2015.09.05 執筆

グッバイマイフレンズ

「はっ……くしゅ!」
 滝壺に落ちる水音に混じって、盛大なくしゃみが響き渡ったのは、二人が帰ってきてすぐのことだった。
「どうした。ジュード。体が冷えたか?」
「ううん、大丈夫。ただの生理現象だから」
 二人というのは、もちろんジュードとミラのことだ。臨床試験を中止した源霊匣(オリジン)の欠陥を解決する糸口を探すため、セルシウスに縁のある地を巡ることになったのが、そもそもの事の発端。乞われるがままに、キジル海爆に立ち寄った先で、セルシウスからなんともロマンチックな習わしを耳にしたのだ。『滝の上から地上を見下ろした男女は、深い絆で結ばれる』――興味を持ったミラに、ジュードが「試してみる?」と訊いた結果が、先ほどのくしゃみだ。二人仲良く滝の頂上まで登って、一体何をしてきたのやら。
「だが、さっきはだいぶ水を被っていただろう。やはりあの時、私があのまま――」
「あ……っとミラ、僕はほんとになんともないから……ねっ」
「……で、二人はなにをしてきたんだ?」
 思わず半目になって聞いた俺の心境を知ってか知らずか……恐らく後者だろう。傍目から見てもはっきりと分かるほど頬を桃色に染めて、ジュードは照れたようにそっぽを向いた。
「なにって……言えないよ」
 ちょっと待てジュード。何だその意味深な反応は。借金地獄から始まった俺の旅の最初の同行者でもあり、気の許せる数少ない友人は、このミラという大精霊と同行するようになってからというもの、どうにも様子がおかしい。妙にもてるクセに、女に興味なさそうだと思ったら、本命がいたってやつか! くそ、俺とお前は(彼女いない)仲間だと思ってたのに!
「……ぷっ。くくく。いや。ルドガーの反応がおかしくてな。大体、ジュードの言い方も悪いぞ。まるで人に言えないことをしてきた、と聞こえる」
「えっ。してない! そんなの、してないからね」
 念を押すように、何度も否定されるとなおのこと疑ってしまうというのが人の心というものだ。乾いた風が吹きすさぶ荒野のような俺の心など知ったことでもないかのように、ミラはふふっと微笑んだ。
「内緒にされると、なおのこと知りたくなってしまうのが人情だ」
「それは分かるけど……」
「わかっている。約束は守るぞ。そういうわけなのだ。すまないな、ルドガー」
 そう言われて、これ以上切り込んでいく体力は俺には残されていなかった。……もう、なんか、色々毒だ。突っ込んだらもっと俺が傷つきそうだし。
「なんでいじけてるの、ルドガー?」
 体育座りで座り込んだ俺を、すみれ色の双眸が見下ろしてくる。二つに結わえた髪がぴょこんと跳ねる様を見届けて、俺は遠くを見る眼差しで返事をした。
「大人には色々あるんだよ、エル」
「ふーん。エル、子供だからわかんない」
 そりゃそうだ。親友だと思っていた奴が、本人の自覚なしにほぼ彼女持ちだったことを知った俺の複雑な気持ちは、幼いエルには理解し難いだろう。
 地面にのの字を書きながら拗ねる俺を見かねてだろう。エルはふーっと盛大なため息を吐くと、その小さな手のひらを俺の頭の上に乗せて、ぽんぽんと撫でてきた。
「分かんないけど、ルドガー、元気ないみたいだから」
 だからエルの元気、分けたげる。そう言って笑う邪気のない顔に、俺の濁った心は静かに浄化されてゆく。
「あ~~~~っ、もう、エルーっ!」
「うわっ!? ルドガー、ちょっと、イタイってば!」
 感激して小さなアイボーの姿を抱きしめれば、思いの外力が入ってしまっていたらしい。相手は全く加減の違う子供であることを思い出し、俺は慌てて抱きしめる腕の力を弱めた。そうすればようやく痛くなくなったのか、ほっとしたように表情を緩めた後、エルはふくれっ面になって抗議の声を上げる。
「レディーの扱い、もっとしっかりしてよね! そんなんだからオンナノコにもてないんだよ、ルドガー」
「おっしゃる通りです……」
 ごもっともな言葉に神妙な顔で頷けば、少し言いすぎたのかと思ったのだろう。エルは眉を下げて、微かに悩んだ後、言葉を続けた。
