「ただい……「おぎゃー!!!」
火が付いたような泣き声とは、まさにこのことか。思わずそう言いたくなるほど大きな赤子の泣き声が、久方ぶりにル・ロンドに帰省したジュードの声を遮って響き渡った。
ぱちくりと瞳を瞬かせたのはジュードだ。そして、その隣に立っていたミラも。
「どうしたの、母さん?」
「ああ、お帰りなさいジュード。今ちょっと手が離せられなくて……」
よしよしと、赤子を抱きなおすエリンの仕草は堂に入っている。流石一児の母と言ったところか。泣き出した赤子はエリンの腕に抱かれ、やがて落ち着きを取り戻してきたのか静かになった。
「ほう、見事なものだな」
皺くちゃの猿みたいな顔で泣き出していたのに、赤子の表情はまるで変っていた。ふっくらとした愛らしい頬は満面の笑みを表現している。きゃあきゃあと声にならない歓声を上げて、何が楽しいのかよく分からないが、楽しそうに笑っていた。
「今のは単に構って欲しかっただけみたい。赤ちゃんは泣くか笑うかで意思表示をするから、何をしてあげたらいいのか探ってあげるのが難しいわね」
「謙遜するな。今の手並みは素晴らしいものだった」
「ありがとう。昔はジュードもよく泣いていたから」
ふふふ、と腕の中の赤子を抱えてエリンが微笑む。どこか懐かしいものを見るような眼差しでエリンはジュードを見つめた。
「……そう、だったかな」
ばつが悪そうなのはジュードの方だ。本人の記憶にないことを伝えられるということは、どうやら気恥ずかしいものらしい。落ち着かないように体を揺らし始めたジュードに、ミラは小さく微笑んだ。
「ええ、よく泣いていたわ。……本当に、あなたが小さな時は色んなことが重なってハラハラしたものだった」
遠い所を見るような眼差しで、エリンは小さく微笑む。その言葉の中には、これまでの長い道のりが詰まっているのだろう。しみじみとしたエリンの横顔に奇妙な居た堪れなさを感じたジュードは、慌てて赤子への疑問を投げかけることにした。
「そう言えば、母さん。どうして赤ちゃんがウチに?」
「預かってほしいって言われたの。今回の診察は時間がかかりそうだから」
「そうだったんだ」
「ええ。でも、最初は泣き止まなくって大変だったわ」
「やはり、抱く人が変わると泣き出すものなのか」
「勿論。赤ちゃんだって人を見ているのよ。やっぱりお母さんの傍が一番安心するんでしょうね」
「そういうものか」
「そういうもの。貴方もいずれ母になれば分かるわ」
微笑んで、エリンは背の高いミラを見上げた。そんな母親の意味深な言葉に、告げられた張本人であるミラよりもジュードの方が真っ赤になる。
「か、母さんっ」
耳まで赤く染まった息子の初々しい反応に、エリンはコロコロと笑って赤子をミラに差し出した。
「貴方も抱っこしてみるといいわ」
「私が?」
「そう。今なら、この子もご機嫌みたいだから」
「赤子を抱くのは久しぶりだ。正しく抱けるだろうか?」
「あら、抱いたことがあったのね。ならきっと大丈夫よ」
「とは言っても、抱いたのは6歳の時だ。あれから随分と時間が経った」
「大丈夫。この子は首が座ってるから……そう、首の下とお尻の方に手を添えて。優しく、よ」
エリンから赤ん坊を受け取ったミラが、恐る恐る手を回す。おっかなびっくりなその手つきに、赤子は敏感に反応した。目じりにじわじわと涙が溜まっていく。
「おぎゃー!おぎゃー!おぎゃー!」
途端、火が付いたような甲高い泣き声が診療所に響き渡った。それにすっかり慌ててしまったのはミラの方だ。手にした赤子を落とさないようなんとか持ち直し、必死で赤子を宥めようと小さく揺らす。困惑したようなルビーの瞳が、すぐ隣に立っていたジュードに向けられた。とは言っても、ジュードの方だって赤ん坊に触れる経験なんてそう滅多にない。ミラ以上におろおろと赤子を眺めるジュードに、エリンは苦笑を漏らした。
「最初は誰だってそうなるわ。落ち着いて、ちゃんと赤ちゃんを抱いてあげて。赤ちゃんは貴方の不安をちゃんと見ているのよ」
エリンのその一言に、ミラははっとしたように顔を上げた。そうしてもう一度赤子をしっかりと持ち直すと、今度は優しくその体を揺らしてやる。やがて赤ん坊はミラの腕の中に心地よさを見出したのか、涙を止めて小さく笑い始めた。
柔らかく細められた眼差しと、腕の中で笑い声をあげる小さな命。目の前の優しい光景に、思わずジュードは目を奪われていた。……まるで、ミラが赤ちゃんのお母さんになったみたいな。なんだか眩しいものを見てるみたいだ。
「不思議なものね」
その言葉は自分に向けられたものだと気が付いて、今更ながらにジュードはエリンがここにいたことを思い出した。ミラに見とれてすっかり忘れていただなんてこと、恥ずかしくてとても言えたものじゃない。
「ついこの前まであんなに小さかったジュードが、もう大人になっているんだもの」
微笑んで、エリンがジュードを見つめる。その言葉の中に隠された思いをようやく理解することが出来るようになり始めたジュードは、どう返事を返したらいいのかまだ答えを見つけることが出来ないでいた。
「エリンさん!」
困惑顔のジュードが返事を返すより先に、診療所の入り口からエリンを呼ぶ声が聞こえた。
「おっさんがまたギックリ再発した!ちいっとばかし見てやってくんねーか!」
