「やっぱり、カン・バルクは寒いね」
重いコートをハンガーに引っかけて、ようやくジュードは人心地ついたように肩を下した。買い物から帰ってきたジュードには、なおさらに室内の温かさが染みるだろう。ぱちぱちと暖炉の火が爆ぜる音を耳にしながら、ミラは「おかえり」と、ジュードの帰りを労った。僅かな空白と共に、ジュードからも「ただいま」と短い挨拶が帰ってくる。そうして互いに顔を見合わせて、小さく微笑み合った。こういう何気ない動作一つ一つが、胸の内を温かくしてくれる。そんな何気ない時間が幸せだな、と思った。
極寒の王都、カン・バルク。セルシウスと共にこの場所を訪れたのはそう前の事ではない。クエストのために訪れたはいいものの、メインパーティから外されてしまったガイアスとローエンは城の様子を見に出て行ってしまい、ミュゼもまた、二人に付いて行ってしまった。残されたジュードとミラは宿でのんびりと待っていようという話でまとまったのが今朝の話だ。そういえば買い物があったからちょっと出かけてくるねと、出て行ったジュードを、ミラは手持ち無沙汰の間本を読みながら待っていたというわけだった。
「そういえば、ジュードは何を買ってきたのだ?」
見慣れた白衣姿に戻ったジュードに小首を傾げてミラが訊ねる。そんなミラの様子に笑いながらジュードは返事を返した。
「実は、これを買ってきたんだ」
そう言って差し出されたのは、『カン・バルク銘菓』と書かれた小さな小箱だ。黒と赤の高級感のある箱の中には、見慣れたパーティメンバーのデフォルメされた顔が印刷されている。
「おお、これはかの噂の『ガイアス饅頭』ではないか!」
「ミラ、一度食べてみたいって言ってたでしょ? 今からお茶でもしよう」
「素晴らしい。さっそく準備をしよう」
そう言っていそいそとミラは立ち上がる。分かりやすく食べ物に浮かれる背中を可愛いなあと思いながら、ジュードは部屋に備え付けられていたポットを手に取った。惚れた欲目とはよく言ったもので、ミラが嬉しそうにしているだけでジュードもまた浮き足立ってしまう。これだけ喜んでくれるのなら、買ってきた甲斐もあるというものだ。
豪快にパッケージの包装を破くミラの背中をニコニコと眺めながら、ジュードはポットにお湯を注ぎ、備え付けられていたティーパックを慣れた手つきで詰めた。部屋の中にふんわりとお茶のいい香りが漂い始める。
「ジュード」
「まだ。蒸らすのにもうちょっと待って」
「まだ何も言ってないぞ」
「ミラの言いたいことくらい分かるよ」
「……君は何でもお見通しだな」
ふふふ、と微笑むミラの表情にまたどきりと心臓が音を立てる。セルシウスと共に各地を巡ってからというもの、こうしたミラの何気ない仕草に胸が高鳴ることが増えた気がする。
……その原因は分かりやすいくらいに、分かっていた。人間であるハオ博士と精霊であるセルシウスの種族を超えた結びつきを知って、僕は期待してしまっているのだろう。ミラと、僕の関係もまた……もう一歩進んでもいいんじゃないかって。
小さなテーブルの上に、買ってきた饅頭を並べてミラはわくわくと楽しそうだ。そんな彼女の前に淹れたてのお茶を並べれば、期待に満ちた眼差しが向けられる。
「はい、どうぞ」
湯気の立つお茶を並べれば、ミラは待ちきれないといった様子で饅頭を手に取った。あっという間にガイアスの顔が、綺麗に半分欠けて無くなる。なまじモデルとなった本人を知っているが故に、かなりシュールな光景だ。もぐもぐとハムスターみたいに頬を膨らませて饅頭を頬張るミラは、妙齢の女性の行動とはとても言い難いのだけど。
(可愛いなあ)
しみじみとそう思ってしまうのは、やっぱり惚れた欲目というやつなんだろう。
ミラは夢中でガイアス饅頭を食べていた。ガイアス饅頭の中身は、まろやかな酸味のケチャップ味だ。饅頭の中にわざわざ赤色を仕込むあたりが芸が細かいというかなんというか。小さく苦笑を漏らせば、もぐもぐと咀嚼しているルビーの瞳と視線がぶつかる。
「ジュードも食べるといい」
買ってきたのは僕なのだけれど堂々と言い切るミラの風格に、思わず頂こうかなと返事を返してしまう。いいんだ。ミラが幸せそうなら僕はそれで。
「あ」
ふと、ミラの頬に鮮血のようなケチャップが付いていた。ガイアスの成れの果てというのはこの際考えないようにする。白い頬に赤いケチャップが線を引いているのを、指先でそっと拭い取る。
「ミラ、付いてたよ」
「おお、すまな……」
何の気はなしに、指先で拭ったケチャップを口に含んだ。それを見たミラの表情が不自然に凍る。そうして薄らと頬を薔薇色に染め上げて僕の口元に向けられた視線を見て、僕もようやく自分が何をしたのか自覚した。
カーッと耳元まで熱が灯る。ぼ、僕、今ミラに……。恐る恐る視線を上げなおせば、頬を染めたミラの視線とぶつかる。僕だけじゃなくて、ミラも照れているんだ…………って、え? ミラも?