「しょ、しょーがないなー、ルドガーは。どーしてもモライテがなかったら、エルがアイボーとしてもらってあげてもいいよ」
「……本当か?」
「どーしても、の時だってば!」
 そっぽを向く丸いほっぺが、照れたように淡く色づいているのを見て、俺はいよいよ感極まって声を上げた。
「エル~~っ!」
 なんだかんだで面倒見がすごくいい、俺のちっちゃなアイボーを抱え上げれば、後ろで全ての元凶たちが微笑ましそうに笑っていた。
「ルドガーとエル、本当に仲良しだね」
「見ていて妬けるな」
 そもそも誰のせいでこうなったのかは、この際突っ込まないでおく。後ろでは、呆気にとられたようにこちらを見ているセルシウスの姿があった。

   * * *

 今にして思えば、予兆はあった。
 キジル海爆でエルは俺に教えてくれていたはずなんだ。俺が広げた腕は、エルにとっては痛いものだったということを。俺の大丈夫は、エルにとっては大丈夫ではないということを。
 そして、そんな当たり前のことを、当たり前に捉えられないまま、俺は一つの選択肢を選んだ。
 忘れもしない4305年。燃えるように暑い、火霊終節の日のことだった。俺は、選択を誤った。その結果、大切なアイボーである『エル』を失った。
 あの悪夢は、今でも恐ろしい程くっきりと覚えている。小さな小さな物言わぬ亡骸を前に、俺は跪いて泣いていた。
なんでだよ。どうしてエルだったんだよ。……失敗だ。この世界は分史世界になっちまった!
 血の滲む思いで集めた五つの道標は、全てガラクタ同然になった。橋は架かることなく、オリジンの前にたどり着くことすら許されず、残されたのは空っぽになった小さな血族の亡骸だけ。俺たちのしてきたことは全て水の泡と化したのだ。
 そうしてあの悪夢から、俺の中身はふやけてグズグズに腐ってしまった。
 心が、何者も受け付けないのだ。全てのものは色を失い、味気ない灰色となってしまった。あれほど深い絆で結ばれていたと思っていた仲間たちも、精霊界に戻ってしまったミラとミュゼを筆頭に、散り散りとなって、それぞれの生活に埋れていった。
 時の流れは早いものだ。いつしか俺は、クランスピア社の役員になっていた。ろくな扱いを受けられなかったエージェント時代に比べたら画期的な待遇だ。そうして、朝も夜も仕事に明け暮れる毎日を過ごしていた中で、俺は、一人の女性と出会った。
 彼女の名前は、ラル・メル・マータ。
 リューゲン商会の新代表としてやってきた彼女は、油断ならない商売相手であると同時に、どこか放っておけないところのある女性だった。
 なあ、エル。今ならきっと、オトメゴコロってやつが前より分かる気がするんだ。ラルとのやりとりはどれもこれもが新鮮だった。時には怒られることもあった。泣かれることもあった。それでも、ラルは伸ばしてくれた手のひらを決して離さなかった。
 目に映る一つ一つの物に、温かく、柔らかな色が灯ってゆく。花のように笑うラルの瞳がすみれ色だと気がついた時、俺の口からはこんな言葉が滑り出していた。
「俺と、結婚してください」
 不意に転がり出た言葉だった。けれど、それは間違えようもなく俺自身の本心だった。
「はい……っ」
 すみれ色の上に透明な雫が盛り上がり、頬を伝っては流れ落ちてゆく。それが、世界で一番綺麗な光景だと思ったんだ。

   * * *

「久しぶりに連絡くれたと思ったら、『結婚します』だったんだから。そりゃ、びっくりもするよ」
 苦笑しながらも、その目元は柔らかい。式に呼んでからというもの、以前のように話せるようになった友人は、二年の時を経てすっかり風貌を変えていた。
 十八歳となり、大人の骨格に体を作り替えたジュードの肩は広くなったし、首筋も太くなった。身長も、かつてヒールを履いたミラと同じくらいの高さか。整髪剤を使って跳ねていた髪は、最近はぺたんと丸くなっていて、彼の内面を表すように落ち着いた雰囲気を醸し出していた。とは言え、何もかもが昔と変わったわけじゃない。
