まどろみの中に微かな振動音を感じたような気がして、手を伸ばす。
「…………」
カチャリ、と音を立てて開いたGHSに表示された時刻はAM5:45。セットした時間通り正確に通知をしてくれる便利なこの道具にもすっかり慣れた。
瞼をこすりながら身を起こす。ぼんやりとした頭で周囲を見渡せば、広い大部屋には雑魚寝で見知った仲間たちが寝息を立てていた。
ああ、そうだったな。ジュードはここへ来た経緯を思い出して、くすりと小さく笑う。
ルドガーがついに借金20,000,000ガルドを完済したのがつい先日。最後の100ガルドをクランスピア社の前でノヴァに手渡した時、この企画を知らされたのだ。
莫大な借金返済のためにここまで頑張ったルドガーにご褒美を。それが、この温泉旅行。
……アルヴィンが混浴温泉だなんて煽ったせいでティポの中に詰め込まれる羽目になったのは、この際忘れてしまうことにしよう。一体何が嬉しくて、男同士で裸のお付き合いをしなければならないのか。しかもティポの中で鮨詰めになって。
いや、ミラの入浴姿を他の人に見られなかったから良かったんだけどね。べ、別にミラと一緒に温泉を期待してたわけじゃ……ないって言いきれないけど。その辺りはまあ、僕も男ですから。
「よ、よし」
思わず少し赤面してしまってから、ジュードは寝静まる皆を見渡して立ち上がった。
せっかく温泉に来たのに、ティポの胃袋で入浴を終わらせるだなんてあまりにも勿体なさすぎる。大体こんな早い時間に起きたのだって、朝風呂を楽しもうと思ったからなんだから。
「今なら誰もいないよね」
夢の中にいる皆を起こさないように、そっと忍び足で立ち上がる。着替えとタオル。洗面道具も忘れずに。
目指す場所は――――混浴温泉。
男湯も一応あるんだけど、一番の見晴らしなのはやっぱり混浴温泉の方らしい。高低のある山の地形を利用して作られた温泉旅館は、その抜群の見晴らしによって雑誌にも取り上げられているほどの人気スポットだ。
慌ただしい日常に追われる中で、こういった場所を訪れる機会はそう何度もないはず。
……たまにはゆっくり骨休みしてもいいよね。
早朝に狙いを定めた事もあってか、訪れた温泉は誰一人いない。
海を望める開けた温泉を前に、ジュードは感嘆のため息を漏らした。
「一人きりってなんだかすごい贅沢をしてる気分だ」
誰に伝わることもないけれど、思わずそう呟く。
清涼とした朝の空気の中に広がる、真っ青な海。滾々と沸き上がる天然のお湯から作られるのは小さな滝壺だ。
まるで、自然の織りなす神秘を目の前に広げられているかのようだ。
雄大な景色を一人占めしてしまう贅沢を噛みしめながら、ジュードは温泉の中に体を沈めた。
「はー……」
薄らと白みのかかったお湯を掬いあげて顔を洗えば、眠気は完全に吹き飛んだ。少し熱めのお湯は冷えた朝の空気と相まって心地よい。
ふと、静けさの中に物音が聞こえたような気がしてジュードは顔を上げた。
……もしかして、誰か来た?
混浴温泉、と名前の付く場所にいるのはジュードの方だ。同じような考えを持った人がここを訪れることは、もちろんあり得ることのはず。
一応腰にタオルは巻いてはいるものの、異性とばったり遭遇しようものなら色々とあらぬ噂をたてられてしまいそうな気がする。いや、不可抗力だよ!?この場合!!?
