2013.06.13 執筆

今は、まだ、少しだけ

「帰ったわよ」
ただいま、と言うのは妙にしっくりこなくて、結局告げた言葉は曖昧な表現になった。
見慣れこそはしたが、相変わらずエレンピオスは居心地が悪い。それは、あれほど目の敵にしていた黒匣が繁栄しきっている世界だからなのだろう。連絡を取るにも、料理を作るにも、掃除をするにも、洗濯をするにも。この世界で生活しようと思ったら全てにおいて黒匣が必要だ。精霊を殺しながら、黒匣は人々の生活を潤している。それがやっぱり癪にさわって、『ただいま』というのは憚られた。
開いた扉の先―――――ルドガーの部屋の中はすっかり静まり返っていた。出かける前は、あれほどお腹が空いたと騒ぎ立てていたというのに。首を傾げながらも、ミラは一刻ほど前の出来事を思い出していた。
そもそものきっかけは、エルがお腹が空いたと言い出したことにあった。それじゃあ何かあるもので作るか、と言ったのはルドガー。ところがエルは、今日はミラのおやつが食べたいと言い出したのだ。
唐突に指名を受けたミラは、なぜ自分が呼ばれたのか最初理解することが出来なかった。エレンピオスに渡ってからというもの、料理と言えばほぼルドガーの仕事と言っても差支えがなかったからだ。
実際、彼の料理は内心舌を巻くほどの腕前だった。自身の腕前をそれなりに自負していたミラにとって男性であるルドガーの手料理は、積み上げてきたプライドが崩壊するほどの衝撃だったのは言うまでもない。
とてつもない敗北感の後で湧きあがったのは、いつかこの味を超えてやるという強い野心だった。彼の料理を味わうその都度、調味料の配合や隠し味の食材当て、加熱時間の調査を怠る日は一日たりともなかった。実際、かなり情報収集は行えたはずだ。
けれども、エレンピオスの調理場に立つことはなんとなく気が引けてできなかった。黒匣に満ち溢れた社会で、当たり前のように料理を振る舞う自分を想像することが難しかったともいう。
……ところが、そうは言ってられなくなってしまった。ルドガーにべったりなエルが、今日この良き日にルドガーじゃなくてミラの手料理を食べたいと言ってくれたのだ。ミラのおやつを食べたいと言ったのだ。これはミラにとってとてつもなく重要で意味のあることだった。
ここで引いたら女が廃る、っていうかあのルドガーの悔しそうな顔! とびっきり美味しいおやつを出してあげて、どうしたらこの味が出せるのか散々悩ませてあげる絶好のチャンスなのよ!
飛び出すように買い出しへ出かけて帰ってきたはいいものの、静まり返った部屋の様子にミラが首を傾げたのは当然と言えば当然の出来事だった。
「エル? ルドガー?」
重い買い物袋を玄関に置いてリビングへと足を運んでみれば、見慣れた姿が二人分。目を凝らさなくても分かる。すうすうと寝息を立てているエルに膝枕をしながら、ルドガーもまた瞼を閉じてぐっすり寝込んでいるようだった。
「せっかく人がおやつを作ってあげようとしてるのに」
すっかり寝入ってしまっている二人の姿に、肩透かしを食らったような気がしてミラは小さく息を吐いた。とは言っても、これはこれでいいかもしれない。目が覚めたらおやつが出来上がってる。そんなシチュエーションも悪くはないだろう。
「ふふ、見てなさいよ」
夢の世界へと旅立っている二人にそっと微笑みかけてミラは言う。
揃いも揃って似たような寝顔だ。締まりなくふにゃふにゃとしていて、思わずミラの肩の力を抜いてしまうような、そんな寝顔。
「とびっきりすごいヤツ、作ってあげるんだから」
悪戯心で、ちょんとルドガーの面白い眉をつつく。そうすると、何にも知らないルドガーはうーんと小さく唸って、やっぱり締まりのない顔でむにゃむにゃと寝言を言った。
「ルルー……遊ぶなよー……」



ふと、鼻孔にいい匂いが漂ってきてルドガーは目を覚ました。
この匂いは……ホットケーキ?
顔を上げると、キッチンからは見慣れた金色の髪が揺れている。ブルーのエプロンを腰のあたりでリボン結びにしたミラが、フライパンを片手に料理をしているようだ。
(そういえば……おやつ作るから買い出しに行くって言ってたっけ)
ミラの帰りを待ちわびていたエルは、ルルと遊び始めて……そうだ。結局眠ってしまったんだっけ。視線を下ろしてみれば、膝の上には小さな頭が乗っかっている。すうすうと安らかな寝息を立てているエルは、ミラの帰りをまだ知らないのだろう。それからこの、美味しそうな匂いにも。
「~~♪~」
ミラの方はすっかり上機嫌で、フライパンに乗せられた生地をひっくり返していた。
綺麗なきつね色に焼きあがった生地が宙を舞う手つきはなかなか様になっている。楽しそうに料理へと向かう後ろ姿は、ルドガーの胸の内を暖かくさせた。
誰かに食べてもらうことを想像しながら作る料理の楽しさは、ルドガーもまた覚えのあるものだ。
テーブルの上にはきちんと並べられたフォークとナイフ。それからもうじき出来上がるであろうホットケーキを乗せるためのお皿が三つ。ご丁寧にメープルシロップまで用意されている気合の入り具合だ。
鼻歌交じりにキッチンを動き回るミラの足取りは軽い。エレンピオスに来てからというものの、時折見せる憂いを帯びた横顔よりも、ずっと生き生きとして見えた。そう、まるで初めてエルにスープを振舞ったあの時のような。
普段はルドガーが身につけているエプロンを付けてフライパンを持つミラの明るい表情に、ルドガーも釣られるようにして笑みを零した。
膝の上には小さな寝息。視線の先には、エプロン姿の彼女。
……たまには、こういうのもいいかもしれないな。
今は、まだ、少しだけ。この穏やかな時間に包まれていたくて、ルドガーは瞼を閉じたまま、ホットケーキが焼きあがるまでの時間を噛み締めることにした。
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