 俺とラルの新居にやって来たジュードは、出された紅茶を昔と変わらない仕草で口にして、言葉を続けた。
「でも、幸せそうで良かった。ずっと気になってたから」
「悪かったな、ジュード」
「ううん、そんなことないよ」
 そう言って首を振るジュードの表情は穏やかだった。眩しいものを見るような眼差しで、俺たちの住まいに視線を向ける。
「色々と、ルドガーに先、越されちゃったな」
「俺の方が年上だからな。当たり前っちゃ当たり前だぞ」
「ふふ、そうだね」
 そう言いながらも、ジュードの雰囲気はどこか余裕だ。精霊であるミラと人間であるジュードは、そうやすやすとは会えない関係のはずだ。そうだというのに、こうして信頼関係を築けるはなかなか凄いことだと思う。
「……って待て。さっき普通にスルーしたけど、『先越された』ってことは……ジュード、もしかして……」
「あ、うん。その……実は僕も、この間ミラにプロポーズしたんだ」
 照れたようにはにかむジュードの幸せそうな横顔に、思わず俺は立ち上がって返事した。
「マジか!」
 あのキジル海爆のあれこれの後、セルシウスが残したヒントを元に再開発された源霊匣(オリジン)は順調で、臨床試験も問題なくクリアしたという。今回の来訪は、源霊匣(オリジン)実用化に向けて、エンドユーザー向けの流通拠点としてクラン社の名前を借りられないかというのが名目だ。ジュードの研究は、二年前のどん詰り状態だった時とは対照的に、順風満帆と言える。そういった意味で、プロポーズは一つの区切りだったのだろう。
「はー……ジュードがミラにプロポーズかー。もう、そんな年にもなってたんだな」
「なんか年寄りみたいな発言だよ、ルドガー」
「いや、なんか年感じちゃうって。俺もなんだかんだで、もう父親になっちまったんだしな」
 一つ向こうの部屋では、ラルが赤ん坊の面倒を見ているはずだ。俺とラルのちっちゃなちっちゃな宝物。――エル。
 俺と同じターコイズブルー色の瞳をもったその子の名前は、女の子だと分かった時、エルしかないと思った。
 世界でたった一人の、可愛い、俺の天使。この天からの授かりものに、俺の馬鹿で失ってしまったちっちゃなアイボーの名前を付けたのは、すみれ色の瞳をしていたエルのことを忘れたくはなかったからだ。俺とラルとエルで、もう一度やり直したい。もしかしたら、そんな思いもあったのかもしれない。
 平凡で、ありふれた家庭。けれど、俺にとってはかけがえのない幸せな日常だった。この温かな関係を、ジュードもまた築いていくというのならば、それはとても喜ばしいことだ。……それに。
「僕が人間でミラが精霊であることは変わらないけど、証みたいなものが欲しかったんだ」
 なんかさ、ルドガーを見てたら余計にそう思ったよ。照れたように微笑むジュードの顔を見ていたら、こっちまでなんだか照れくさくなってくる。
「……そうかな」
 頬を掻きながら呟いた言葉に、深く頷いて、友人もまた嬉しそうに琥珀色の瞳を細めた。
「そうだよ」
 結婚の約束は一年後。その時がくれば、ちゃんとした指輪を渡して、ささやかな式を上げたい。
 そう言ったジュードの言葉に、「式には絶対呼んでくれよな」って心の底から笑って返事した、たった一週間後の出来事だった。――俺の娘、エルが『クルスニクの鍵』であることが発覚したのは。
 それから先の顛末は、まるで坂を転げ落ちるかのようだった。クロノスの力に唯一対抗しうる力を持つ『クルスニクの鍵』の能力者は稀有な存在だ。エルを正史世界の取引材料にすべきだとビズリーは主張し、兄さんもそれに賛同した。それだけじゃない。ジュードも、かつて旅した仲間であるレイアも、アルヴィンも、エリーゼも、ローエンも。揃いも揃って、皆がエルを俺から奪おうとしたのだ。

『子供なんてまた作ればいいだろう』
『……本気で言っているのか?』
『私はこれ以上なく本気だよ。この世界を分史世界で終わらせるわけにはいかないのだ。『クルスニクの鍵』は正史世界に渡り合える唯一の取引条件となる』
『馬鹿なことを言うな! そんな勝手なことが許されると思うのか!?』
