

「なあ、ジュード」
 澄み切った空は青く、切るように飛ぶシルフモドキは白い。箱の中の楽園は開かれた。広がったこの世界の行く末を、案じた時は確かに在った。
「なあに、ミラ」
 静かに振り返った、君に告げる。
「この世界は、美しいな」
 その言葉の意味を、きっと君なら分かってくれるだろう。
「―――― そうだね」
 微笑んだジュードの白衣が、ふんわりと風にはためていた。

『締め括りの前に、ミラさん。ジジイの最後のお願いだと思って聞き届けてくれないでしょうか』

 ローエンからの手紙は、最後にそう記されていた。

   * * *

「あ~あ、テスト期間なんてホント嫌になっちゃう」
「もうすぐ夏休みだから、少しの辛抱でしょ。頑張りなよ」
 抜ける風も生ぬるく、じっとりとした熱気の中に、気だるそうな女子学生の声が響く。それを嗜めるような口調で応えたのは、同い年ぐらいだろうか。まだ幼さを残した男子学生の声だ。舗装された道をたらたらと汗を流しながら、二人はゆっくりと坂道を登ってゆく。

 あれから、数十節の時が流れた。季節が巡れば、人も変わり、国もまた変わりゆく。流転を繰り返しながら、歩き続ける人間たちを、私は今日も変わらずに見守っている。

 涼しげな顔でその街並みを歩いていたミラは、ふと、懐かしい単語を耳にしたような気がして振り返った。

「わたし、歴史苦手なんだよね。えっと、確か次の範囲は、リーゼ・マクシア史、トラメス歴2261~2320年だったっけ?」
「そう。ガイアス王の誕生から、サマンガン崩れ、風霊盛節(オラージュ)の奇跡、アルカンドの戦いに、ナハティガル王の暗殺。ファイザバード沼野の戦いに、断界殻の消失、新国家の誕生、源霊匣の誕生にリーゼ・マクシア新国会の成立までだよ」
「うわ~ん、この辺り詰まりすぎだよ~! やめて~!」
 女子学生の悲鳴のような声が響き渡る。確かにこうして並べられると、小難しい単語にも聞こえるだろう。しかし、その激動の最中、話中の登場人物でもあったミラにとってはどれもこれもが懐かしい単語であることには違いない。
「はい、問題。ラ・シュガルの元軍師であり、リーゼ・マクシア統一後、ガイアス王の右腕として宰相を努めた人物は誰でしょう?」
 ここ、テスト範囲に出るって先生も言ってたよ。にこりと微笑む黒髪の男子学生は、茶髪の女学生に向かって少しだけ意地悪く笑う。なんだかその姿は、酷く懐かしい光景のように思えて、ミラは思わず唇を開いた。
「ローエン・J・イルベルト!」
「え、ええ!? な、何!?」
「どこから声が!」
 驚いたような二人を尻目に、ミラは素知らぬ顔で通り過ぎる。思わぬ悪戯が成功したようで、なんだかそれが、少しだけ面白かった。
「結局、どうだったの?」
「……当たって、るけど」
 この世界は、変わらず美しい。マナが満ち充ちた世界で、ミラはうんと思い切り伸びをする。彼の最期の願い事は。

『どうか、この世界を見ていてください』

 ああ、見守っているよ。だから、いつの日か再び出会えるその日のことを、私は楽しみに待っている。
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