「雨が降ってきた」
重く垂れこめた空からは、ぱらぱらと水の雫が落ちてくる。ニ・アケリア霊山の天候は、あの時と同じように崩れ始めていた。……かつてジュードたちが、本物のマクスウェルを求めて霊山を登った時と同じように。
「こんな天気なのに、ジュードはいるのかな」
ぽつりと不安そうにレイアが呟く。山頂はもうまもなくだ。
「……いるよ。僕のことだから分かる」
鋭い岩肌に雨が滑るのを見つめて、ジュードは言った。もしもあの時、ハ・ミルの村でレイアを殺されていたら、僕だってこうなっていたのかもしれない。分史世界はそんな『もしも』を突きつける。複雑な思いを抱きながら、ジュードは山頂への最後の曲がり角を抜けた。長いいたちごっこも、ここが終着地点だ。
――――はたして、そこには黒髪の少年が立っていた。
雨に打たれることも気にかけず、静けさの中にある山の中でぼんやりと佇んでいる。
「何をしてるのかな……?」
「しっ、静かに。何か言ってる」
分史世界のジュードはまだこちらの様子には気がついていないようだ。そろりと近づけば、雨音にかき消されていた小さな呟きを捉えることができた。
「ミラ……ミラ……」
頬に張り付いた髪を払うこともなく、まるでうわ言のようにジュードは呟いていた。
「もう消えたりしないって言ってたのに……どうして消えちゃったの……?ミラ……」
「………!」
やっぱりこの世界の僕は、ミラのことを……。嫌な予感がまさに的中していたことに息を飲んで、ジュードは次の行動を思案した。まずは、この世界のジュードが本当に時歪の因子<タイムファクター>化しているかどうか確かめなければならない。
「私たちが交渉へ行きましょう」
一歩前に踏み出したのはローエンだった。その言葉に頷いて横に立つのはエリーゼだ。
「元々私たちはジュードさんを説得するために探していたのです。ここは私たちに任せて下さい」
「確かに、死んでるはずの俺らやジュードが出てくるよりは、ローエンに任せた方が自然だな」
「……気をつけて、ローエン」
「分かってます。いきましょう、エリーゼさん」
ローエンとエリーゼが分史世界のジュードに近づいてゆく。雨音でかき消されていた靴音も聞き取れるほどの距離になった頃、ついにローエンはジュードへ声をかけた。
「ジュードさん」
「…………ローエン」
振り返ったジュードの顔に息を呑む。
その顔は、もはやかつての面影をどこにも残してはいなかった。真っ黒に染まった肌に、瞳だけが爛々と紅く光っている。
「ねぇ、ローエン。ローエンは物知りだよね?」
いつもみたいにジュードが笑う。こんなことになってしまったというのに笑っている。その異常さにぞっとしたものを感じながらも、年長者としての意地で、私で答えられることなら、とローエンは言葉を続けた。
「ミラは?」
「……え?」
「ミラはどこにいるの?」
ジュードは笑っている。ローエンが知るはずもないことなどジュードだって分かっているはずだろうに……いや、違う。このジュードは……。
「ミラはここにいるって言ってたのに、いないんだ。ねえ、じゃあ、ローエンとエリーゼが連れて行ってしまったの?」
「ジュード……」
怯えたようにエリーゼが両手を胸の前で握り締めた。そんなエリーゼの様子さえ気にかけず、ジュードは紅い瞳を二人に向ける。
「ミラは?」
「……ミラさんはいません」
「そんなの嘘だよ」
「ジュード!どうしちゃったのー!」
ティポが悲鳴のような声を上げる。それすら無視して、ジュードは笑った。
「やっぱり二人が隠したんだ」
次に浮かんだ表情は、憤怒だ。瞬間的につり上がった眉からは今まで誰も見たこともないようなジュードの表情が作り出されていた。
「……っ…!」
反射的に駆け出したのは誰だったか。
