この小説は、『時函-Time Capsule-』のBADエンド『囚われ』をモチーフにしています。
本編の世界観をご存じない方、また、BADエンド未読の方はネタバレを多量に含みますのでご注意ください。






























それはまだ、視覚や嗅覚といった五感すべてが正常に機能していて、日常と呼ばれるものが僕の中で光り輝いていた時のことだ。

その日、小夜ちゃんはそれは見事な蝶を捕まえた。
淑女のドレスのように黒く艶やかな胴を持ち、翅は光を透かした万華鏡のよう。
――――ジャコウアゲハだ。
以前読んだ、図鑑のページが瞬間的に頭の中でヒットする。記憶を検索することはこの頃にはもう十分すぎるくらい慣れていて、彼女のために最適解を求めることがただひたすらに誇らしかった。
だから僕は小夜ちゃんが蝶を捕まえた時、その蝶がどんな名前でどんなものを食べて、どのくらいの寿命なのか知っていた。
そう、知っていたはずなのに。
――――トモくん、トモくん。私、このちょうちょお父さんに見せてあげたい!
次の日、ジャコウアゲハは虫籠の中で死んでしまった。
閉じ込められて、手折った花の蜜では生きていられなくて。抜け出せない檻の中に閉じ込められたまま、翅を封じられて息絶えた。
――――ごめんね。ごめんね。ごめんね。私がお父さんに見せてあげたいなんて言わなかったら良かったのに。ごめんね。
その頃の僕は知識があっても経験が追い付いていなくて、蝶は虫籠の中では生きていられないということを想像できなかった。だから、泣き崩れた小夜ちゃんを見て激しく後悔をしたことを覚えている。僕の上っ面の知識だけが全て正しいわけじゃないんだと。軽はずみな言動は逆に身近な人を、小夜ちゃんを泣かせてしまうことになるんだと。
だから、僕はもう二度とジャコウアゲハを出さないと誓った。自分の無知が小夜ちゃんを傷つけることなどあってはならないと胸に刻みつけていた。そんなこと、分かり切っていた。



