「……ミ…ラ……。どう……して…?」
ふわり、と金色の髪が雨に濡れたジュードの頬を撫でた。こんな天気の中だというのに、ミラの髪からはおひさまみたいな香りがする。
それに泣き出しそうになりながら、潰れた肺が悲鳴を上げるのを無視して、ジュードは言葉を紡いだ。
「………ジュー…ド…。やっ…と……会え…た……」
ヒューヒューと常にはない呼吸音がする。息苦しさどころではなく、胸からは激痛が走っているのだろう。それでもミラは、震える手のひらを持ち上げてジュードの頬に手を添えた。
「き…みを……想って、旅を……して…いた…よ………」
「…ごめん…ね……。ミラを……守り……た…かった…。…なのに……っ」
「……いい…ん…だ……」
ふわりと視線を和らげて、ミラがジュードの紅い瞳を覗き込んだ。かすむ視界の中で、正しくジュードの姿を捉えられたのかは定かではない。それでもミラは、すぐ傍にある体温を求めて手を伸ばした。
「もう一度………きみ、に……あえた……」
額と額がかすかな音を立てて触れ合う。至近距離に迫った互いの瞳を見つめて、ミラは小さく笑った。
「きみ…の……紅い……その瞳も、綺麗…だよ……」
その微笑みに、ジュードの瞳から一粒の雫が溢れ出し、頬を静かに伝い落ちた。ミラの告げた言葉はジュードにとってどんな意味を持っていたのかは、この場にいる誰にも分からない。その言葉を受け取ったジュードでしか、真にその意味を理解することはできないだろう。
「ジュード……。最期…に……『キス』を……して、欲しい……」
はっと、何かに気がついたようにジュードは瞳を瞬かせてミラを見た。
「『口付け』……じゃ…な…いんだ……ね…」
『口付け』ではなく『キス』だと言ったミラに、滲む視界でジュードは告げる。
「………大好き…だよ……ミラ……」
ほんの少しだけ背伸びをして、詰められた距離。触れ合った唇は一瞬だった。けれど、お互いに世界で一番幸せ者なのだといわんばかりの表情で微笑み合う。
「……ああ」
ことり、とジュードの肩にミラの頭が落ちる。そうして、最期に彼女はそう告げた。
「…………きみへの……福音がきこえる」



――――チクタク、チクタク、チクタク。
歯車が音を立てる。物言わなくなった二つの亡骸を前に、表情をなくしたルドガーが槍を引き抜いた。その先端にあるのは、黒く染まったこの世界の時歪の因子<タイムファクター>だ。
長い道のりを経て、ようやく時歪の因子<タイムファクター>までたどり着いたというのにこの虚しさは一体何だというのだろう。
「……すまなかった、ルドガー」
嫌な役をさせてしまった。カツカツとヒールの音を立てて歩み寄ったのは、見慣れた青と白の装束の出で立ちのミラだ。
「ミラ!」
「ああ、ジュード」
一年間という時間に比べれば遥かに短い離別だった。それでも待ち望んだ彼女の無事な姿に、ジュードは安堵のため息を吐いた。
「ローエンやエリーゼも来ていたのだな」
岩肌に倒れ込んだ仲間たちの姿を見つめて、ミラは噛み締めるように言葉を続けた。
「ルドガー」
声をかけられたルドガーが頷く。
共に旅した仲間をこのまま捨て置くのか。ここにいる仲間たちは、そんな言葉をルドガーには掛けない。代わりに贈る言葉は、みんなで背負うという優しさに満ちたものだった。
それでも。
それでも――――世界を壊すことは、こんなに苦しいものなのかと苦悩する。
「……頼む」
「この世界を……!」
「あああああああああああああっっっ!!!!」
パキン、と時歪の因子<タイムファクター>が壊れる音がした。
ぐにゃりと世界が歪む奇妙な感覚。そうして気がついた時には、ルドガーたちは元いた自分たちの世界へ……正史世界へと帰還していた。