『落ちくんだ、ルドガー!』
『このまま正史世界の奴らにこの世界が壊されるのを、指を咥えて見てるわけにはいかねーだろ』
『決してエルさんを道具のように扱うというわけではないのです。私たちの話を聞いてください』
『ようやく、黒匣(ジン)を乗り越えられる世界になりそうなんだ! 絶対、悪いことにはさせやしない。だから……この世界を守るために、どうか協力して欲しい』
 俺はただ、守りたかっただけなんだ。
 平穏な暮らしを。ささやかな幸せを。エルと、ラルと、俺とで築いていけるはずの未来を。
 気がついた時には、俺は真っ赤な血に濡れたウプサーラの湖畔に立っていた。全てはもう、手遅れだった。
 後に残されたのは、物言わなくなった七つの亡骸と、凄惨な戦いに心を壊してしまった妻。ほぎゃあほぎゃあと、何にも知らずに泣いているエル。そうして、時歪の因子(タイムファクター)化の進行が始まった哀れな末路を辿る男だけだった。

   * * *

 渇ききっていたその丘には、水が浸み出し、緑が茂るようになっていた。その道のりの先は、水源を湛えたウプサーラの湖畔がある。あれから俺は、ウプサーラ湖に居住を構えた。ビズリーやユリウスを屠ったことで、クランスピア社の事実上社長となった俺には、それは難しいことではなかった。凄惨な殺人現場となったウプサーラ湖は気味悪がられてしまって、立ち寄る人はほとんどいない。心を壊したラルの養生には、もってこいの環境だった。
「ルドガー!」
 あと二週間もすれば一年という時が流れようとする、穏やかな日のことだった。その日はとてもいい天気で、俺はウプサーラ湖が太陽の光を跳ね返すさまを、エルを抱えたままぼんやりと見つめていた。そこに、剣を片手に勇ましい足取りで、金の髪の大精霊が現れたのだ。
 そうか。今日だったのか。懐かしい友人の声を思い出しながら、俺は静かに顔を上げた。ここに来たということは、ミラはもうジュードが死んだことを知っているに違いない。そして、彼を殺した犯人が俺であるということも。
「来るのが意外に早かったな。……いや、遅かったとでも言うべきか?」
 そうして、芝居がかった仕草でゆっくりと振り返ってみせる。腕の中のエルはすやすやと眠ったままだった。一年の時の流れは本当にあっという間で、首も座っていなかったような赤子は、抱えるにもそれなりの力が必要なほど大きく成長していた。
 ミラ=マクスウェルと呼ばれる大精霊は、エルに一度視線を向けた後に俺の顔へと目線を戻す。そのルビーをはめ込んだような瞳が、時歪の因子(タイムファクター)化の進行を隠す仮面へと向けられたことに気がついて、俺は口元を持ち上げた。
「ルドガー……君は」
「ああ。先だっての戦いで、俺もついに時歪の因子(タイムファクター)化が始まった。みんな……強かった」
 そう言って笑ってみせれば、ミラは怒るかと思った。けれど、柄に手を添えたミラは、鞘からそれを抜き取ることをしなかった。むしろ、痛ましいものを見るような眼差しで、吐き出すように言葉を紡ぐ。
「皆を殺したのは、やはりルドガーなんだな」
「ああ、俺だよ。ビズリーを殺す邪魔をしてきたんだ。ユリウスと一緒に。だから、みんな殺した。……ジュードも」
 その俺の言葉に、ミラの肩がぴくりと動いた。
「結婚を約束していたんだろう。ジュードから聞いたよ。あいつ、嬉しそうにしてた」
 わざと畳み掛けるように喋ってみたものの、ミラは鞘から剣を抜き取るような素振りを見せない。彼女にとってのジュードがどれほど大切な存在であるかなんて、十分すぎるほど知っていた。ジュードの死を突き付けられているというのに、殺人鬼が今もここで笑っているというのに、それでもミラは俺に刃を突き付けることなく、ウプサーラの湖畔のような瞳で見つめてくる。
「ミラも俺に刃を向けるか?」
 焚き付けたつもりだった。ここでミラが刃を向けるならば、それもいいと思った。ただ守りたかっただけなのに、俺は失ったものがあまりにも多すぎた。
「……一つ、聞いてもいいか?」
「どうぞ」
「なぜ、ビズリーにジュードたちは協力したのだ?」