脳内に半眼になって呆れるミラの姿が一瞬よぎり、焦りに焦ったジュードがばしゃりと音を立てる。
「誰かいるのか?」
声の主は女性だった。
……というより、この声は。
「ミラ!!?」
「ジュードか。君も朝風呂に来ていたのだな」
湯けむりの中姿を現したのは、見間違える筈もないミラだった。
いつもの白い装束とは違ってタオル一枚を素肌に巻き付けたミラが、裸足のままぺたぺたと温泉までに歩み寄る。
「どどど、どうしてここに……!?」
「勿論朝風呂を楽しみに、だ。……しかし驚いた。私が一番乗りだとばかり思っていたからな」
そうしてミラはにっこりと笑う。
「どうやら私たちは同じようなことを考えていたようだ」
ミラと同じようなことを考えていたのは嬉しいことだけど!で、でも、ちょっと無防備すぎやしませんかミラさん……!
湯船でばちゃばちゃとせわしなく動くジュードの方は完全に混乱状態だ。
白いタオルを持ち上げる豊かな膨らみや、すらりと伸びた長い手足に思わず目が行ってしまう。衣服の丈が短いことはいつものことであるものの、今日に限っては素肌を覆うのは薄い布切れ一枚だ。思春期真っ只中の青少年にはあまりにも刺激が強すぎる。
そんなジュードの様子もお構いなしにミラが髪を揺らして温泉へと近づく。
「隣を邪魔するぞ」
「は、はひっ!?」
「ああ、良いお湯だ」
ちゃぷり、と足先からお湯につかったミラは抵抗感なくジュードの隣までやってくる。ほっそりとした肩が触れそうなほど近くに来たことを自覚して、ジュードの体温はカッと上がった。
「みみみ、ミラ……!」
「どうした、ジュード?」
不思議そうに首を傾げるミラの方は、今の状況がどういうことなのか本当に理解しているのだろうか。
……いや、分かってない!絶対分かってない!!
ミラと少しでも距離をとるように、じりじりと湯船の中で後ずさる。
ほぼ裸も同然の格好で、それもこんな場所でミラと接近するなんて色々と危険すぎる。っていうかすでに危ない。なんかいい匂いするし、揺れてるし。お湯に浸かってタオルが透けているような……気もしなくもない。
「ジュード」
「うわぁ!」
「なぜ、私から遠ざかる?私は何か君にしてしまっただろうか」
「みみみ、ミラは何もしてないよ!」
強いて言うならば、だいぶ刺激的な格好をしているくらいです。
真っ赤になったジュードがぶんぶんと首を振るのを、ミラが怪訝そうな顔で見返す。
「では、なぜ遠ざかるのだ」
「えっと……その、ほ、ほら!ミラ、昨日僕をティポの中に隔離したよね!?今日はいいの!!?」
「君はまたティポの中に入りたいのか?」
「そういうわけじゃないけど……」
男臭くて暑苦しいことこの上なかったティポの胃袋の中を思い出して、思わず素に返る。流石に好き好んであの中に入りたいとは思わない……じゃなくって!