『……そうでしたか』
GHSの向こう側から聞こえる声は、いつもの硬い調子のままだった。それでもどこか落胆しているように聞こえるのは、きっと気のせいではないだろう。
「ごめんな。多分、その先輩は……」
『いいえ、構いません。……もしかするとそうかもしれないと思っていたのも事実ですから』
「ヴェル……」
『探してくださって、ありがとうございました』
失礼します、といういつもの挨拶でGHSの着信は途切れた。液晶の画面に写りこんだ名前をぼんやりと見つめて、ルドガーは肩を落とす。
元々ルドガーがあの分史世界へ侵入することになったのも、人探しをするためだ。分史世界を破壊した今、例の先輩が帰ってきていないとなると……恐らく、あの世界でいなくなってしまったのだろう。その事実がまた、ルドガーの心に暗い影を落とす。
「ルドガー……」
「ん。どうした、エル?」
「眉間にシワ。そんなんじゃ、あ〜っという間にオジサンになっちゃうよ」
「おいおい。兄さんだけじゃなくて、俺までオジサン扱いか?」
「そうは言ってないでしょー」
ぷう、と湿布を貼った頬を膨らませてエルが抗議の声を上げる。恐らく……というか、ほぼ間違えなくルドガーを気遣って声をかけてくれたのだろう。幼いエルに無用な気遣いをさせてしまったことに苦笑をして、ルドガーはエルの帽子越しに頭を撫でた。
「子供扱い禁止ー!」
「俺が撫でたくなったから撫でたの」
「じゃあエルもルドガーの頭、撫でたい!」
「……俺の?」
「そう」
そう言って、ダメ?とエルがルドガーを見上げる。
エルの心情はよく分からなかったものの、そのくらいなら……とルドガーがエルの前にしゃがみこむ。しゃがみこんだルドガーの頭に、そっと小さな手のひらが差し出された。
「よしよし」
「……エルも子供扱い禁止な」
思わずむくれて反撃の声を上げる。そんなルドガーの抗議を無視して、エルはふわふわしている銀色の髪をゆっくりと撫でた。
「頑張ったね、ルドガー」
いっぱい痛かったよね。ごめんね。エルを守ってくれたんだよね。ありがとう。大好き。
たくさんの想いを込めて、ルドガーの頭を撫でる。小さな手のひらから降ってきた優しさに、ルドガーはターコイズブルーの瞳を瞬かせてエルを見上げた。
「なあ、エル」
「なあに?ルドガー」
「……ぎゅっとしてもいいか?」
いいよ、とエルが言い終わるや否や、ルドガーの腕が体に回された。洗いたての洗濯物みたいな匂いがする。ぎゅっと抱きしめられる腕は、こんな時でもエルが痛くないように力加減をされていた。
「……もっとぎゅっとしてもいいよ」
エルは頑丈だもん。そう言いながら、エルもまたぎゅっと力を込める。そうすると、少しだけルドガーの腕の力が強くなった。……もっと強くてもヘーキなのに。
「二人は幸せだったんだよ」
ぽつり、と零すようにエルは言った。
全部の世界が絵本みたいなハッピーエンドで終わればいいのに。だけど、現実はそんなに簡単じゃないことを、エルはルドガーと旅して学んでいった。
分史世界だから壊しても仕方ない。苦しんでるルドガーを前に、いつしかそう言うことはできなくなった。だからせめて、お互いを強く抱きしめ合って事切れた二人のことを、幸せだったのだと言い聞かせる。
アイボーを気遣うエルなりの優しさに、ルドガーもまた泣き出しそうな表情で微笑んだ。
「……そうだったらいいなぁ」
「そうだよ、ゼッタイ」
「そうかな?」
「だって、チューしてたもん」
思いもかけないエルの返答に、ルドガーがぱちぱちと瞬きをした。キスをしたら幸せだなんて、どうしてエルはそんな結論に至ったのだろう?
思わず首を傾げたルドガーに、エルはえっへんと胸を張って返事を返した。
「だって、パパにおはようのチューすると、パパは嬉しそうにしてくれるよ」
「……それは」
「チューって、大好きな人にしてあげるもののことでしょ?」
だから……と、エルはにっこりと言葉を続ける。
「二人は幸せだったんだよ」
アイボーの笑顔は最強だ。破顔したエルを前にして肩の力が抜けてしまったルドガーに、ちょいちょいと手招きされる。もう一度エルの傍に体を寄せれば、頬に柔らかい感触が降ってきた。
「きょっ、今日だけのトクベツなんだからねっ!」
頬を赤く染めながら、エルが声を荒げる。
そんな可愛らしいアイボーの姿に、ルドガーは締りのない笑顔で返事を返した。
「もうやってくれないのか?」
「トクベツだって言ったでしょー!?」



To be continued…





13.03.16執筆