「ミラ……?」
まるでその存在を確かめるかのように、震える唇で青い服の少年はその名を呼んだ。
違和感を覚えたのはミラの方だ。……何かがおかしい。
穴が空くかと思うほどミラを頭から靴先まで何度も見返して、目の前に立つジュードはその姿を確かめていた。その瞳の色は紅く――――…紅い?ジュードの瞳は艶やかな琥珀色をしていたはずだ。
「ミラ」
何かを確かめるように、その名前を呼ぶ。
その響きの中に今にも崩れ落ちてしまいそうな危うさを感じて、ミラは慎重に返事を返した。
「ああ」
「ミラ、ミラ」
「どうしたんだ、ジュード?」
「やっぱりミラだ……!」
瞬間、紅色の瞳から大粒の涙が盛り上がる。目尻に浮かび上がった涙を隠そうともせず、ジュードは泣き笑いの表情を浮かべた。呆気にとられるミラを他所に、駆け寄ったジュードが距離を詰める。
久方ぶりに感じる温もりがそこにはあった。
「……ジュード?」
「ミラ……ミラ……!」
頭一つ分高いミラの視界の中に、揺れる黒髪が映る。痛いくらいの力で抱き寄せられた体はか細く震えていた。まるで見えない何かに怯えるかのように、ジュードはミラの体をしっかりと抱きしめて離さない。
唐突な出来事に、ミラはぱちぱちと瞬きをした。
彼女の知るジュードは、人前にも憚らずこんな愛情表現をするような少年ではないと認識していたからだ。
お互いを信じている。どんな時だって無条件で背中を預けていられる。ミラの感じるジュードとは、そういう人となりだった。
ミラの背中を追いかけていた少年は、いつしか隣に立ち、同じ理想のために歩き出していた。つまり、ミラとジュードの関係はもはや対等なものであるはずなのだ。その彼がこんなにも弱々しい姿を見せるということはつまり。
(……まさか、このジュードは分史世界の?)
温かい何かがミラの首元を濡らした。
まるで小さな子供みたいにミラにしがみついて離れないジュードは、か細く震えている。
「ミラぁ……」
嗚咽と共に縋るようにこぼれ落ちたその響きに、ミラは今度こそ確信を持つ。
――――これは、ジュードであってジュードでない。
ミラのよく知るジュードとは違う『ジュード』なのだ。分史世界に旅立つ前に、いつものジュードに一年前の衣装を着て欲しいと頼んだことが、まさかこんなところで裏目に出ることになるとは思わなかった。
「む」
ミラの肩口でしがみついていたジュードが顔を上げる。
泣き腫らしたその瞳は、やはり紅く染まったままだった。その真紅の瞳でミラを見つめて、ジュードはゆっくりと手のひらを伸ばす。
「ジュード?」
ぺたぺたと確かめるように頬をなぞられた。それに首を傾げれば、嬉し泣きにも似たようなそんな表情を浮かべてジュードは言う。
「本当にミラなんだね」
「それ以外の私がいるのか」
探りを入れるつもりで口にした言葉に、ジュードの瞳がまた潤んだ。
「だって……ミラ、ジルニトラで……っ」
そこまで口にして、やはり堪えきれないようにジュードは目尻から涙を落とす。
その一言で合点がいった。
この世界は、正史世界から一年ほど時を遡った世界だ。
時間軸は私が精霊界を彷徨っていた頃。私のいなくなった世界で、ジュードが人と精霊を守りたいという自ら決意し、行動を起こした時期と重なる。
それが本当だとしたら、この会遇はかなりまずいものだ。
私を失ったことでジュードは大きな成長を遂げた。それは確かに悲しいものであったかもしれない。それでも、ジュード自身に大きな意味を持つ一歩だったはずだ。
肩口を濡らす温もりを見下ろして、ミラは困惑したように瞼を閉じた。そうしてわずかな時間逡巡した後、その唇から事実を口にする。
