ミラ様がお亡くなりになってしまった。
マクスウェル様としてご立派な最期を遂げたそうだ。その話を聞いた時、俺は頭を強く殴られたような気がした。
なぜだ!?なぜ、ミラ様が犠牲にならなければならなかったのだ!?
偽物はミラ様を見殺しにしたのか!?俺が……俺さえいれば、ミラ様が犠牲になるなんて真似を許したりはしなかったのに……っ!!
ミラ様、なぜ俺をお傍に置いてくださらなかったのですか。巫子である俺は特別なんです。きっとミラ様をお救いすることが出来たはずです。なのに、なぜ……俺じゃなくて、あんな偽物を……ジュードなんかをお傍に置いたのですか……!
答えを返してくださるミラ様は、もうどこにもいない。
お召しになるものを献上した時、動きやすそうだなと微笑んでくださったあの顔も。毎日社を掃き清めた俺にねぎらいの言葉をかけてくださった声も。皆に親しまれたあのお姿も。……もう、二度と目にすることは叶わない。
全部、ジュードのせいだ。
ジュードがミラ様を守らなかったから。ジュードばかりがミラ様に贔屓にされたから。だから俺はガイアスに付いて行って……卑劣な敵の罠にはまり、捕らわれてしまった。あの時俺が自由だったら、なんとかなったはずなのだ。ジュードが俺の居場所を奪ったから、あんな冷たい牢屋の中に閉じ込められて――――挙句の果てに、二・アケリアを襲った精霊の襲来にも間に合わなかったのだ。
こうなったのは全部、全部ジュードのせいだ。……だから、俺のせいなんかじゃない。
今は亡きミラを祀った社を前に、イバルはそっと瞼を持ち上げた。一人分の足音が聞こえる。
静かなこの土地で日々鍛錬に励んだイバルにとって、人間の足音を聞き分けることは造作もないことだった。そして、その足音の持ち主を連想することさえも。
「今更ここへ何の用だ、ジュード」
「…………」
鋭い眼差しを送ったイバルの眼光を、黒髪の少年はぼんやりとした眼差しで見つめていた。
……なんだ、この腑抜けっぷりは。これがあのジュードか?
いつも澄ました優等生面をするジュードのことが気に入らなかったイバルにとって、目の前の憔悴しきった横顔は完全に予想の範疇外だった。毒気を抜かれてジュードを見れば、定まらない焦点の瞳が紅く染まっていることに気がつく。
そう言えば、ジュードの瞳はあんな色をしていたのだろうか……?
その疑問を口にするよりも早く、目の前のジュードの方がぽつりと言葉を落とした。
「………言ってたのに」
「ん?何か言ったか?」
「もう消えたりしないって……言ってたのに……!!」
瞬間、ジュードの瞳の色が紅く濁った気がした。それに気がつくとほぼ同時くらいに、ジュードの肌の色が黒く染まる。
―――――黒い肌に、赤い瞳。
何だ、これは。何が一体どうなっている?
困惑するイバルの前に、ガンレットで武装された腕が振り上げられた。一気に詰められた間合いに不意を突かれながらも、イバルは持ち前の反射神経で剣を振るう。
キィン、と甲高い音を立てて凶悪な初撃を防ぎきった。ステップを踏んで距離を取る。ジュードの間合いとイバルのそれは少し違う。敵の懐に入り込んで攻撃するのがジュードの戦闘スタイルならば、イバルは剣を使った手数の多さが持ち味だ。ジュードのペースに飲み込まれて、前のような無様な姿を晒すような真似だけは絶対にしたくない。
そう、俺はずっと待っていたのだ。
「決着をつけてやるぞ、ジュード!」
こいつが化物だろうがなんだろうがどうだっていい。俺はジュードに勝てればそれでいいのだ!