「小夜ちゃんに指一本でも触れてみろ、僕が殺してやる、父殺しの被害者として三面記事で切り刻まれろ、この恥知らず!母さんに悪いと思わないのか!」
強烈な赤いシグナルがちかちかと脳裏に映り出ては消えてゆく。
熱い。
吐き気がする。
気持ち悪い。
頭がガンガンする。
苦しい。
今すぐこの胸を掻き毟って、脈打つ心臓を取り出せたならこの痛みを誰かに伝えることが出来るのだろうか。
いや、僕の心臓を抉り出したってどうにもならない。ああ、小夜ちゃん小夜ちゃん小夜ちゃん小夜ちゃん………!!!
電話に内蔵されたスピーカーから伝わる電子音の中に混じって、天使のように清らかで愛くるしい声が聞こえる。ああ、その声を……小夜ちゃんの肉声をこの体で耳にすることが出来る日をどれほど乞い願い続けたか。
確かに僕は彼女がこの世界で蘇ることを望んでいた。――――けれどそれは、決してあの甘く心地よい音色を恐怖で震わせるはずではなかったのだ。
「ふ、彼女の身の安全は保障すると言っていうだろう。お前たちが妙な動きを見せず、こちらの言うとおりに動いている限りは、な」
顔を見なくても、あの男が嫌味な顔を歪めて嘲笑ってるのが分かる。……くそっ……!!あくまで平静なトーンを保つ声音に潜んだ愉悦に、激しい罵声が迸りそうになる。
「さて、そろそろ切るぞ。お前たちが喚くせいで、小夜音ちゃんが怯えている。また後ほど、連絡する」
髪を振り乱した倉敷博士が、電話を握り締めて吼えた。
「待て、真神!」
「父さん!」
真神知則という男は自分の利になるものはほどほどに甘く、それ以外には容赦のない男だと認識していた。そして僕は今更ながらにその認識が正しかったのだと思い知る。
あくまで利己的で自己中心的な思考回路。無常にも受話器の先から流れる機械音が、僕の何もかもを虚空にさせたあの空白の時間を思い起こさせる。
あの男は旧知の友と自らの息子を絶望に陥れることに何の躊躇もなかったのだ。それも、自分の狂った研究などのために。
遺伝子を弄ぼうが、人の素材を作り出そうが、人道的にはどうなのだろうということももはや僕にとっては関係ない。……そうだ。小夜ちゃんさえ無事でいれば、それだけで良かった。彼女と再び出会えた奇跡を体感できた今、僕が願うのは彼女が平穏無事にささやかな日常を享受できることだったのだ。
そしてそれは、小夜ちゃんにとっては当然の権利であったはずなのだ。
大王に巻き込まれた犠牲者として……1999年のあの日、小夜ちゃんは亡くなった。
その彼女がこれ以上理不尽な目に遭うことなどあるはずがない。例えバーチャルの世界の中であったとしても、再び生を許された彼女の居場所には日の光が射し、学友に囲まれ、ごくごくありふれた光景が広がっているべきだったのだ。
それを。
その小夜ちゃんが持つべき当然の権利を、あの男は私利私欲のために踏み躙った。
今までの実験のデータ上、バーチャルという危険を排除された世界の中で生きてきた『人間』は、大王が光臨した後の世界を受け入れることが出来ず、精神的に病んでいった。何の覚悟もないまま外の住人の都合で時函から取り出されても、心が付いていかなかったのだ。
だから、小夜ちゃんを外の世界に連れ出すための計画は慎重に慎重を重ねた。……小夜ちゃんが時函の世界にとどまる選択肢を残しながら、かつ自発的に決断を促す方法で実行されるはずだった。
それも、全部台無しだ。
計画が頓挫することはまだいい。……何の心の準備の出来ていない小夜ちゃんが、すでに外の世界へ連れ出されてしまったことが問題なのだ。
穏やかに流れていた世界が、ある日唐突に紛い物だと突きつけられて正気を保っていられるのか。
……その答えはノーだ。人は、そんなにも心が強くない。
「………小夜音……小夜音……っ」
先ほど電話口で吼えた人物とは思えないほど憔悴しきった様子で、倉敷博士はずるずると壁に背を当てたままへたり込んだ。
小夜ちゃんはすでに父さんの――――もう、アイツを父と呼ぶことすらおぞましい。あの真神知則という、研究に狂った男の手に落ちた。根回しのいいあの男のことだ。この案件に警察といった国家公務員の介入の余地がないことを十分に知りながら、すでにあらゆる手を打っていることだろう。
それは、嫌だというほど知則という男を知っている僕と倉敷博士を打ちのめさせた。
「立ってください、倉敷博士」
でも、それでも。
何もしないうちからこんなところでへたり込んでしまうなんて、僕は許さない。
この世界の中で小夜ちゃんが緩やかに病んでいくことを、ただ指を咥えて見ているだけなんて、絶対にしない。
あの絶望を塗り固めたような世界の中で、それでも僕が生き永らえることが出来たのは、間違いなく小夜ちゃんのお陰だったのだから。
その上おぞましいことに、電話口であの男は小夜ちゃんの瑞々しい裸体を前にほくそ笑んでいたと言うのだ。
汚らわしい。
研究の過程上仕方がないことだったとはいえ、目を覚ました彼女の前で、そんなこと。
許せない。吐き気がする。だが、もし万が一。あってはならないことだけれども、あの男が小夜ちゃんに手を出すことがあったとしたら――――…
諦めない。
必ず取り返す。
あの時、1999年の夏。小夜ちゃんが僕の命を救ってくれた日と同じように、僕が小夜ちゃんのために動かなければならない。
「真神知則のところへ行きましょう」
「………あの部屋が、緊急時には幾重にも厳重なセキュリティがかかることを知った上で?」
「それでも、僕たちが入り込む余地はあるはずです」
この『楽園』に進入することだって不可能だと言われていた。それでも僕は侵入できた。無茶と無謀が隣り合わせだったとしても、僕には成すべきことがあった。
「――――小夜ちゃん」
もう何度も反芻した言葉。単語。ただの記号の羅列。それでも、その言葉は彼女を構成するモノの一つだと認識さえすれば、酷く愛おしかった。胸を締め付けるような痛みと共に、彼女の陽だまりのような暖かさを思い出さずにはいられなかった。
小夜ちゃん。
小夜ちゃん。
………ああ、どうか、君だけは無事で。