ローエンとエリーゼを前に、岩肌に身を潜めていたジュード、ルドガー、アルヴィン、レイアが飛び出してくる。
「目を覚ましてよ、ジュード!」
「……レイア?それにアルヴィンに………僕?」
驚いたような分史ジュードの表情は一瞬だった。次の瞬間には、やはりその顔に狂気を宿して言い放つ。
「幻術……?やっぱり二人は僕を止めようとしてるんじゃなくて、殺そうとしてるんだね」
「違います!……ジュードっ!」
「ミラは僕が守るんだ。だから、こんな幻術なんかには……!」
カチャリ、とガンレットを構える音がした。分史ジュードが戦いの構えを取る。
「……やっぱり、戦うしか……!」
泣き出しそうな表情で、それでもレイアは棍を握りしめた。それに続くようにアルヴィンが銃口をジュードへと向ける。
「どうすればいいって聞いた俺に、誰も教えてくれないって言ったのはジュードだったろ。……今、思い出させてやるよ」
「僕たちは……っ」
ジュードもまた、分史ジュードと同じように構えを取る。同じ師範の下で同じような鍛錬を積んできたのだから、呼吸も間合いも、その動きさえもまるごと同じだ。だからこそ、油断できない。
「負けるわけにはいかないんだっ!」
その声が、開戦の合図となった。
「「剛招来!」」
ぐっと腹に気を流し込む。闘気を溜め込むことによって、初弾の威力を上げる武術のタイミングさえも二人のジュードは同じだった。
強く、地面を蹴る。ジュードは分史ジュードを。分史ジュードは―――――…
「……え」
向かってきたジュードを無視して、分史ジュードが真っ先に狙いを定めたのはエリーゼだった。戦いの陣形が整い切る前に、凶悪な拳がエリーゼを襲う。
「きゃあ!?」
小さな体が跳ねる。幾多もの戦いをくぐり抜けてきたジュードの重い一撃が、無防備なエリーゼの体に直撃した。
ぽとり、と宙を浮いていたティポが落ちる。鋭い岩肌を転がっていったエリーゼの体はぴくりとも動かなかった。
「エリーゼっ!?」
駆け寄ったレイアを、続けざまに分史ジュードが狙う。流石にその攻撃をは察知できたレイアが、バックステップを取って分史ジュードから距離を取った。
だけど、あれじゃあエリーゼを回復できない……!
「真っ先に強力な回復術を持つエリーゼを狙うってことは、だ」
倒れ込んだエリーゼの前に、ゆらりとジュードが構えを取る。
「マジで俺たちを殺る気だぜ、あいつ……!」
「6対1のそっちに言われたくないよ」
こんな場面でさえも、ニコリと微笑んでジュードは言う。その異常さはもう嫌というほど味わった。
「それでも、私たちはジュードさん……あなたを止めなければなりません」
「ミラが……ミラが本当に願っていたことに、どうしてきみは……っ!」
だん、と力強く踏み込んだ分史ジュードが拳を振り上げる。
「きみのこと……嫌いだな」
分史ジュードが次に狙いを定めたのはジュードだった。避けられた拳に怯まず、そのまま足払いをかける。その動きを察知したジュードが集中回避を行い、背後へと回り込む。分史ジュードもまた、避けられたことを察知して水平方向へステップを踏んだ。交互に体制が入れ替わる目まぐるしい応酬がジュードたちを中心に繰り広げられる。
「ミラは僕のだっ!!」
まるで信じられているみたいな。ミラのことを世界で一番分かっているみたいな。そんな澄ました表情が気に入らなくて、分史ジュードは声を荒げる。
「!?」
叫んだ分史ジュードの言葉に、ジュードが一瞬だけ気を取られた。
その隙を分史ジュードが見逃さないわけがない。
「臥狼咆虎!」
ジュードの上体が宙を浮く。まずい、と思った瞬間にはすでに手遅れだった。浮き上がった体に、分史ジュードのかかと落としが決まる。鈍い痛みが胴に伝わった直後に襲ったのが、落下からの衝撃だ。分史ジュードが地面へ叩きつけた拳から広がる衝撃波がジュードを襲う。