 激情に身を任せるわけでもなく、ミラは淡々と疑問を口にする。……確かにこれは、避けては通れぬ問題だろう。ミラもまた、ジュードたちと同じことを口にするかもしれない。微かに逡巡もあったものの、今は全てを打ち明けるべきだろうと思った。それが、かつて友と呼んだ存在への俺なりの敬意の表し方だと思ったから。
 腕の中のエルを抱きなおして、俺は静かに唇を開く。
「この子は俺とラルの子だ。一年前に産まれた。……『クルスニクの鍵』だった」
 突如現れたその単語に、ミラがはっとしたように息を呑むのが分かった。
「この子を、『エル』を俺たちから奪おうとしたんだ! 子供なんてまた作ればいいって! 俺にはエルだけなのに!」
 次第に感情が昂ぶっていくことが分かる。腕の中に息づいているエル。あの時、あの場所で守ることが出来なかった。降り注ぐ熱線の中、むせび泣いたあの日のことを俺は忘れてなんていない。
「……私は」
 ミラの唇が戦慄く。――剣を向けるか。それでもいい。それなら、俺もエルを守るために全力を尽くすだけだ。
「私は……!」
 しかし、いつまで経ってもミラは鞘から剣を抜き取ることをしなかった。ここに来て初めて感情を揺らめかせたミラは、固く結んだ唇から何を口にしていいのか葛藤しているようにも見えた。
 それは俺にとって、ある意味で信じ難い光景だった。精霊の主たる存在のミラ=マクスウェルは、いつだってこれと決めた信念をひた走る精霊だったはずだ。ところがどうだ。目の前で体を震わせているのは、精霊の主というよりは、大切な半身を失ってしまったただの女のように見えた。そしてその姿は、たった一つを守りたかったが故に、全てを切り捨ててしまった俺の境遇に似ているようにも思えてしまったんだ。
 その時、家の奥から何かが割れる音が聞こえた。はっとして顔を上げる。……ラルだ。意識が戻ったのか!
 ミラを一瞥すると、俺は彼女から背を向けて走り出した。途端、エルが目を覚ましてぐずり始めたが、今はそんなことを言っていられる場合じゃない。目を覚ましたラルは何をするか分からない。以前意識を取り戻した時なんて、包丁を片手に自らを傷つけようと暴れたのだ。最悪の光景が脳裏に走り、俺は青ざめたまま一心不乱で家へと駆け抜けた。どうか、無事でいてくれ!
「ラル!」
 転がるように家の中に入った途端、肩の力が抜けた。先ほどの音は、ラルがガラス細工を落として割れてしまった音だったのだ。彼女はぼんやりとした瞳のまま、割れたガラス細工に触れようとしていた。
「触っちゃ駄目だ、ラル」
 光を反射させる七色の破片に伸ばされた指先をそっと押し留めて、ラルの肩を抱く。そうすれば、きょとんとしたすみれ色がこちらを見上げてきた。
「どうしてだめなのかしら、ルドガー」
 遠くから足音が聞こえたのが分かった。けれど、敢えて俺は気が付かなかった振りを続けることにした。
「ガラスに触ると怪我をしてしまう。ラルだって痛いのは嫌だろう?」
「でも、とってもキレイだわ。キラキラしてるもの。ねえ、ちょっとだけ触ってもいい?」
「駄目だよ。さあ、ラルはベッドにお戻り。他の綺麗なものを、今度見せてあげるから」
 抱きなおしたエルを一度ベビーベッドへ戻してから、俺はラルを抱きかかえた。……骨と皮ばかりの薄い身体だ。どんどん肉付きが良くなっていくエルとは対照的に、日ごとに痩せてゆくラルを見ていくのは辛い。
「今日は女の人を連れているのね、ルドガー」
 腕の中のラルは何も知らない。ただ、俺の後ろに立っていたミラのことを見て、にこにことそう言った。
「……友達だよ。もっとも、ミラもそう思ってくれているかは分からないけどね」
「お友達! いいなあ。私も、女の子のお友達欲しいわ」
「俺じゃ足りないのかい?」
「ルドガーは男の人でしょう? それに、私よりもずっとず~っと、お兄ちゃんだもの!」
 ……お兄ちゃん、か。その言葉に、ズキリと胸が痛む。兄さんの面影を思い出してなのか、それとも、旦那のことを見知らぬお兄さんと呼ぶ妻の声になのか。もう、どちらに傷ついているのかすら分からない。
