数時間に渡る船旅を終えて、二人は目的通りイル・ファン海停へと辿り着いた。
「ミラ」
潮風を背中に受けながら、ジュードがにこりと微笑む。船を降りようとするミラに何気ない仕草で差しのばされたのは手のひらだった。
「どうした、ジュード」
正史世界とは異なるジュードに僅かに警戒の色を滲ませながらミラが訊ねる。そんなミラの様子に気がついているのかいないのか、ジュードは笑みを浮かべたままもう一度手のひらを差し出した。
「む?」
ジュードのやりたいことの意図が分からず、ミラは首を傾げた。
正史世界のジュードのやりたいことなら、大方想像することができる。ジュードはどんなことをしたいのか。はたまた、どんなことをして欲しいのか。一年という月日を経ていても、私たちは互いに分かり合えていた。そう言う意味で、ジュードの傍はとても居心地がよいということを改めて実感したばかりだ。
「ほら」
ところがこの分史世界のジュードはまるで違う。何をしたいのか。どうして欲しいのか。
似ているようで、その中身がまるで違うジュードに面食らいながらも、ミラは促されるまま手のひらをとってみることにした。
「うん」
途端、心の底から嬉しそうにジュードは破顔した。
……やはり、よく分からない。なぜ手を取るだけでここまで嬉しそうな顔をするのだろうか。
肝心な話を未だできぬまま、この世界のジュードと溝は深まるばかりだ。どうしてアルヴィンを攻撃したのか。なぜ私の話を聞いてくれないのか。何の目的を持ってイル・ファンに向かっているのか。聞きたいことは山積みだというのに、肝心なところでこの世界のジュードはウナギのようにスルリスルリとかわしてしまう。
「懐かしいね」
にこにこと嬉しそうなジュードと手は繋がれたままだ。特に振りほどく理由も思いつかなくて、絡められた手のひらはそのままでミラはジュードの隣を歩いた。
「この世界の私たちも、やはりイル・ファンで出会ったのか?」
「忘れちゃったの?初めて会った時、ミラにいきなり水の中に閉じ込められて、大変だったんだからね」
「……出会いは同じだったのだな。私のやったことではないのだが、それはすまないことをしてしまった。あの時はまだ勝手が分かっていなかったのだろう」
「いいよ、もう。おかげで僕はミラとの出会い、忘れることなんてできそうもないから」
やはり感じるのは違和感だ。
噛み合っているように思える会話でさえも、どこかでズレが起きているような引っ掛かりを感じる。どこがどう、とはハッキリと断言はできない。それでもこの感覚は無視してはいけないような気がした。
「ジュード。いい加減、どうしてイル・ファンに来たのか理由くらい教えてくれないか?」
「……ミラ」
「もうはぐらかすのはなしにしよう。私は他でもない、君自身と話がしたい」
真紅の瞳を真正面から見据えて告げる。
暫くの逡巡のあと、観念したように息を吐いてジュードが顔を上げた。
「ミラ、約束してくれる?」
「内容による」
「……ミラらしいね。でも、これだけは約束して欲しいんだ」
困ったように小さく笑って、ジュードは言った。
「絶対に無茶したりしないで。……もしも、また……また、ミラを失うようなことになったら、僕はもう……っ」
真紅の瞳が揺れていた。
泣き出しそうにも見える表情のまま、ぎゅっと握り締められる手のひらの力が強くなった。
「ジュード」
「ミラ……?」
「きみが何を考えているのか、少しだけ分かったような気がする」
ジュードの背中に広がる青い水平線を見つめながら、懐かしむようにミラは言葉を続ける。
「きみも恐れているのだな。……失うことを」
あの時、あの場所で。クルスニクの槍を前にして、私が願ったこと。失いたくないと恐れたもの。
……それは、ジュードだった。
もしも、私がマクスウェルではなかったとしたら。成すべきことだと信じていた使命は何の意味も持たなくて、私の存在そのものが紛い物なのだとしたら。マクスウェルでないことを知り、失望したジュードが私から離れていく。それが何より恐ろしくてたまらなかった。きみから向けられる眼差しの中に、失意や侮蔑が浮かぶことが怖くて、私は必死だった。
私は恐らくマクスウェルではないだろう。だけど、ジュードの前ではマクスウェルでありたい。きみが憧れてくれた私であり続けたい。
ただ、その願いのためだけに突き動いた結果がこの世界だ。
私がいなくとも、この世界で生きて欲しい。……その願いは私自身のエゴだったのだと、今更ながらに思い知る。
消えてゆくだけならいいだろう。後に残される痛みや辛さを、知ることはないのだから。
握られた手のひらを、握り締め返す。
伝わればいい。この世界で消えてしまった私が、今、何をしているのかを。――――きみを想って、精霊として生きている。きみだけのミラが、きみとの思い出を頼りに旅をしている。だから、どうか。
「私はもう消えたりしないよ」
ああ、今、こんなにも。
「成すべきことがある。私の世界で、私にしかできない使命がある」
――――ジュード、きみに会いたい。