その声と共に、すぐ傍にあった母は看護師の顔つきへと変わる。立ち上がったエリンの背中を見つめて、ジュードは小さく微笑んだ。
「いってらっしゃい、母さん」
振り返ったエリンもまた、大人びた表情を見せるようになったジュードを前に微笑んで言った。
「赤ちゃんを頼むわ」
「うん」
診療所の扉を潜り抜けていった背中が消えるのを見届けてから、ジュードは後ろを振り返った。赤子はまだミラの腕の中にいるはずだ。託されたからには、きちんと責任を持って面倒を見なければならない。
「ってミラああああ!!?」
大真面目に振り返ったところで、まさかミラが衣服を肌蹴させようとしていただなんて思う訳がない。襟元を乱したミラが不思議そうに見上げていることにクラクラしながらも、なんとか腕を伸ばしたジュードは、ミラの襟元を正した。
「ちょ、ちょちょちょ、ちょっとこんなところで一体何を……!?」
「いや、この子が腹を空かせたのではないかなと思ってな。今の私なら乳の一つでも出るかと……」
「出ないからね!?産後の女性しか母乳は出ないからね!!?」
「むう、そういうものか。……あの頃とは違って出るかと思ったのだが」
「あの頃って何さ!?っていうか余所でやったの!!?」
「ああ。6歳の時に、乳が出ないかと思って預かった赤子に吸わせてみたのだ」
6歳の頃と同じ行動をしようとしたミラに絶句しながら、ジュードはもう一度しっかりとミラの襟元を閉じた。耳の先まで茹で蛸のように真っ赤になったのはご愛嬌だ。
「…………ミラに赤ちゃんが出来ても、絶対人前でこんなことしちゃダメだからね」
「? そうなのか?」
「……他の人にミラのおっぱい見せるのはやだ」
「そういうものか?」
「そういうものなんです」
真っ赤になったまま、真正面からルビーの瞳を見つめる。ミラの方はというと複雑なオトコゴコロを理解することは難しかったのか、よく分からないなりにこっくりと頷いていた。ジュードが言うならそういうことなのだろう。零すようにそう呟いて、それから腕の中の赤子へと視線を下した。
「不思議なものだな」
「? どうしたの、ミラ」
「いや、精霊の誕生を見守ってきていたはずなのに、幼い人間はまた違うのだなと思ったのだ」
「どう違うの?」
「人間の赤子は食事も排泄も身を清めることも必要なのに、何一つ自らの力で行うことが出来ない」
腕の中できゃあきゃあと笑う丸い頬を見つめて、ミラは言う。
「すぐに泣く。かと思えば笑う。こんなに手間がかかるというのに、愛らしい。不思議な生き物だ」
その瞳に柔らかい光が宿っていることに、ジュードもまた微笑みながら言葉の続きを待った。
「本当に、不思議な生き物だ」
ミラの服を引っ張る小さな手のひらの力は、思っていたよりもずっと強い。赤子は赤子なりにこの手を放すと自ら生きていく術を失ってしまうということを、本能的に理解しているのかもしれない。そう考えば、なおさらミラにとってこの目の前の生き物は不思議なものに思えた。
「ミラは、赤ちゃん欲しいと思う?」
「どうだろう。精霊である私が、人間と同じプロセスで出産できのかどうか分からない」
「……そっか」
「すまない。私はまた君の気持に添えない言葉を言ってしまった」
「ううん、いいんだ」
首を振ってジュードは小さく微笑む。気遣ってくれてはいるものの、明らかに気落ちしている様子のジュードにミラは眉根を下げて……それから思い出したように言葉を続けた。
「欲しいか、欲しくないかと言われれば、欲しいと思うよ」
「え?」
「先ほどの問いかけの返事だ。きちんと言えていなかったのでな」
「ミラ……」
驚いたような真ん丸な琥珀の瞳を見つめて、ミラは微笑む。
「勿論、君との子だ」
それがどれほどの殺し文句なのか理解しているのだろうか? 真っ赤になったジュードを蕩けそうなくらい柔らかい眼差しでミラは見つめる。やがて、互いに耳を赤く染めた二人は、見つめ合ったまま小さく笑い合った。
どんな未来が待っているかはまだ分からないけれど、お互いがお互いの事を大切にしたいと思っている。……きっと、それだけは変わることのない真実だ。それさえあれば、今はいい。離れていても、気持ちは通じあっていると信じていられるから。
絡み合った二つの視線が熱っぽさを帯びる。至近距離で見つめ合う眼差しは、惹かれあうかのように近づいて――――…
「おぎゃー!!!」
まるで妨害するかのように上げられた赤子の泣き声に、ジュードとミラはぱちぱちと瞬きをした。慌ててミラは泣き出した赤子の背中をさすり、ジュードは顔を覗き込む。随分苦労をして赤子を宥めれば、二人はすっかり疲れ果ててしまった。
ミラは赤子を抱いたまま、ジュードもまたぐったりと壁に背中を預けて座り込んで、二人で大きなため息を吐く。
「なんか邪魔された気がする……」
げっそりと言うジュードの言葉には恨めしいものが滲んでいる。らしからぬその声音にミラが顔を向ければ、唇を尖らせて拗ねたような表情のジュードがそこにいた。
「ジュード?」
「ミラとの赤ちゃん、僕だって欲しいとは思うけど……」
ミラの腕の中に居座っている赤子は、我が物顔ですうすうと安らかな寝息を立てている。それに恨めしそうな眼差しを向けながら、ジュードはミラを見上げて言った。

「当分はミラのこと、独占していたいな」





13.04.07執筆