「ああ、私は……死んだ」
「!?」
驚いたような真紅の瞳とぶつかる。
「じゃあ、ここにいるミラは……」
「精霊として生まれ変わった私だ」
「……生まれ…変わった……?」
「ああ。詳しくは言えないが、一度死んだ私は再び精霊としての生を受けた」
「精霊……として……?」
「ジュードが、私のことを呼んでくれたからな」
「僕が?」
「いや、君の事ではない。何と言ったらいいのだろうか……私の世界のジュードが、私を呼んだのだ。だから、今ここにいる私は君の知っているミラじゃない」
告げられた言葉に、ジュードが驚いたように目を丸くした。
……本当は、真実を語ってはいけなかったのかもしれない。真実を知った分史世界の住人に抵抗されると厄介なことも想像がつく。
それでも――――それでも、私はジュードに嘘や偽りを告げたくなかった。
その感情は精霊として、マクスウェルとして、公平さを著しく欠くものであることも理解している。だが、こうも思うのだ。ジュードのことを特別に想うこの感情がなければ、私は今ここで立つことすらままならなかった。
だから、ジュードのことを大切に想う私自身のこの気持ちを大切にしたい。それは言い訳なのかもしれない。それでも、そう考えるようになった私がいることもまた、事実だった。
「僕じゃない僕?それってどういうこと……?」
それにミラがミラじゃないって……。わななく唇で見上げるジュードは、まるで雨の日に捨てられた子犬の姿を連想させた。これは私のよく知るジュードではない。頭では分かってはいつつも、良心が痛む。
……そうか。ジュードたちが違う世界に生きる『ミラ』も見たときも、このように感じていたのだな。
6歳の時にアルクノアを壊滅させ、マクスウェルとしての力を失ったという、別の世界に生きたIFの世界の私。この世界のジュードは、まるでその再現のように思えた。
しがみつくジュードを、そっと肩を押して距離を取る。この世界の私でない私が、ジュードに触れていいわけではない。
「きみにとっては信じられない話かもしれないが、私は君の知っているミラではないということだよ」
「………っ」
ジュードの表情が、また泣き出しそうに歪む。何かを喋りたそうに何度も口を動かして、音にならない音を飲み込んだ。
僅かなのか、それとも随分時間がかかったのだろうか。もどかしい時間の終わりは唐突に訪れた。
「ミラ。こっちの情報収集はあらかた目処が付いたぜ……ってジュード?」
背中からかけられた声は見知ったものだったが、目の前に立つジュードの表情は初めて目にするものだった。
信じられないものを見るかのように目を見開いた後、その顔に浮かんだのは――――恐怖?憎悪?
少なくとも、私のよく知るジュードとはまるで違う表情のジュードがそこにはいた。
「アル……ヴィン……ッ!!?」
「あ?」
瞬間的に動いたのは、ジュードの方が先だった。……というよりも、見知った顔を前にしたアルヴィンはすっかり油断をしきっていた。
「ぐっ!?」
「ジュード!!?」
ミラの隣をくぐり抜けたジュードは、アルヴィンの鳩尾を正確に狙って一撃を入れる。
それに驚いたのはミラの方だ。温和な性格のジュードが、出会い頭に人を殴りつけるだなんていったい誰が想像出来ようか。
崩れ落ちたアルヴィンの姿を呆然と見つめて、ミラは立ち上がるジュードの姿を見た。
「……あの時、倒したはずなのに……!」
噛み締めるように呟かれた言葉をミラは聞き漏らさなかった。
倒す?アルヴィンを?
この世界のジュードは、人と精霊を守りたいと願っているのではないのか?
