ばちゃばちゃと、情緒もへったくれもない音を立てて雨樋の水が流れてゆく音が聞こえる。軒下の安全地帯すら突き抜けて、飛沫は容赦なく窓ガラスを叩き続けていた。独特の湿った空気が締め切られた室内にも漂ってきているような気がする。すんすんと鼻を鳴らした魔理沙は目の前の魔法使いを見て、窓の外の光景を見て、それからもう一度魔法使いへと視線を戻すとがっくりと大きなため息を吐いた。
「あ〜……こりゃないぜ……」
「ご愁傷様。日頃の行いが悪すぎるせいね」
「私ほど清く正しく生活している人間はそうはいないぜ」
「あなたでそうなら、世の中の人間のほとんどが聖人君子のようなものになってしまうわ」
「照れるぜ」
「褒めてないわ」
あくまで真顔に魔理沙の言葉を否定した魔法使い――――ついでに言うとこの家の主でもあるアリスは、魔理沙の手に握られていた皮袋に手を伸ばして難なく奪還を成功させた。
「あら、抵抗しないのね」
「この粉末は水分に滅法弱いからな。さっきまでの曇り空のままなら話は別だが、今じゃ持って逃げてもただの濡れ鼠になるだけさ」
そう恨めしげに声を漏らして、窓の外を睨み付ける魔理沙。
「それより先に、泥棒行為を流さないで欲しいわね」
「いつものことなんだぜ?そこは諦めるしかないだろう」
「それはあなたの言うべき台詞ではないと思うわ……」
こうも開き直られるといっそ清々しいが、問題は全く解決の兆しが見えてこない。問い質すべき立場である筈のアリスの方が頭を痛くするという事態をスルーして、魔理沙はキッチンのイスを引っ張り寄せると大仰に足を組んでみせた。
「粉末も持っていけなければ、ついでにこの大雨で魔理沙さんも帰れないわけだ。そんなわけで今日はここに泊まっていくぜ!」
「はあ!!?」



【 side A 】

「まったく……」
魔理沙はいつもやることに突拍子がなくて、こちらの都合なんてお構いなしだ。振り回すだけ振り回しておいて、気が付いた時にはもういないだなんてことだって度々ある。確かに妖怪や魔法使いに比べると人間という種族の一生なんて短いものだから、魔理沙はこうも限られた時間の中であちこち飛び回ろうとするのだろう。人間は私たちにとって信じられないような速度で成長し、老いて、死ぬ。まるで花火みたい、いつかそう言った時、いいじゃないか花火。私は好きだぜ。そう言って笑った魔理沙の表情こそ花火みたいに鮮やかで、ひどく眩しく見えたのを覚えている。
要は私はこんなに堂々と他人の家に押し入り、泥棒を重ねる魔法の森に住んでいる魔法使いをどこか憎めないでいるのだ。多分それは、あけすけに物を言う魔理沙の性格によるところが大きい。
「――――しっかり食べて寝る気だし」
「あーお腹いっぱいだぜ。やっぱりアリスの料理は美味いなぁ」
「褒めたってもう何もでないわよ」
「これ以上出されてもお腹に入らないぜ。それにアリスの料理が美味いのは本当のことだぜ?」
「まったく……調子が良いんだから」
口では相変わらず憎まれ口を叩いてしまうけれども、自分の腕前を褒められて気分を悪くする人はいないだろう。賛辞の追撃に思わず緩るんだ表情を魔理沙に見せるのが何となく悔しくて、窓の方角へと顔を背ける。
木枠に囲われた窓の外の風景は、すでに墨を落としたような闇に包まれており、依然止むことを知らぬ雨だけが音を立てて森の中へと吸い込まれてゆく。焦げ付くような日差しのこの季節、激しい雨が降ることは多々あるが、こうも長い間降り続けるのは珍しいことだった。
「こりゃ今晩はずっとこんな感じだろうな」
「雨が降りそうなのは分かってたんだから、わざわざ家を空けることもなかったでしょうに」
「思い立ったが吉日って言うじゃないか。それに降る前には帰るつもりだったんだぜ」
食べ終わった食事の後片付けに、上海人形が台所へ食器を運ぶ音が室内に小気味の良いリズムを生み出す。窓の外を見上げることに満足したのか、魔理沙も上海に習って使い終わった食器をテーブルの上でまとめ始めた。流石に上海の手よりも幾分大きいこともあってか、かなり手際よく食器がまとまる。
「あら、珍しい」