 呆気にとられたように立ち尽くすミラへ説明するために――もっと正確に言えば、そう口にすることで、客観的に見下ろせる自分を保つために。俺は噛みしめた唇を開いた。
「一年前の戦いを目の当たりにしてね。ラルは心が帰ってしまったんだ。怖いものなど何一つなかった、少女時代へ」
 心を、壊してしまったんだ。あの日、あのウプサーラの湖畔の光景を目にしてから。
「……治るのか?」
「分からない。医者は匙を投げた。ラルが自分から帰ってこようと思わない限り、ずっとこのままだそうだ」
 デスクの上には、処方されたぞっとするほどの数の薬が散らばっている。朝用、昼用、夜用。どれも欠かすことのできない薬だ。これだけが、今のラルを支えていると言っても過言ではない。こんなものに頼らないと生きていくことすらままならないラルが、ただ、ただ哀しい。
 床に散らばったガラス細工が、まるで今の俺たちを表しているかのようだ。ひび割れ、きっともう二度と元の形に戻ることはない。
「わあ、キレイ」
 何を口にしていいのか分からないように立ち尽くすミラを、すみれ色の瞳が見上げていた。ラルは、ミラの左手にあるものを目ざとく見つけ、ほっそりとした白い指先を差し伸ばす。
「アネモネのお花の指輪。いいなあ、いいなあ」
 左手の薬指に巻き付けられた、花の指輪。淡く光るその花が普通のものではないこと。そして、その指に宿る意味に気が付いて、俺は言葉を失くした。
『僕が人間でミラが精霊であることは変わらないけど、証みたいなものが欲しかったんだ』
 そう言って、照れ臭そうに笑っていた友人の顔が思い浮かぶ。その時がくれば、ちゃんとした指輪を渡して、ささやかな式を上げたい。そう言っていたジュード。
 彼は、式こそ挙げることは叶わなかったけれど、ミラにちゃんと伝えていたのだ。
 私も同じものが欲しいと言ったラルの言葉に、苦笑してミラは応える。彼女の声は、ここに来て初めて優しい響きを持っていた。
「これは、駄目なんだ。私の大切な人が贈ってくれたものだから」
「大切な人なの?」
「ああ、そうだよ」
 不思議そうに見つめるラルを前に、ミラが薄く微笑む。その指に真っ赤な花を添えられた日のことを思い出しているのだろうか。長いまつげがミラの顔に陰りを作る。そうして顔を上げた彼女は、はっとするほど綺麗な女の顔をしていた。
「『大切な人』じゃなくて、『愛する人』じゃなかったの?」
 不思議そうな声で、愛らしくラルは言う。その言葉に、ミラは呆気にとられたように掠れ声を落とした。
 ……そうか。知らなかったのか。瞬間、次にラルが口にする言葉が、ミラにとっては酷く残酷な意味を持つことを俺は理解した。しかし、止めるよりもラルの言葉は早かった。
「だって、真っ赤なアネモネの花言葉は『君を愛す』でしょう? 二人は結婚の約束をしているの?」
 血のように、真っ赤な真っ赤なアネモネの花。その鮮やかな花が持つ花言葉は――…情熱的な愛の囁き。
「お姉ちゃん、いたいの?」
 白い指先が、そっとミラの頬を撫でる。その感触に気が付くまで、ミラは自分が何をしているのか分かっていないように見えた。そうして拭い取られたものが何かと気が付いて、信じられないかのように息を呑む。
「……っ……ぅ、ぁあ……っ!」
 ミラは、大粒の涙を零して泣いていた。
 その事実が自分自身で理解しきれていなかったのだろう。堪えようとした嗚咽が、飲み込みきれずしゃっくりとなって吐き出される。ぽろぽろとガラスの破片に涙を落としながら、ミラはかつて一度たりとも見たことのないほど感情を揺らめかせて泣いていた。
「愛している……っ……私も、君を、愛しているよ……!」
 いたいの、いたいの、とんでいけ。
 優しい声がする。幼い少女のような仕草で、ミラの頭を撫でるラルの手のひらはどこまでも優しかった。
 いたいの、いたいの、とんでいけ。
 痛いよ。どうしようもなく、痛い。世界はこんなにも残酷で、身勝手だ。俺からエルを。肉親を。友人を。……愛する妻を。嵐のように攫っていってしまう。