「ミラ!」
伸ばされた腕が、ミラの腕を掴んだ。
手を取るのではなく、有無を言わさず引かれた腕を瞬間的に振り払おうとして――――ミラは寸前のところで思いとどまった。
この世界は何かがおかしい。
もっと正確に言えば、この世界のジュードは私の知るジュードと違いすぎる。
これはそう、言うならば女のカンと言うべきものか。ともかく、この世界のジュードの行動は正史世界のそれと明らかなズレがある。
「行こう」
どこへ、とはジュードは言わなかった。
打ち倒したアルヴィンをそのままに、船へと誘う。その力強さに言いようのない不安を感じながらも、ひとつの考えを胸にミラはジュードと共に走った。



ソニア師匠の眼力と言えば、ル・ロンドの子供たちでその恐ろしさを知らぬ者はいない。
何しろ軍でさえ苦戦した盗賊団を『買い物の邪魔をされた』という理由だけで壊滅させるような、天井知らずの実力を持つ武術の達人なのだ。その眼光の鋭さに、泣き出す者から果てはお漏らしをしてしまう子供までも現れるのは想像に難しくない。
……つまり、どういうことかと言うと。ソニア師匠の前に嘘や隠しだては通用しないってこと。
とは言え、何もかもを洗いざらい吐き出すわけにもいかない。ここは分史世界で、いずれは破壊しなければなない世界なのだ。事を大きくするわけにはいかないということを、ジュードは重々理解していた。
「……手紙は、僕が出したわけじゃありません」
「ジュードがそう言うなら、そうなんだろう。だけど……ジュード。あんた、何か隠し事をしていないかい?」
「……言えません」
「こんな手紙がウチに届いたんだ。レイアは私の可愛い娘である以上、無関係じゃいられないよ」
「……それでも、言えません」
「お母さん……」
睨み合いの攻防戦は先程から続いたままだ。ハラハラと心配そうなウォーロックとレイアの視線を受けながらも、ジュードは一歩も引かない。
そんなジュードの力強い視線を、ソニアはじっと見つめていた。
「ジュード!レイア!」
静かな睨み合いは、甲高い少女の呼び声で唐突に終わりを告げた。
反射的に振り返れば、開け放たれた扉の向こう側に見慣れた帽子を被った少女が立っている。その呼吸は荒く、明らかに慌てた様子でここへやって来ていたことが伺えた。
「エル!?」
ただならぬエルの様子に、何かが起きたのだとジュードとレイアは悟る。
「アルヴィンがやられちゃった!それで…それで……!」
途切れそうになる言葉を深呼吸でなんとか落ち着かせて、エルは叫ぶように続けた。
「あの人がいなくなっちゃった!」
「……っミラが!?」
エルが名前を呼ばない『あの人』を正確に理解したジュードは、瞬間、血相を変えて振り返った。衝動的に走り出しそうになるのを寸前でこらえたのは、この場所にはソニアとウォーロックがいたからに他ならない。
「アルヴィンは今、ルドガーが介抱してる!ジュードたちも早く着て!!」
「で、でも……」
困ったように見上げたのはレイアだ。
娘の死を知らされた両親をこのまま放っていていいはずがない。唐突に訪れた事態の進展に困惑するレイアとは対照的に、ソニアは冷静な表情で一言告げた。
「行っておいで」
「……え?」
「友達が大変なんでしょう」
「でも、お母さん……」
「つべこべ言わない!」
「「はいっ!!」」
ジュードもレイアも揃って背筋を伸ばしたのはソニアの教育の賜物か。反射的に返した返事のあとで、二人は揃って顔を見合わせた。
「あんたたちの元気な顔が見れたんだから、私たちはそれでいい。だから早く行ってあげなさい」
「う、うん……」
後ろ髪引かれる思いをしながらも、急かすエルに連れられてジュードとレイアが扉をくぐっていく。
「ゴメン。……行ってくるね、お母さん、お父さん」
「中途半端で帰ってくるなんて許さないからね!」
激を飛ばす母親に、今度こそ声を張り上げてレイアは言った。
「行ってきます!」



ル・ロンドの陽光の中に消えていった子供たちの姿を見送って、ソニアは瞳から一粒の涙を零した。
その姿に慌てたのはウォーロックの方だ。普段は気丈な妻のしおらしい姿に、驚いたように肩を揺らして……それから、そっとその隣に寄り添う。
「ありがとう、アンタ」
見上げたジュードの力強い視線を思い出して、ソニアは寂しそうに笑った。
あんな顔をして師匠を見上げる子供たちのことを、ソニアは知らない。見た目は大きく変わっていなくとも、その中身はまるで違うことを彼女は正確に把握していた。
――――そして、あの手紙が告げた訃報の意味も。
「無事だよ、きっと」
いかつい外見とは対照的に繊細な言葉選びをする旦那を見上げて、ソニアは言った。
「当然だよ。あの子達は……私の自慢の弟子なんだから」



To be continued…





13.02.09執筆