ジュードがイル・ファンを目指した理由はアルクノアが潜伏しているという情報を耳にしたかららしい。
どうしてたった一人で行動しているのか。本来、ジュードとは無関係であるはずのアルクノアを、なぜ討とうとしているのか。……黙り込んでしまったジュードからそれ以上の言葉を聞き出すことはできなかった。
ただ、この世界は私たちの正史世界と決定的に違う出来事がすでに起こってしまった後らしい。会話の節々から読み取れるジュードの不安定さは、どうやらその『何か』に起源するもののようだ。そこまでの情報収集をなんとか終えて、私は今、イル・ファンの宿の一室にいた。
「そう言えば……アルヴィンを置いて行ってしまったが大丈夫だろうか」
「アルヴィンは見てくれの通りしぶとい奴だから、心配しなくていいんじゃないかな」
ぽつりと漏らした言葉は、シルフのあっけらかんとした言葉で話題ごと打ち切られた。……うむ。確かにアルヴィンなら殴った程度ではやられたりしないだろう。鳩尾に綺麗に決まっていたような気はしたが。
「それよりもジュードたちとれんらくとらなくていいでしか?」
「突然ミラがいなくなって、心配しているかもしれませんよ」
続いたのはノームにウンディーネだ。心配そうに見上げてくる二人の視線に、ミラは小さく笑って返事を返した。
「それこそ心配無用だ。アルヴィンが目撃しているし、ジュードとレイアはル・ロンドの事情に詳しい。私が発った船の便などすぐに特定してしまうだろう」
「では、ミラはなぜこの世界のジュードと共に?」
「……時歪の因子<タイムファクター>だ」
ぽつりと零したミラの言葉に、ウンディーネが静かな声で訊ねる。
「ミラはジュードが時歪の因子<タイムファクター>だと思っているのですか?」
「いや、そういうわけではない。だが、この世界は私たちの世界とほぼ同じような過去を辿っているにも関わらず、断界殼<シェル>が開かれる可能性が低い」
「ジュードの行動が気になっているんだな」
「ああ。この世界のジュードは、『人と精霊のために』ではなく……『ミラのために』行動しているようだからな」
時歪の因子<タイムファクター>は正史世界と最も異なるものに宿るという。
私のいる世界と最も異なるもの。異なる環境。……その中心に、この世界のジュードがいるような気がしてならない。
「そういえば、ジュードはどこへいったでしか?」
「調べごとがあると言って出て行ってから暫く経ったな。私も少し様子を見に行ってみるか」
時歪の因子<タイムファクター>が近くにあるかどうかはルドガーに判断してもらわなければ分からない以上、私が打てる手としてはこの世界のジュードを監視しておくことだ。
――――もし、ジュードが時歪の因子<タイムファクター>だったら。まだ、確定していないことをあれこれ思い悩んでも仕方がない。
立ち上がり、ドアノブへと伸ばした手のひらがガチャンと不自然な音によって阻まれた。
「む?」
何かの間違いかと思い、もう一度ドアノブを回す。
ガチャン。不自然なところでドアノブは止まり、動く素振りを見せない。
「鍵か?」
だとしたら、なぜ。誰が。…………それは、この世界のジュード以外にありえない。
「シルフ!」
「了解。これを壊したらいいんだね」
瞬間的に脳裏によぎったのは、危うさを秘めた真紅の瞳だった。……嫌な予感がする。
風の刃とともに打ち砕かれた扉を蹴破って部屋を飛び出す。
アルクノアを倒すのだと言ったジュードの言葉の余韻が、ミラの頭の中で響いていた。



To be continued…





13.03.02執筆