待ち望んだ決着の時に、イバルは剣を構えてジュードと対峙した。



イル・ファンからイラート海停へ。イラート間道を抜けて、ハ・ミルを通過し、ガリー間道、キジル海瀑を横切り、ニ・アケリアへ。あとはニ・アケリア参道を抜ければ、霊山は目と鼻の先だ。山を登る手前に祀られたミラの社の長い階段を上りきったレイアは、見慣れた銀髪を見つけて首を傾げた。
「あれって……イバル?」
「そう言えば、霊山を登る前にイバルと戦ったね」
「おたくら色んなところでやり合ってたんだな……」
「……で、何でイバルは倒れてるんだ?」
ルドガーが指差したイバルは、地面に倒れこんだままぴくりとも動かない。ぱたぱたと軽い足音を立てたエルがイバルの顔を覗き込んだ。
「うわっ」
ぎょっとしたように半歩引いたエルの動作に慌てたのはローエンの方だ。
この世界のジュードは、正常な思考回路を持ち合わせていない。すでに彼がここを通過したとなれば――――もしや、イバルは。
最悪の想像に焦るローエンを他所に、エルは自分の服のポケットをまさぐった。どうやら目的のものが見つかったらしい。はい、と差し出したのは猫の刺繍の入った可愛らしいハンカチだった。
「なんだ……小娘……」
地面にうつぶせになったままのイバルが、顔だけをエルに向ける。どうやら生きていたらしいと安堵の息を漏らしかけたローエンは、またも驚く羽目になった。イバルの顔は涙と鼻水でぐちゃぐちゃだったからだ。
「ちょっとイバル、どうしたの?」
あのプライドの高いイバルが、こんな顔で地面に倒れているだなんてただごとではない。今更ながらにその事実に驚きの声を上げたレイアが、イバルの傍にしゃがみ込む。その後ろにジュードが続いた。
ジュードの姿を視界に収めたイバルは、瞬間、憎き仇を見るような眼差しで眉を吊り上げる。
「なんだ、戻ってきたのか?あのような卑怯な戦いで、俺は負けを認めたわけじゃないぞ!」
「……えっと」
恐らくジュードのことを分史世界のジュードと勘違いしているのだろう。無理のないこととはいえ、久方ぶりにむき出しにされた敵意をジュードは困惑したように受け止めるばかりだった。
「俺はミラ様を守る使命を持った巫子!俺は特別だ!特別なんだ!」
「……それは間違ってるよ、イバル」
小さく頭を振ってジュードは告げる。一年前に彼に告げた時とはまた違う気持ちを抱きながら。
「なに!」
「使命を持っているから特別なわけじゃない。自分の意志で決断して、行動をするから特別になれるんだ」
「貴様などに言えるものか!ミラ様を見殺しにしたお前が!」
「………イバル」
何かを噛み締めるように、ジュードはぐっと瞳を閉じた。そうしてひと呼吸した後、再び持ち上げられた瞼の向こう側には、琥珀色の凛とした光が宿っていた。
「あの時、僕が特別な人間だったら、助けられたかもしれない」
その手を掴むことすらできず、ただ見ていることしかできなかった金色の人。
――――光の向こう側へ消えてゆく。
――――真っ暗な闇の中へ落ちてゆく。
そのどちらにも手を伸ばすことさえ叶わなかった。その事実はジュードの胸に暗い影を落とす。
大切な人を誰だって守りたい。だけど、本当にどうしようもない時があることもまた、ジュードはすでに経験していた。
「ごめん、イバル」
「…………!」
吐き出すように告げたジュードの言葉を、立ち上がったイバルは、ぐっと眉を寄せて受け止めていた。暫くの間、何かを言いたそうにモゴモゴと口元を動かしていたが、結局うまくまとまらなかったらしい。代わりに出てきた言葉というのが。
「………お前、本当にさっきのジュードか?」
何かを確かめるような疑問だった。
「えっと」
困惑したようにジュードが瞳を揺らす。今更すべての事情をイバルに話している時間はない。そんなジュードの様子なぞお構いなしにイバルは言葉を続けた。
「瞳が赤くないし、肌も黒くない。どちらかと言うと、お前の方が俺の知っているジュードに近いが……何かが違うような……?」
「僕は何も変わってないよ」
小さく頭を降って、ジュードはそう答えた。イバルの訊ねた言葉の意図と違う解釈をしていることを自覚しながら。
「……ただ、僕だけにしかできない、僕のなすべきことを見つけただけだよ。イバル、きっときみも見つけられる」
