「駄目だ」 一度目の接触は想定外。しかし、二度目の接触をミラは許さなかった。 「ミラ?」 見上げるジュードの紅い瞳が揺れる。それに罪悪感を感じながらも、ミラは引き寄せられた腕をそっと押し返した。 「……これは『口付け』という行為だろう」 以前、書物から得た知識をなんとかかき集め、ミラは言葉を紡ぐ。 「意中の男女が行うものだと認識している。……私はきみのミラじゃないんだ。きみからの好意を受け取るわけにはいかない」 「ねえ、ミラ。僕のミラじゃないって……さっきから何を言っているのか分からないよ。ミラはここにいるじゃない」 「確かに私はここにいる。しかし、異世界からやってきたと言っただろう」 「異世界ってエレンピオスのことでしょう?」 「違う。君の世界と似ているが、異なる世界だ」 「……よく、言ってることが分からないよ」 これでは堂々巡りだ。 先程から分史世界のことを告げようとしても、肝心なところでジュードは理解することを拒絶してしまう。一体いつからジュードはこんなに聞き分けが悪くなったのだろう。 ……いや。ここは分史世界なのだから、正史世界のジュードと同じように扱うこと自体が不自然なのだ。それでも、勉学することを喜びとするジュード・マティスとは、目の前のジュードはどこかズレているような気がした。 乗り込んだ船の行き先がイル・ファンだと知ったのが先刻のこと。なぜアルヴィンを倒したのかという問いかけに、ジュードは答えることはなかった。 海を見たい。唐突に切り出された言葉に、肝心なことを何も聞け出せないまま甲板までたどり着いたところで、これだ。 この世界の私<ミラ>を失ったあとのジュードのことを、私は知らない。もし私がここにいることでこの世界のジュードに悪影響を与えるのならば……即刻離れるべきなのだろう。 しかし、とも思う。この世界のジュードは明らかに正史世界のジュードと異なる。 時歪の因子<タイムファクター>は、正史世界と最も異なるものだと告げたルドガーの言葉が、私の脳裏を掠めたのは気のせいではないだろう。……確証は、まだない。だが、こちらのジュードの近くに時歪の因子<タイムファクター>が潜んでいる可能性は高いように思えた。 見上げた空の紅さを、僕はきっと一生忘れない。 ミラが死んだ。 レイアも死んだ。 アルヴィンを殺してしまった。 ……誰かが死ぬってこと。それは、もうその人と笑ったり、喋ったり、たわいもない事で盛り上がったり、呆れたり。そういうことが、全部なくなってしまうってことをようやく僕は知った。 冷え切ってしまったクリームシチュー。すぐに温められるように台所には火を起こす準備が終わっていて、綺麗に並べられた食器が残っていた。 ハ・ミルの小屋で僕が引きこもっている間、レイアはずっと僕を守り続けてくれていた。ただ行き場のない悲しさを抱えるだけしかできなかった僕を、ずっと影ながら支えてくれたレイア。 使命のために、みんなのために。自分を犠牲にすることさえも厭わなかったミラ。 もう裏切らない。そう言ったのに、ミラがいなくなったやるせなさをぶつけることしかできなかったアルヴィン。 三人が生きた痕跡は確かにそこに残されているのに、もう、二度と会うことができない。話すこともできない。あの笑顔を見ることができない。 ……不思議と、涙は出なかった。 声に出してわんわんと泣くことができればずっと良かった。けれど、泣いたって三人は帰ってくるわけがないから。冷たい土の中に横たえた二人の体は、思っていたよりもずっとずっと小さかった。どうしてこんな結末になってしまったんだろう。痛かったよね。苦しかったよね。……ごめん。 やるせなさを見ないことにして、ただ機械的に体を動かす。まるでただ、土をかぶせるために動く装置みたいに。そうやって二人を埋葬して、僕に残されたのは行き場のない想いだけだった。 ミラはリーゼ・マクシアを守りたいと言っていた。 だったら僕は―――――その願いを叶えてあげなくちゃ。 レイアを失い、アルヴィンを手にかけて、この視界は真っ赤に染まってしまったけれど、僕にはもう、ミラが遺した想いしか残されていないから。 そして、ミュゼを殺した。断界殼<シェル>を知った人を無差別に殺すあれは悪だ。 エレンピオス人も、アルクノアも倒す。リーゼ・マクシアを燃料にするだなんて許しちゃいけない。ミラはきっと、それを願わないから。 ただ、それだけの想いでここまでひた走ってきた。 レイアの死をソニア師匠<せんせい>とウォーロックさんに伝えないと、と思ったのは、それから暫くしてのことだった。 二人でル・ロンドに帰ろう。そう言いたかったのに、告げることすら叶わずに逝ってしまったレイアの代わりにせめて。レイアの訃報を直接告げる勇気はなくて、震える指でしたためた手紙を、ソニア師匠は<せんせい>は今頃どんな気持ちで読んでいるのだろうか。 ……きっと、もう二度とル・ロンドへは帰って来れない。確信に近い想いを胸に、旅立つ直前にもう一度だけ故郷を見上げた。 母さん。父さん。……親不孝な息子で、ごめんなさい。 「ジュード!」 一日だってその声の主を忘れた日はなかった。反射的に振り返れば、金色の髪を揺らして彼女が――――僕のミラが、そこ立っていた。 それは、まるで奇跡みたいだった。 「ミラ」 確かめるように、その名前を呼んだ。 触れたら空気みたいに弾けてしまうことが怖くて、恐る恐る告げた名前を、ミラは小さく微笑んで返事を返してくれた。 