――――声が、聞こえたような気がした。
祈るような、誰かの声。
……そんなわけないわよね。だって、こんな所で声が聞こえるはずなんてないもの。
この場所に閉じ込められるようになってから、どのくらいの時間が流れたのだろう。一週間?一ヶ月?それとももっと?……本当は大して時間なんて流れていないのかもしれない。それでも、私にとってはそれほどまでに長く感じる時間であったことには違いない。
先生のこと、信じていた。
信じて、信じられているつもりになっていた。
でもそんな私の気持ちは、先生に届いていなかった。それはこの場所で閉じ込められるようになってから、嫌と言うほど分かったわ。
ここで目が覚めた、あの時あの瞬間。真っ先に逃げなきゃと感じた直感は外れていなかった。這ってでもあの時逃げるべきだったんだわ。
………結局囚われたままの私は、ここから抜け出せずにいる。
別に変な薬を飲まされているだとか、拘束されているとか、そんなことになっているわけじゃない。扉は開かないけれども、あくまで私のこの状態は軟禁状態なんだろう。ようやく動かせるようになった体は、チューブから離れ、食事だって自由にこなすことが出来るようになった。
「本日はもうお目覚めかな」
「真神、先生……」
この部屋には、二人の先生と、それから一人の女の人しかやって来ない。二人の先生と言うのは三浦先生と、真神先生。それから生理用品とか、女性にしか話せないものを手配してくれたり、手伝ってくれる佳子さん。
ヒコの家のお手伝いさんがどうしてこんなところにいるのか、最初よく分からなかった。……真神先生が言うには利害関係の一致らしい。佳子さんはいつも黙々と仕事をこなすと、すぐに帰ってしまうのであまり打ち解けてはいない。……プリテンダーのお仕事の傍らで、私のお世話をすることになったからだそうだ。
佳子さんと真神先生の利害関係って?
そもそもどうして夏だったはずなのに、部屋の空調は暖房なの?
なんでお父さんと朋くんと対立しているの?
ここはどこなの?
プリテンダーって何なの?
――――この世界って一体なんのなよ!?
その問題には、真神先生と時折やってくる佳子さんが少しずつ回答を与えてくれた。
そうして私は、今、ここでこうして座っている。
「一応時間だからね。今日の診察を始めるよ」
カルテを片手に、相変わらず白衣姿の真神先生が私の傍まで歩み寄ってくる。ただ、今日はいつもと少し装いが違っていた。いつもならネクタイはキッチリとしていて、綺麗にアイロンのかかった白衣を着こなしている真神先生なのに、今日の装いはくたびれている。
思わずどうしたんですかと訊ねると、真神先生はにやりと口角を上げて答えてくれた。
「早朝に倉敷と朋来から攻撃を受けてね。朝っぱらから元気なやつらだよ。朋来はともかく、倉敷はもういい年だろうに」
「………っ…」
お父さん。トモくん。
思わず零してしまいそうになる言葉を、なんとか飲み込んだ。初めてこの世界で目が覚めた時に聞いた電話通りに、二人は私を救ってくれようと一生懸命なんだわ。
「ほら、お腹出して。外の環境に馴染めるように培養槽で出来る限りのことは施したが、何かあっては困るからな。君は、大切な人質なのだから」
こんな人のいうことなんて聞きたくなかった。
それでも、私がこの世界で生きていられるのはこの人のお陰なんだわ。例え、こっちの世界へ無理矢理つれてこられたとしても。