 今更のように、気が付いてしまう。幼子のように泣きくじゃるミラからは、もはや精霊の力は感じられなかった。ただの人間の女に生まれ変わったミラは、早々に人の身に還った意義を失ったのだ。せめて憎しみに囚われて、仇でも討とうと考えればマシだったのかもしれない。けれど、ミラはそうすることを選ばなかった。だから彼女は、ここで泣いているのだ。
 壊れたガラス細工を涙が濡らしてゆくのを見つめながら、俺はまた一つ、大切な何かが失われたことを感じていた。……分かっていたんだ、こうなることなんて。
 さよなら。さよなら。もう二度と帰ってくるはずもない日々。かつて友人と呼んだ、大切だった人たち。俺は、彼と彼女のことが好きだった。
 平凡で、ありふれた家庭。けれど、俺にとってはかけがえのない幸せだったかつての日々。温かな昼下がり、紅茶を飲む友人を前にして、飲み込んだ言葉が死んでゆく。
『……それに』
 俺が続けられなかった言葉。年上ぶりたくて、照れ臭くて。伝えられずに終わってしまった言葉は。

『俺、ジュードやミラみたいな関係にずっと憧れてたんだ』


   * * *

 時の流れは早いものだ。あれから七年の月日が流れ、エルは八歳になった。エージェント達の来襲に合わせてエルに懐中時計を持たせ、正史世界へと旅立たせる。長い年月をかけて、入念に練り込んだ計画だった。私が正史世界の私と成り替わり、全てをやり直すための。
 ミラとは、年に一度だけ会う関係になっていた。その年に一度というのも、ジュードやみんなの命日だ。その日が来ると、どこからともなくミラは現れる。風の噂では花売りをしているらしい。彼女は精霊としてではなく、人として生きることを選んだようだった。
 年を重ねて姿を変えようとも、変わらぬものはある。そう伝えでもするかのように、両手いっぱいのアネモネの花をミラがウプサーラ湖に捧げる日が、今年もまた近づこうとしていた。
 ミラが来るのが早いか、それとも正史世界の自分が来るのが早いか。答えは、後者だった。
 そうして『最強の骸殻能力者(ヴィクトル)』というカナンの道標を求めてやって来たかつての私は、エルを導き手として現れて。
 ――あれほど練りこんだ計画だったというのに、私は、『最強の骸殻能力者(ヴィクトル)』は……ルドガー・ウィル・クルスニクを前に膝を付いていた。
「はぁ、はぁ……くっ……!」
「パパ……みんな……なんで……」
「ごめん、エル……」
「手加減できる相手ではなかった……」
 懐かしい顔だ。かつて私自身が引き裂いたジュードとミラは、昔見た時と変わらぬ信頼関係を築いて、『ルドガー』と共に現れた。……あの時、ジュードを切り裂きた時とはまるで戦い方が違った。やはりジュードとミラは揃ってこその二人だったのだろう。個別に相手をした時よりも遥かに手強かった二人に足止めされ、『ルドガー』にチャンスを奪われてしまった。
「ぐうっ……体が……」
「パパ……」
「!」
 唸る私を案ずるように、エルが駆け寄ってくる。その首筋に、一目見て分かるほどの黒い染みが広がっているのを見て、私はどっと体の力が抜け落ちることを自覚した。
「くそ……間に合わなかった……! がふっ、ごほっ」
 血と一緒に吐き出された落胆の意味を、エルは知るまい。
「ああ……」
 今にも泣き出しそうなエルを抱きしめてあやしてやりたくとも、今の私にはそれをする余裕などありはしなかった。せめて、これだけは伝えねばなるまい。喉を震わせて、私は声を上げる。
「聞け、ルドガー! 一族の力を……使える限度は……決まっている」
「力の限度?」
「まさか、その代償が――」
「時歪の因子(タイムファクター)化か!」
 かつてのミラが辿りついた答えに満足して、私は、私が身をもって知り得た教えを口にする。
「力には代償が付きまとう……逃れる方法は……ない」
「…………」
 『ルドガー』には届いただろうか? かつて私が疎かにして、失ってしまったものを、この『私』は気がつくことができるだろうか? ……本当なら、私が、私自身の手で成し遂げたかった。