「ああ」 「ミラ、ミラ」 「どうしたんだ、ジュード?」 「やっぱりミラだ……!」 まるで少しだけ散歩にでも出ていたみたいに、ミラはいつものミラだった。それがただただ嬉しくて、気がついた時にはここが人通りのある港であることさえも忘れて、全身の力でミラにしがみついていた。 久方ぶりにこみ上げてきたのは、熱い雫だった。目尻の奥から湧き上がってくる激情を、一体何と呼べば良いのだろう。 「……ジュード?」 「ミラ……ミラ……!」 頭一つ分高い位置にあるミラの唇から不思議そうな声が落ちてくる。 まるで今まで起きた出来事が、全部夢みたいに思えた。 ミラが死んだことも、レイアがいなくなったことも、アルヴィンを殺してしまったことも。全部、全部、あれは悪い夢だったんじゃないだろうか? 力いっぱい抱きしめた体は温かかった。鼻腔を掠めたのは、お日様の匂いだ。ふわふわとした金色の髪も、触れれば柔からかい弾力を返してくれる身体も、ルビーみたいな瞳も、全部ミラを形作るものだ。 たまらなくなって、目尻からボロボロと大粒の涙が零れた。 レイアとアルヴィンを埋葬した時も、遺品を整理した時も、決して零れることのなかった涙は後から後から湧き出てきて、止まることを知らないようだ。 ミラのすぐそばは、まるで始めからあつらえていたかのようにしっくりと馴染む。 「ミラぁ……」 小さな子供みたいに縋り付く僕をミラはどう思っているだろうか。 仕方のない奴だと呆れているだろうか。それとも、どうしてなのかと困惑しているのだろうか。 見上げたミラの表情は想像したものとは違っていた。ぶつかったルビーの瞳は、何かを思案するかのように揺れている。 ―――――ねえ、僕以外のことを考えないで。 「ジュード?」 確かめるように輪郭をなぞれば、不思議そうなミラの表情がそこにあった。 「本当にミラなんだね」 「それ以外の私がいるのか」 「だって……ミラ、ジルニトラで……っ」 目の前に立つミラが、僕のよく知るミラとどこか違うような気がして震えた。 そう言えば……ジルニトラから消えたはずのミラが、どうして今、ここにいる? 当たり前と言えば当たり前な疑問を、僕は頭の中から追い出した。……それを考えてしまったら、ここにいるミラが消えてしまうような気がした。そんなのは嫌だ。もうミラを失いたくない。ここにいるミラを、僕はもう絶対に離さない。 肩口を濡らす温もりを見下ろして、ミラは困惑したように瞼を閉じていた。わずかな時間、何かに悩んでいたような素振りを見せて……そうして次に瞼を持ち上げた時には、いつものミラの表情に戻っていた。 「ああ、私は……死んだ」 「!?」 真剣な眼差しのルビーの瞳とぶつかる。 「じゃあ、ここにいるミラは……」 そんなのは嘘だ。だってミラはここにいる。傍にいて、その温もりを感じることができる。 「精霊として生まれ変わった私だ」 「……生まれ…変わった……?」 「ああ。詳しくは言えないが、一度死んだ私は再び精霊としての生を受けた」 「精霊……として……?」 「ジュードが、私のことを呼んでくれたからな」 遠くを見るような眼差しで、ミラは僕じゃないどこかを見ていた。それがたまらなくて、ことさら強調して返事を返す。 「僕が?」 「いや、君の事ではない。何と言ったらいいのだろうか……私の世界のジュードが、私を呼んだのだ。だから、今ここにいる私は君の知っているミラじゃない」 「僕じゃない僕?それってどういうこと……?」 それにミラがミラじゃないって……。唇が震えるのが抑えられない。 今、ミラは何と言ったのだろう。 一度死んで、精霊になった? 僕じゃない僕が呼んだ? ナニヲ、イッテイルノカ、ヨクワカラナイ。 「きみにとっては信じられない話かもしれないが、私は君の知っているミラではないということだよ」 聞きたくない言葉が、頭の中を通過してゆく。 頭で理解するよりも、体が拒絶をした。咄嗟に耳を塞ぎそうになった次の瞬間、忘れることのできないもう一つの声が耳殻に滑り込んできた。 「ミラ。こっちの情報収集はあらかた目処が付いたぜ……ってジュード?」 視界の中に収まったのは、見間違えるはずもない――――確かにこの手にかけたアルヴィンが立っていて。 「アル……ヴィン……ッ!!?」 むせ返るようなパレンジの匂い。 差し込んだ木漏れ日。 乾いた銃声と、崩れ落ちてゆく体。 コツン、とぶつかったエメラルドの瞳は微笑んでいた。 ……全ての情景がフラッシュバックする。 「ぐっ!?」 「ジュード!!?」 気がついた時には、もう体が動いていた。振るった渾身の一撃は、アルヴィンの鳩尾に綺麗に決まった。 「……あの時、倒したはずなのに……!」 守らなくちゃ。僕がミラを守らなくちゃ……! アルヴィンに殺されるわけにはいかない。今度こそ、僕は大切な人を守る……! 「ミラ!」 引き寄せたミラの瞳は困惑に揺れていた。それを見なかったふりをして、強引にでもその腕を引く。 「行こう」 目的地はイル・ファン。アルクノアが潜伏していると、ついこの間耳にしたばかりだ。 今度こそ僕は間違えない。もう一度手にした、この腕を離さない。――――僕の、僕だけのミラを守ってみせる。 ミラを狙うアルクノアも、エレンピオス人も僕が倒してみせる。 リーゼ・マクシアを守るんだもんね。ミラはそれが使命なんだもんね。僕も、その使命を胸に生きるから。 ――――カチリ。 時計を刻むような耳障りな音が、また聞こえたような気がした。 To be continued… 13.03.02執筆 |