「ミ、ミラ?」
「な、なんだ。ジュード」
「ミラも照れて……?」
「私もよく分からないのだ。きみがケチャップを食べるのを見て……その、胸がモヤモヤとするというか、何と言ったらいいか……」
ああ、もう、これはいったい何なのだ。モゴモゴと煮え切らない口調でミラが言葉尻をすぼめていく。
落ち着かなさそうに体を揺するミラの仕草に、胸を鷲掴みにされたような感覚に陥った。駄目だ、ミラ、可愛すぎ。
「じゅ、ジュードっ」
少しだけ慌てたようなミラの声がすぐ傍で聞こえる。
だけど、知るもんか。だってミラが可愛いのがいけない。こんな風に不意打ちで、こんな風に僕の知らない表情を出してくるミラが悪い。
堪えきれずにぎゅうっと抱きしめた体は、信じられないことにすっぽりと僕の腕の中に収まっていた。一年前、焦がれて焦がれて、ずっと後を追いかけてきた背中がこんなにも小さなものだったなんて。それに信じられないような思いをしながら、抱きしめたミラを見下ろせば、彼女の頬はさっき以上に紅く染まっていた。
「ミラ、可愛い」
思わず零れ落ちた吐息に、ミラがぴくんと小さく跳ねた。腕の中にいるからこそ、ミラの何気ない仕草一つ一つが手の取るように分かる。恨みがましそうな瞳で、こちらを見つめてくる視線だって。
「……君はずるい」
「どうして?」
「私ばかりが動揺しているように思える」
「そんなことないよ。……ほら、僕の胸だってドキドキしてる」
「本当に?」
「僕がミラに嘘言うわけないでしょ」
「……それもそうだ」
ことり、とミラの頭が僕の胸の上に落ちる。そうして暫くの間、胸に耳を当てていたミラが、嬉しそうにぽつりと呟いた。
「本当だ。ドキドキ言っている」
「うん。ドキドキしてる」
顔を見合わせれば、こそばゆい様な、そんな不思議な感情が湧きあがってくる。そしてそれは多分、ミラもおんなじだ。
「君に抱きしめられると落ち着かない。……だけど不思議な安らぎがある」
細い腕が、背中に回される感触。そうして体重を預けてきたこの可愛い生き物は一体なんなのだろう。胸を撃ち抜かれるような感覚は、瞬間的に衝動に替わった。思わずミラの肩を抱いて、不思議そうに揺れるルビーの瞳を真正面から見定める。狙いを定めた唇は、桜色に色づいていて触れたらきっと柔らかいんだろうなと思った。
「ジュード……?」
不思議そうなミラの表情が、ちくりと罪悪感を刺した。でも、ここで引き下がるのは男が廃る。そう自分に言い聞かせて、ミラの瞳を真正面から見た。
きっと今、僕の頬は熟れたトマトみたいなことになっているんだろう。そんなことを頭の隅っこでぼんやりと思いながら、確かめるようにしてミラの名前を呼ぶ。
「ミラ……」
「……ジュード?」
不思議そうな声を出すミラの唇を僕のそれでゆっくりと塞いでいく。驚いたように丸まった、ルビーの瞳がすぐ傍にあった。ずるいことをしたという罪悪感が胸を刺したけれど、それは、ミラの閉じられた瞳によって吹き飛んでしまった。
ただ触れるだけのキスが名残を惜しむかのように離れていく。そうしてミラへと視線を絡めれば、煌めくルビーの瞳と交差する。ミラは、こんな時でも真っ直ぐに僕を見ていた。
それを自覚した瞬間、吹き飛んでいた罪悪感が勢いを増して僕の肩に伸し掛かかってくる。え、あ、うぁ……ぼ、僕は今、一体何を……っ!