「それでもお前は、生まれ変わりを選んだのだな」
「ふっ……」
 ミラの言葉に私は薄く微笑んで、懐中時計に腕を伸ばした。馴染みのある骸殻が全身を覆うことを理解して、私は『ルドガー』に飛びかかる。
「ルドガー!」
「お前はどう選択する!」
 そして、選択の刻は訪れて。――私は、俺は、自分自身の槍を突き立てられる。
「エルを……頼む。カナンの地を……開け……オリジンの……審判を……超え……」
 勝敗は、すでに決していた。私は敗れ、時歪の因子(タイムファクター)が正史世界の手に渡る。同時に、それはこの世界の終焉を意味していた。かつて、自らの手で散々その末路を見てきた。分史世界は、砕けてしまったガラス細工のように粉々になって、その先はない。文字通り世界は死に絶えるのだ。
「あああ……パパッ! やだよ、パパァッ!」
 エルの泣き叫ぶ声に混じって、ざぶんと何かが沈む音がした。風に乗って、真っ赤な花びらが宙を舞う。湖に飛び込んだものが何なのか理解して、私は薄く微笑んだ。
 ――かつて、確かに憧れたものがあった。いつか、その憧れ以上の幸せを築いて、みなが笑っていられる世界を目指そうと思った時もあった。それなのにどうしてだろう。私も、ミラも、大切なものをただ、大切にしたかっただけのはずなのに。
「パパァ~~~~~ッ!」
 私はこれまで散々理不尽な目に遭った。そうして生き残るために、力を古い続け、親しい者を、愛する者を、憧れた者さえも壊してしまった。壊して、壊し尽くした果ての結末がこれなのだから、なんだか酷く笑えてしまう。
 ……ああ。私は一体何のために生きていたのだろう。段々、エルの声が小さくなる。そうして私は、欠片と一緒に砕けて消え――…
「なんでいじけてるの、ルドガー?」
 不思議そうな声と一緒になって、すみれ色の双眸が見下ろしていた。二つに結わえた髪がぴょこんと跳ねる様を見届けて、私は……俺は、呆気にとられて顔を上げた。
「ルドガー、変な顔!」
「へ、変な顔は酷くないか」
 思わずあの頃のように返した俺に、すみれ色の目のエルがふーん、と半目になって見返してくる。
「大人には色々あるんだよ、エル」
「ふーん。エル、子供だからわかんない」
 あの時と、全く同じ受け答えだ。それになんだか泣きそうになってしまって、俺は静かに膝を抱えた。
「分かんないけど、ルドガー、元気ないみたいだから」
 エルはふーっと盛大なため息を吐くと、その小さな手のひらを俺の頭の上に乗せて、ぽんぽんと撫でてくる。温かい手のひら。懐かしい感触。そのどれもがたまらなくなって、俺は夢中になって両腕を広げた。
「エルっ!!?」
「うわっ!? ルドガー!?」
 決して痛くないように。伸ばした腕でゆっくりと小さな体を抱きしめれば、すみれ色の瞳を揺らして、エルが苦笑する。
「しょーがないなあ、ルドガーは」
「ルドガーとエル、本当に仲良しだね」
「見ていて妬けるな」
 遠くから微笑ましいものを見る眼差しで、ジュードとミラがこちらを見ている。眩しいばかりの光。懐かしい、一瞬一瞬が輝いて見えた、あの頃と同じように。
「しょーがないから、エルがアイボーとしてもらったげる」
 そう言って、すみれ色の瞳のエルが、小さな手を差し出してくる。
「そうなんだ。俺、しょーがないから、最後まで足掻き続けちゃってっさ」
「うん、知ってる。だから、頑張ったルドガーにご褒美だよ」
 今にも込み上げてきそうな嗚咽を噛み締めて、俺は小さな小さな手を握り返す。……ああ、なんて空が眩しいのだろう。顔を上げた先には、どこまでも広がる青空が続いていた。
「行こっ」
 掴んだ手を引っ張るようにして、エルが光の方へと走っていく。ジュードもミラもそれに続く。向こう側には、俺の見知った顔がたくさんあった。
「……ああ」
 一度だけ振り返る。滝の向こう側のゆらめきに決別するように背を向けて。
「今、行くよ」
 俺は、光の中へと歩いて行った。
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