「ジュード、ここにいたのか」
真っ白な白衣が風に揺れていた。
ヘリオボーグ研究所・総合開発棟14F屋上。研究所中で一番空に近い場所で、ジュードはぼんやりと空を見上げていた。
「……ミラ」
あの分史世界から帰ってきてからというもの、ジュードはどこか上の空だ。……無理もない。世界よりも、私たち個人を取った別世界の私たち。ありえたかもしれない選択肢。それをまざまざと突きつけられて、思うところがあるのだろう。
「あの分史世界のことを考えていたのだろう」
「……うん」
素直にジュードは頷いた。フェンスにもたれ掛かっているジュードの隣へと歩み寄る。
……そう言えば、ジュードは少し背が高くなったのだろうか?前よりも少しだけ高い位置にある顔に気がつきながら、ミラは言葉を続けた。
「時歪の因子<タイムファクター>はきみだったのだな」
「どうしてそうなったのか、ずっと考えていたんだ」
「あの世界のジュードはレイアもアルヴィンも失っていたと聞いたよ」
「……ううん。多分、それだけが原因じゃない。推測だけど……あの世界の僕は、ジルニトラ号に乗る前にちゃんとミラに自分の想いを伝えられていたんじゃないかなって思うんだ」
「…………」
ミラもまた、ジュードと同じように空を見上げる。――――もしも、ジルニトラ号に乗る前にジュードと想いを交わしあっていたのならば。愛するものを失った分史ジュードの痛みはどれほどのものだったのだろう。そして、度重なる裏切りの果てに絶望し、時歪の因子<タイムファクター>となってしまったのであれば。
「未来は選択の中から作られてゆく」
抜けるような青空がどこまでも広がっている。それを眩しそうに見上げながら、ミラは言葉を続けた。
「この世界がこの世界で在れる選択を行ったのはきみ自身だ。そして私自身の選択もまた、そうなのだろう」
胸に手を当てて、ミラはそっと瞼を閉じる。
「――――この生き方に誇りをもつよ、私は」
『泣かないで、ミラ』
そっと絡められた指先の温もりを、忘れてなどいない。あの時と同じような空の青さに、ミラは切なげに表情を彩る。
ふと、白衣から伸びる腕が目に入った。ミラのそれよりも一回りも大きな手のひらに、触れてみたい。そんな欲求に駆られた自分に気がつく。
分史世界のジュードは、ミラの手を取って嬉しそうに笑っていた。……今ならその理由が分かる気がする。
「なあ、ジュード」
「……ミラ?」
「手のひらを……握ってもいいか?」
えっ、と瞬間、驚いたように琥珀色の瞳が丸められる。けれどすぐに照れたように微笑んで、待ち望んだ手のひらが差し出された。
「……ありがとう」
大きな手のひらにそっと指先を絡める。まるで始めからここにあることが当然であったかのようにしっくりと馴染む感触に、ミラは思わずふわりと微笑んだ。
……気がついた時には、琥珀色の瞳がすぐ傍にあった。
「ジュード?」
「……ミラ」
真っ白な白衣からは、優しい香りがする。手のひらだけでなく全身で包まれたジュードの体温に、ミラの心音もまたトクトクと早鐘を打った。
「ミラさんも、分史世界の僕たちも、僕たちとは違う」
考え方も、その生き方も。……そう、ジュードは口にする。
「だからこそ、そこに『いた』ことを忘れちゃいけないと思うんだ。あの世界の僕らは彼らなりの一番があって、それを想って生きていた」
この腕の中にある温もりを離したくない。たったそれだけの、ささやかな願い。確かに道は踏み外してしまっていたのかもしれない。それでも、一番最初にあったはずの想いはただただシンプルなものだったはずなのだ。
「……そうだな」
ジュードの腕の中の心地よさに、ミラはうっとりと瞼を閉じた。胸の鼓動は相変わらずだけれども、それはジュードだっておあいこだ。重なり合う心音にそっと耳を寄せる。
――――あの、最後の戦いの最中。ルドガーが光の槍を携えた時、分史ミラは何も言わずに駆け出した。一番大切にしたいと願ったものを守るために、自分の感じるがままに身を投げ出した。マクスウェルとしてではない。ただ一人の『ミラ』として、愛するものに全てを捧げたのだ。
それを少しだけ、羨ましいと思う。全てを捧げてジュードと共に在れるのであれば。そう願う気持ちが全くないとは言い切れない。だけど、私は……私たちは、それでも違う選択をしたのだ。そして、そのことを互いに誇りに思っている。
「……なあ、きみは幸せか?」
「ミラ……?」
それでも、尋ねずにはいられなかった。見下ろした琥珀色の瞳を覗き込めば、少しだけ考え込むような素振りを見せる。
太陽の光を受けて煌く琥珀色に吸い込まれそうだ。澄んだ瞳に映り込む自分の姿に気がついて、私はこんな穏やかな表情ができたのか、とミラは初めて気が付いた。
「ミラがいる。レイアがいる。アルヴィンもいる。エリーゼもローエンも、ガイアスもミュゼも。ルドガーやエルだって。僕のそばには大切な人達がたくさんいる。僕自身が頑張れる環境だってある。……普段あまりにも当たり前のように傍にあるから、それが幸せなんだって気がつかないのかもしれないね」
失ってから初めてそれが大切だったのだと人は気が付くという。当たり前のように傍にある当たり前のことこそが幸せなのだと口にしたジュードを、ミラはじっと耳を傾けて聞いていた。
「だから、この幸せを僕自身の手で守っていきたい」
そう在る努力をしなくちゃならない。生真面目なジュードらしい回答にミラは思わず笑みを零した。
「ミラ?」
「……ふふ、きみらしいと思って」
繋いだ手のひらはそのままに、もう片方の手のひらをジュードの背中に回した。
ジュードの背中はこんなにも広いものだっただろうか?逞しさを感じる背中に、胸の内に広がる愛おしさを精一杯込めて力を込めた。
「私も、幸せで在れるよう努力しよう」
ジュードの言葉に続くように、ミラがルビーの瞳を瞬かせて微笑む。
コツン、と額と額がぶつかり合った。至近距離にある互いの瞳に吸い込まれてしまいそうだ。
「ミラ……」
「……ジュード」
青い青い空の下で交わした、幸せになるための小さな努力。
『……ああ』
ふと、あの時最期に告げた彼女の言葉が頭の中を掠めたような気がした。















きみへの福音がきこえる