「理由を教えて欲しい」
こういう方面に関しては物凄く察しの悪いミラは、不思議そうに首を傾げる。そんな姿もまた魅力的なんだけど、今はそれどころじゃない。
じりじりと詰め寄るミラの姿に、これ以上は、と観念したジュードが両手を顔の前に突き出した。
「今……その、あんまり近づかれちゃうと、僕、ミラに何するか分からないから……っ…その……!」
「君が私に危害を加えるとは思えない」
信頼してくれているのか、男として見られていないのか激しく微妙なラインだ。
前者であると信じたいものの、近づいてくるミラを止めようとジュードもまた必死だ。茹で上がりそうな頭でなんとかミラの説得を試みる。
「き、昨日、ミラだって親しき仲にも礼儀ありって言ってたじゃないか」
僕に裸を見られるのは……抵抗があると思ったんだけど。ごにょごにょと滑舌悪く発した言葉に、ミラはああ、とぽんと手のひらを叩いた。
「私は気にしないぞ」
「気にして!」
間髪入れず、思わず突っ込みを入れてしまう。いくら精霊だと言っても、ミラの姿かたちは限りなく人に近い。というより人そのものだ。人前で肌を晒すことの意味をちゃんと理解していて欲しかった。
「あれ?だったらどうしてあの時……?」
「……それは」
ふと、ミラの言葉には矛盾があったような気がして問いかけると、先ほどの勢いを失ったように彼女は言葉を詰まらせた。
「何かあるの?」
ようやく自分のペースを取り戻せそうな糸口を見つけて、ジュードはミラの言葉を促す。まさかとんでもない爆弾が帰ってくることになるとは露ほども知らずに。
「……笑ったりしないか?我ながら筋の通らない理屈だとは思うのだが」
「笑ったりしないよ」
「…………ジュードが、その」
「僕が?」
ぽそぽそとミラらしくない小声で、言いにくそうに彼女は言う。
「他の女性の無防備な姿を見るのは…………抵抗があったんだ」
「……え」
その、それって、つまり。
「ミラは僕が、温泉でレイアやエリーゼたちの裸を見るのが嫌だったってこと?」
「…………おかしな理屈だと言うのは理解している」
「ミラは見られても平気なのに?」
「ああ」
その弱々しいミラの返事に、どくり、と心臓が大きく脈打ったことを自覚する。
……つまり、ミラは、僕がミラ以外の人の裸を見ることが嫌って訳で。
「嫉妬してくれたんだ」
どうしよう。
ミラがそう思ってくれたことが、どうしようもなく嬉しい。
「ああ、そうか」
僕の言葉に、ミラは納得したように伏せていた顔を上げた。
「私は嫉妬していたのか。……異性に君の無防備な姿を見せたくなかっ」
ミラの言葉はざぶりと立てられたお湯の音で、半端に発せられたまま途切れてしまう。
気が付いた時には、ジュードは衝動のままにミラを腕の中に抱きしめていた。自覚なく小さな独占欲を吐きだしたこの愛おしい存在を、傍で感じていたかった。
「…………あ」
衝動的に動いた体に、困惑したのは頭の方だ。
腕の中に収まってしまったミラが、薄らと頬を赤らめてジュードの名を呼ぶ。それは温泉にのぼせてのことなのか、それとも。
柔らかい肢体が絡みつくように伸ばされるのを感じて、ジュードもまた、彼女にのぼせる。
「ミラ……」
真正面にあるルビーのような瞳に吸い込まれるように顔を近づけて――――…
「やっぱり朝風呂に限るな!」
白い湯気の向こうから、呑気な声が聞こえて我に返った。
「あの声はルドガー?」
「み、ミラっ!」
思わず条件反射で岩陰までミラを引っ張り込む。
タイミングが悪すぎた。今まさにいかがわしいことを行おうとしたその寸前でルドガーの声が聞こえたものだから、開き直って待てば良かったのにジュードは隠れてしまう。
「なぜ隠れるのだ?」
「しっ!静かに」
「あ、ああ」
……って、逆にこの状況マズイんじゃ――――!?
狭い岩陰に密着するかのようにミラを引きずり込んでしまってから、ジュードは己の過ちに気が付いた。
どう考えてもこの状況こそ言い訳が効かないのだと。
「ジュード」
温泉効果でほんのり頬を染めたミラがすぐ傍にいる。
というか、何かとても柔らかいものが胸に当たっているような……気がしなくもない。いや、多分気のせいだ。
「おおー、やっぱり絶景だ」
ルドガーはこちらに気が付いた様子もなく、眼前に広がる景色に感嘆のため息を吐いていたりする。
「ど、どうしよう……」
「ん?素直に出ていけば良いのではないか?」
「駄目だって!」
岩の向こう側には、知られれば確実に色々からかわれてしまうであろうルドガー。
隣には、甘い香りと柔らかな感触のミラ。
まさに進退窮まるとはこのこと――――…ジュードの苦難は暫く続く。





12.12.13執筆