微笑んだジュードに、イバルが面食らったように瞳を瞬かせた。そうして一呼吸置いてから、顔いっぱいに悔しさを滲ませて声も高らかに宣言した。
「さっさと行け!俺の前から消えろ!」
すでに満身創痍であるはずなのに、無駄にキレのいい動きでイバルは腕を振る。そして次の瞬間には、脱兎のごとくジュードたちに背を向けて走り去っていった。
「自分から消えたー!」
ティポがあんぐりと口を開けてツッコミを入れる。
以前と変わらぬリアクションに、レイアの方は苦笑だ。アルヴィン、ルドガー、ローエンの男性陣は首をすくめて笑う。同じ男性同士、何か通ずるものがあるのかもしれない。
「ねぇ、どうしてイバルは行っちゃったの?」
「イバルもきっと、分かってたんだよ」
青い服の袖を引っ張ったエルが、ジュードを見上げて尋ねる。それにふんわりと微笑みながら、ジュードは返事を返した。
「助けることのできなかった悔しさをただぶつけてるだけじゃ、ダメなんだってこと」
その言葉に、はっとしたようにエルがターコイズブルーの瞳を揺らした。そうして、まるで悪いことが見つかってしまったように言い訳めいた口調で小さく零す。
「…………エルのは、そんなんじゃないし」
「もちろん。分かってるよ、エル」
分史世界のミラのことを言ってるのだろう。エルの中のミラを一番にすれば、正史世界のミラにはどうしても複雑な思いの方が勝ってしまう。それを飲み込めというのは、幼いエルには酷な話だ。
小さな姿に視線を合わせたジュードは、微笑んで立ち上がった。見上げたのは、社の向こう側にそびえ立つ霊山だ。
「この世界の僕とミラは、別行動を取ってるみたいだね」
「イバルさんは、ジュードさんのことしか言いませんでしたからね。ミラさんと会っていればあのような反応はしないでしょう」
「だな。っつーことはだ、ミラは……」
「……精霊界にいるんだと思う」
確信めいた口調で、ジュードは重く垂れ篭める空を見上げた。天候が崩れそうだ。雨が降り始める前に、霊山に登れるだろうか。
「ミラ……」
何を考え、想い、ミラが行動したのかということを考えれば考えるほどに、胸が締め付けられるような思いがする。ぐっと手のひらを握りしめて、ジュードは世界中で誰よりも大切にしていたい人の名前を呼んだ。
「イバルの言ってた、赤い瞳に黒い肌のジュードのことも気になるよ……」
ぽつりと、レイアが胸を押さえて言葉を漏らした。
「ああ。つまり、この世界のジュードは……」
「時歪の因子<タイムファクター>化してる」
その言葉を続けるように、ジュードがきっぱりとした口調で言う。
「それなら今までのことにも辻褄が合うよ」
「……図らずしも、目的にたどり着いちまったって訳か」
「ルドガー……」
分史世界を破壊するためには、時歪の因子を破壊しなければならない。それはすなわち……この世界のジュードを殺すことに他ならない。心配げにルドガーとジュードを見上げたレイアの戸惑いはもっともだ。
「僕は大丈夫。それよりもルドガーだよ。……ごめん、嫌な役をさせちゃう」
不思議そうなエリーゼとローエンに罪悪感を覚えながら、そして最高の友人でもあるルドガーにジュードは頭を下げた。それに首を振ったのはルドガーだ。
「顔を上げろよ、ジュード。……俺は大丈夫だから」
「ルドガー……」
そんな訳ない。ジュードもし、分子世界とは言えルドガーを殺めるようなことになるとしたら……そんなこと考えたくもないというのに、実際手をくださねばならないルドガーの痛みはどれほどのものなのだろう。
「俺たちも一緒だ」
ジュードとルドガーの背中にまとめて腕を回してアルヴィンが苦笑する。それに続いたのはレイアだ。
「私だっているよ!」
「なんのことかは分かりませんが、ルドガーさん。私たちも」
「ティポだっているよー!」
「……です」
「アイボーのことも忘れないでよね!」
「みんな……」
泣き出しそうな表情で、ルドガーは目の前の仲間たちを見つめていた。ぎゅっと瞼を閉じたルドガーが次に瞳を開いた時、そこには決意を秘めたターコイズブルーの輝きがある。
「行こう」
目指すのは霊山の山頂だ。そこに――――この世界の歪みが待っている。



To be continued…





13.03.14執筆