素直にシャツをめくってお腹を見せた。抵抗すると、結局恥ずかしい目に遭うのは自分なんだと言うことに気が付いてから、抵抗らしい抵抗をしなくなっていったような気がする。
お腹の上、それから肋骨の辺り。骨ばった大きな手のひらが、肌の上を滑る感覚は真神先生がお医者さんなんだと分かっていても慣れなくて。
先生の手の甲が下着に包まれた乳房を掠めた。元々体に不釣合いなくらい大きく育ってしまった胸だ。肋骨周りを触診しようとすると、手が触れてしまうのは仕方がない。あくまで事務的に、背中を向けてと告げると、先生はいつものようにてきぱきと診察を進めていった。
そうして油断をしていたりすると、突然びくりと体に電流を流したような感覚が走った。
「……っ…」
指の腹がほんの少し背中を撫でた。ただ、それだけのことのはず。
そうだというのにどこか性的なものを感じさせる指の動きは、よく分からないもやもやとしたものを私の胸に落としてゆく。
愛撫にも満たない愛撫。事務的な触れ合いの中に、時折混ぜられる戯れのような指の動き。
それは言葉にしなくとも、確実にじわじわと私を絡め取り始めていた。――――そんなわけない。そう思うことこそ、先生の罠なんだわ。
考えれば考えるほど泥沼のような世界の中に足を取られてしまい、動けなくなってしまう。
この場所で日々を過ごすようになってから、今まで当たり前であったことがどれほど大切なものだったのか今更ながらに思い知る。
椿さんと一緒に過ごした学生生活。
そこには雄大がいて、ヒコがいて。時々トモくんも一緒になったりしたっけ。
三浦先生が数学の問題を出してくれて、由利さんとまりぃ部長と冬香ちゃんと春香ちゃんと、皆で問題を解きっこしたりしたわ。
そんなごくごく当たり前に感じていた、日々の生活。私の中にあった時間。それは砂時計みたいに滑り落ちていって、もう私の手のひらの中には残っていないだなんて、どうして信じられるの?
信じたくない。
信じれるわけなんてない。
私の、私であった時の時間を――――お願いだから返して。
格子の嵌められた窓を見上げると、黒い何かがひらひらと飛んでいた。
あれは………蝶?
あんなに外は寒そうなのに、優雅にひらひらと舞う姿に惹きつけられてしまう。

むかしむかし。
随分と小さな頃にジャコウアゲハを捕まえたことがあった。
お父さんに見せたくて、私はジャコウアゲハを籠の中に閉じ込めた。
それなのに今は、こんな所で日々を過ごす私を嘲笑うかのように、蝶は窓の向こうで羽ばたいている。まるで籠の中に閉じ込められているのはこちらであるかのように。

「…………ちょうちょだわ」
「?……どうしたんだい、小夜音ちゃん」
「いいえ。ただ、蝶を見ていただけ」
そう。例えて言うなら今の私は籠の中に閉じ込められた、ちっぽけな人間。籠の中の人。
先生に助けてもらわなければ生きていくことすらままならない。こんな私が、どうして外の世界へ飛び出していけるの?
ふわり、ふわりと蝶は飛ぶ。
――――私は、あの蝶の様にはなれない。










トルルルルルルル。

トルルルルルルル。


一件、メッセージヲ着信シマシタ。再生シマス。










「――――もしもし、倉敷か?いい加減条件を飲んだらどうだ。小夜音ちゃんは現実を受け入れられずに、幻覚症状を引き起こし始めたぞ」










10.10.18執筆
10.10.18UP