「ご、ごめんっ! ミラっ!」
「……何を謝っているのだ、ジュード」
「だって、ミラに僕……っ…もしかして嫌だったり……」
ミラの顔を見ていられない。思わずしゅんと項垂れた僕の顎に添えられた手のひらがあった。
「私が君のすることが嫌なわけがないだろう?」
キリリとしたミラの視線を真正面から受けて、胸がきゅんと音を立てたのが分かった。
「これが『口付け』というものなのだな。本では見たが、実際にするのは初めてだ」
そう言ってミラはソファの上に伏せてある本に視線を向ける。片手で胸に手を抑えながら、ミラは噛み締めるように呟いた。
「不思議なものだ。……この高揚感。ただ、唇と唇を重ねあわす行為だと言うのに、私の胸は張り裂けそうなくらい脈打っているよ」
「そ、そんな実況はしなくてもいいから……」
あまりにも具体的に言葉にするミラに、思わずジュードの方が赤面してしまう。
でも、本当に良かった。キスをしたことが嫌だったわけじゃなくて、どうやら照れているらしいという事実は、ジュードの胸に確かな安堵を与えた。
「では次は、『深い口付け』というのを試してみよう」
「………………えっ?」
ほっと胸をなで下ろしたのも束の間、ミラの口から思わぬ単語が飛び出してきたような気がして、ジュードは思わず表情を強ばらせた。
「み、ミラ……?」
「本に書いてあったぞ。『口づけ』の次は『深い口付け』。そして、身体への接触。お互いのせいしょ「うわああああああああああああああ!!!?ちょっとミラ何言ってるの!!!!????」
「人間とはそのようにして、愛する者と子を成すのだろう?また、子を成すことが目的でなくとも、互いの愛情を確かめ合う行為だとも知ったぞ」
さらに真っ赤になるジュードとは対照的にミラの方はケロリとした表情で、重大なことを言ってのける。その言葉の中に愛する者だとかなんだとか混じっていることに、余計にクラクラとしながら、ジュードは煮えたぎる思考の中で必死に思考した。
「み、ミラ。さっき読んでた本ってもしかして……」
「うむ。写本であるが、昨日ようやく古本屋で見つけたのだ。『男と女の夜の駆け引き〜飛翔編〜』だ!」
今まで薄らとしか理解できていなかった男と女の情事が、細部に至るところまで綿密に書き記されていて、非常に興味深かった。とかなんとか言っちゃっているミラの言葉に、ジュードの方はと言えば、やっぱり……!という思いが広がっていく。ミラが突然、男女のまぐわいについて語りだすなんておかしいと思ったのだ。
「さあ、ジュード」
ずずい、と身を乗り出したミラにじりじりとジュードが後ずさる。とは言え、まさかこんな事態になろうとは思ってもみていなかったので、部屋のベッドに足を取られ仰向けに倒れ込んでしまった。そんなジュードの逃げ道を塞ぐかのように、ミラの両腕がベッドの上に立てられる。
「ちょ、ちょっと待って、ミラ。僕たち今キスしたばかりだよね? またステップ的には一つ階段登ったくらいだよね?」
「君となら一足飛びで階段を駆け登ろう」
「そ、それは嬉しいけど。あのねミラ、こういうことには心の準備というものが……」
あれ、これって普通逆なんじゃない?
眼前に迫る、というかもう完全に押し倒されている状況になっているジュードは、モゴモゴとした言い訳めいた口調で抵抗した。
「私とでは嫌か……?」
抵抗するジュードを目にして、目の前のミラがしゅんと項垂れる。ハの字に変わってしまった眉根と寂しそうな表情に、ジュードは反射的に声を荒げた。
「そんなことないよっ!」
「ジュード?」
「ぼ、僕だってミラとそういうことしたいって思って……うわぁ!?」
瞬間、首元に回されてきた腕に、ジュードは驚きの声を上げる。ミラがジュードの体に抱きついてきたのだ。
「嬉しいぞ」
分かりやすいくらいにミラのチャームポイントが揺れていた。寂しそうにしたり、嬉しそうにしたり、本当にミラは目まぐるしく表情を変える。それは僕の前だからだなんて自惚れてもいいのだろうか?
「……仕方ないなぁ」
これも結局のところ、惚れた欲目というやつなんだろう。
「幸いにして、今日は皆帰ってくるのが遅い予定だ。君と密事を行う条件としては申し分ない」
そうしてにっこりと微笑んだミラは、至近距離まで顔を近づけて言った。
「好きだよ、ジュード」
……こういう殺し文句を不意打ちで投げつけるから、彼女は油断できないのだ。





13.05.07執筆