2013.12.18 執筆

香る、君の

ジュードの白衣からいい匂いがする。
そう言っていたのは誰だったか。ふと、そんなことを思い出したのは、椅子の上に無造作にかけられた白衣が目に留まったからだ。
「ふむ」
持ち主は生憎そこのベッドで夢の中だ。正確に告げるとすれば、珍しく寝坊をしたジュードを起こすという大役を背負ってミラは今、ここにいる。昨晩遅くまで研究をしていたジュードをゆっくりと寝かせてやりたいのは山々なのだが、時計の針はてっぺんを向こうとしているところだ。いい加減起きなければ体のリズムを崩してしまうだろう。
……とは言うものの。
瞼を閉じるとまだ少しだけ幼さを残した表情が、安らかな寝息を立てている。そんなジュードの無防備な姿を見るのは随分久しぶりな気がして、起こさなねばならないと意気込んでいたはずの気持ちがすっかりと萎えてしまった。これではいけないと思っていたところに、視界に飛び込んできたのがこの白衣だ。
「……本当にいい匂いがするのだろうか」
そう言えば、改めて嗅いで確かめてみたことはなかったな。
かけられた白衣を手にとって鼻へと寄せてみる。……いい匂い、というより、寧ろこれは。
「ジュードのにおいがする」
嗅ぎ慣れた匂いだ。不思議とそばにいるとほっとする、でも、不意にどきどきさせる、そんな匂い。ジュードの白衣から香るその匂いに、思わずミラは相好を崩した。彼の匂いはこんなにも自分の心を穏やかにさせてくれる。
持ち上げた白衣は、ジュードの体より一回りほど大きな作りになっている。確かに腕周りだとかは少しだぼついているはいるものの、彼はまだ成長期だ。そういったものを見越して身につけているのだろう。……と、本人の希望的な将来を勝手に推測して、ミラはこくりと頷いた。
「うむ」
なので、その白衣に腕を通したのはミラとしても本当になんとなくだったとしか言い切れない。部屋に入っていたらたまたまそこにあって。その大きさに気がついて、ちょっと着てみたくなった。本当に、ただ、それだけのこと。
「やはり私にも大きいな」
ジュードの体でも大きいのだ。彼よりも華奢なミラの体には余る大きさであることは疑いようもない。それでも、その白衣からは奇妙な居心地の良さを感じる。……あと、矛盾しているようだが、おかしなことに多少の居心地の悪さも。
「……そうか、これは」
彼の匂いに包まれているということがどういうことなのか。それを今更ながらに理解して、ミラは戸惑ったように眉根を寄せた。
咄嗟にベッドに眠るジュードへと視線を投げかけてみたものの、彼は相変わらず夢の中にいるらしい。ミラの困惑など知らないかのようにすやすやと幸せそうに微睡んでいる。それにほっとしたような、少し物足りないような。そんな風に一つだけため息を零して、ミラは袖を通した白衣を胸の前へと抱き寄せて、肺いっぱいにその匂いを吸い込んだ。
「君に抱きしめられているようで、どきどきするな」
その言葉を告げるべき相手は昼下がりの微睡みの中だ。届くはずのない言葉をそっと小さく零すと、ミラは白衣を脱ぎとって、元あった位置に丁寧にかけ直した。
「…………」
今は、なんだかジュードを無理に起こす気分にはなれそうにない。
「また、後で起こしに来るよ」
思わず熱を帯びる頬に手のひらを当てて、小さく告げる。急ぎ足で扉へと向かおうとしたそんなミラの指先に、絡められた一つの熱源があった。
「…………起きていたのか」
ぴたりと動きを止めて、ゆっくりと振り返る。そうすれば、てっきり夢の中だとばかり思っていた琥珀色の瞳がそこにあった。
「いつからだ?」
その頬は、多分、ミラと同じ色に染まっていたのだろう。
「……多分、最初から」
「そうか」
ぽつりと落ちた言葉は、今度こそ香る彼の匂いの中に包まれて消えた。
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