「ジュード!?」
……この連携は。見知った技の危険さをよく知るレイアが悲鳴を上げた。
「殺劇!」
吹き飛ばされたジュードの背後に回り込んだ分史ジュードが、その背中を蹴り飛ばす。その無防備な懐に潜り込んで繰り出されたのは、高速の連撃だ。
「はっ!てやっ!はーーーーっ!」
だん、だん、と重い拳がジュードに打ち込まれる。
「舞荒拳!!」
掛け声とともに、闘気を漲らせた最後の一撃が決まる。大きく吹き飛ばされたジュードは岩肌にぶつかり、そのまま泥の中に崩れ落ちていった。
「……ぐっ…」
「回復はさせないよっ!」
駆け寄ろうとしたレイアの前に、ジュードが回り込む。分史ジュードは対複数の戦術をわきまえていた。咄嗟にジュードに駆け寄ろうとしたレイアに、その拳を振り上げる。
「どうして……」
棍で弾いたレイアが泣き出しそうな瞳でジュードを見た。
「どうしてこんな悲しいこと……!」
「レイアみたいなことを言うな、この幻術!」
「幻術じゃないよ!わたしはわたしだよっ!バカバカ、ジュードのバカ!」
「うるさいうるさいうるさいっ!!消えろ!!」
棍で打つ、避ける。拳を振り上げる。弾く。まるでいつもの手合わせをしているかのようだ。ただいつもと違うのは、この戦いは互の命を賭けているということか。
「レイアさん!」
ローエンの言葉にレイアが頷いてステップを踏んだ。
「乾坤を貫け、水霊の弾丸!」
引いたレイアの姿を確認して、ローエンが精霊術を完成させた。瞬間、湧き上がったのは水流だ。
「ディフュージョナルドライヴ!」
地面に発生させた渦から発射される水の弾丸が分史ジュードの体を打つ。怯んだその体に向かったのはアルヴィンとルドガーだ。
「タイドバレット!」
「タイドバレット!」
「「オールザウェイ!!」」
打ち込んだ水飛沫が凍結する。氷の柱にジュードが閉じ込められたことを確認して、二人は互いの武器を持ち直した。
――――背後からの一撃。
アルヴィンの体が地面へと落ちてゆく。思わぬ反撃に目を剥いたルドガーが視線を向けると、そこには真紅の輝きがある。
「……アクアマント」
恐らく分史ジュードはローエンとの戦いを予見していたのだろう。抜かりのない術対策に今更後悔しても遅い。水属性の連撃を放ったのも痛恨のミスだ。
「まずいですね……」
すでに三人倒されて、戦えるのはルドガー、レイア、ローエンの三人のみ。強力な前衛陣と回復術を持つエリーゼの離脱は戦力半減どころの話ではない。
「それでもやらなくっちゃ……!!」
「レイア、前に出過ぎだっ!」
ルドガーの警告にレイアがえ、と声を上げた。……気が付いた時にはもう遅い。棍をかいくぐったジュードの紅い瞳が至近距離で映り込む。
「……っ…!?!??」
「レイアの偽物め、消えろ……ッ!!」
鋭い一撃がレイアの腹部にめり込んだ。小柄なレイアはあっけなく吹き飛ばされ、ゴロゴロとジュードの隣に倒れ込んだ。
「レイアっ!!」
「……これで、あと二人」
冷やかに微笑んだ真紅の瞳が向けられる。その冷酷さを孕んだ狂気のまなざしに、ルドガーとローエンはゴクリと喉を鳴らした。
あれはジュードであってジュードでない。そう、認識を改めなければならない。
「やれるか?」
「……やるしかないでしょう」
ルドガーとローエンが頷き合う。
出会ったのはイル・ファンだというのに、不思議とこの青年は昔から知っていたような……そんな気さえする。多分、それこそがこの青年の不思議な魅力なのだろう。
絶望的な戦いの最中でさえも奇妙な頼もしさを覚える背中に、ローエンは深く頷いて応えた。
「行きますよ、ルドガーさん!」
「うおおおおおおおおおおおおおおっ!!」



To be continued…





13.03.15執筆