「食べたものはすぐに片付けるに限る」
ああやって、まとめた食器を両手で持ち上げて台所の方へ歩き出す。後を追うように残りの食器はアリスが手に取り、結局上海は手持ち無沙汰になって困ったようにうろうろと旋回を始めた。
「お疲れ様。今日は私がやるからいいわ。休んでいても大丈夫よ」
「シャンハーイ」
アリスの言葉を聞き遂げた上海はぴしりと敬礼のようなポーズを取ると彼女の寝床へ―――つまり、人形達が収納されている戸棚の方へ飛んでいった。
「それにしても魔理沙がそんなことを言うなんて、明日は雹でも降ってくるのかしら」
「私だって片付ける時は片付けるんだぜ。特に生ゴミ」
「………ああ。要は出たのね、黒光りする奴が……」
「うううう……!!思い出させるな……思い出させるなよ……!思い出すだけでもおぞましい……!!」
流し場に重ねた食器を水に漬け込んだ魔理沙が、濡れた手のひらのまま体を掻き抱いた。どうやら本当に不衛生な生活が奴を呼び込んでしまったらしい。夏場こそ奴らや小バエの活動が活発になる時期だというのに、生ゴミを十分に処理しなかったのは哀れというよりも寧ろ愚かとしか言いようがない。
「馬鹿ねぇ。これに懲りたら片付けをきちんとすることね。ついでに家の中も片付けてくれて、持って行った私の本も見つけてくれるととなおいいわ」
「それとこれとは話が別だぜ」
返す魔理沙の返事は相変わらずの憎まれ口だったけれど、顔色は依然青いままだ。どうやら一人きりで奴と対峙した出来事が相当怖かったようだ。パワーとスピードが売りの幻想郷の実力者でさえも、奴の前では顔色を真っ青にして震え上がるただの乙女になってしまうらしい。もっとも私が魔理沙の立場になったとしたら………ああ、恐ろしすぎて考えたくもない。時に飛翔し、素早く地を駆ける奴が恐ろしいのは何も魔理沙だけではないのだ。
「…………あ」
「何だ、アリス?」
もしかして、魔理沙が土砂降りの前に家に来た本当の理由って。
ガチャガチャといささか騒がしい音を立てながら、魔理沙がお皿に泡立てたスポンジを当てている。どうやらお皿を持ってきた流れで、まとめて洗ってしまうつもりらしい。いつもこんな雑用は人形にやらせてしまうのだけど、今日は本当に珍しく魔理沙が洗ってくれるつもりのようだ。自分の家の台所に大真面目な顔をしてお皿を洗おうとする魔理沙がいるのは新鮮で、だから。
「ううん、何でもないわ」
わざわざ物を盗みに来たと言うカモフラージュまで装って我が家にやってきた魔理沙の動機を、今ここで暴くことはやめてあげようと思った。
魔理沙の手つきは意外にも思ったよりずっと手馴れていて、シンクの中には泡だらけのお皿が一枚、また一枚と積み上げられてゆく。
「じゃあ私はすすぎの方をやろうかしら」
建前は泥棒だったけれど、家で泊まることになった魔理沙は一応……本当に一応客人だ。全てを任すには忍びないし、何よりアリス自身が納得できない。そんなわけで魔理沙の隣に立って、虹色に光る泡に包まれたお皿を水で洗い落としてゆく。手で擦って完全に汚れが落ちたことを確認した後は、ラックに立てかけて自然乾燥。
「〜〜♪〜〜」
見れば、魔理沙の方はいつの間にか洗い物に興が乗ってきたのか鼻歌まで歌いだしている。しかしまあ、あまり上手とはいえない鼻歌だ。本人は楽しそうだから良いけれど。
「おっ、シャボン玉」
恐らくスポンジを握る手のひらに力が篭りすぎたのだろう。ふわりと小さなシャボン玉がいくつか宙を漂い始めたのを、魔理沙は楽しそうに眺めている。―――そして。
「あ、こら!ちょっと!」
「はっはっは!七色シャボン弾幕だー」
「洗剤で遊ばないの!泡だらけになるでしょ!?」
「ほらほら堅いこと言いっこなしだぜ!七色はお前の異名だろ」
「それとこれとは関係ないわっ!」
洗い物はいつの間にかシャボン大会(主に魔理沙の)に姿を変えて、台所を泡だらけにするという珍事態にまで発展してしまった。こんなことになるのであれば、人形に任せてしまった方がよっぽど後始末が楽だったに違いない。
「もう!いい加減に―――」
「おわっ!!?」
「きゃ!!?」
調子に乗った魔理沙がもっとスポンジに水を含ませようと蛇口の向きを変えようとしたしたところで、偶然アリスの指が口の部分に当たってしまった。その結果、力を加えられた水の圧は二人の思わぬ角度で飛び出したと言うわけだった。
「……ああ」
「だから言ったでしょう……」
室内なのに、なぜか水に濡れてびしょびしょになってしまった。思わずジト目で魔理沙を見れば、少し居心地悪そうに鼻の下を掻いている。そしてその手を離した時には――――見事な泡の髭が出来上がっていた。
「………ぷっ…………っく……くくく………あはははははは!」
「は?え?ええ??な…なんなんだぜ……!?」
台所は泡だらけで、おまけに体はびしょ濡れで。魔理沙が来ると本当にいつもの調子を狂わされてばかり。でも、なぜだかそんな時間が嫌じゃない。
相変わらず泡の髭の存在に気が付かず、突然笑い始めたアリスを見ておろおろと左右を見渡す魔理沙が余計に滑稽に見えて、笑いが止まらない。
こんな風に馬鹿みたいに笑うようになったのはいつからだろう。
降りしきる雨の激しさとは裏腹に、アリス邸の中は心地の良い穏やかな空気が広がっていた。



【 side M 】

酷いじゃないか。乙女の顔に髭が生えてるなんて言うなんて。
聞いた時は思わず耳を疑った。それから少しして、アリスの言った言葉の意味は泡のことを指しているのだと気が付く。慌てて泡をふき取ろう手で擦ったら、泡の面積はさらに膨張しやがった。私の両手がすでに泡まみれだったことに気が付いたのは、その後のことである。
なんとか顔の泡を取り除き、超スピードで洗い物を片し終わった後(アリスの奴、まだニヤニヤしながらすすいでやがった)私が所望したのは言わずもがな、風呂である。
水が肌に張り付いてべたべたする。いや、夏場だから多少濡れても風邪を引く心配はあまりなさそうだが、それでもこの状態でいるのはいささか良い状態とは言い難いだろう。
「風呂行きたいぜー」
「あら、私もよ」
「私が先に行かせてもらっても良いよな?オキャクサマ、だし」
「何がお客様よ。泥棒しにきただけのクセに。ここは素直に家主に譲りなさい」
「ケチな家主様だぜ。謙虚な心を持つのは大切なことだぜ?」
「その言葉、そっくりそのままお返しするわ」
「……埒があかないな。ここはじゃんけんの真剣勝負で決めようぜ」
結局、押し問答に痺れを切らした魔理沙の提案がこの場で採決されることになった。
「よしいくぞ!」
「「じゃーんけーん」」
結果、アリスがパー、魔理沙がグー。七色の魔法使いの勝利である。
「じゃあ私が先に入ってくるわねー」
上機嫌のアリスが浴室の方角へタオル片手に消えていったことを思わず恨めしげに眺めてから、私は天才的な閃きが頭の中によぎるのを感じた。そうと決まればさっそく行動だ。善は急げである。
「アーリースー、こういう時は一緒に入るのが手っ取り早いぜ!」
「きゃあああ!あんた何突入してきてるのよ!しかも全裸で!」
「風呂場は全裸で入るものだろう」
「そりゃそうだけどっ!なんであんたまで来てるのよ!」
「濡れたまま待っているなんて性に合わないぜ。それに同性同士なんだから別に風呂だって一緒でも構わないだろ」
「………はあ。もう来てしまったんだししょうがないわね。ほら、突っ立ってないでそこにでもかけなさい」
「流石アリス!物分りが良いぜ!」
「あんたの家と違ってうちはバスルームが大きいから二人分ぐらいはわけないわ」
「………むぅ」
アリスの言葉は事実だったが、なんだかそれを素直に認めるのは癪だったので、返事の代わりに浴槽の水を桶ですくってざばりと体を流す。
………む、ちょっとぬるい。風呂はカーッっと熱々なのがいいのにアリスは分かってないな。
文句を言ってやろうとアリスに顔を向けると、アリスは丁度あわあわになったスポンジで体を洗っているところだった。上質な絹のようにきめ細かくてしっとりとした白い肌が、柔らかな泡に包まれている様が妙に様になっていて思わず目を奪われてしまう。すらりと伸びた四肢には余分な肉がついていないくせに、胸元には私のより立派なリンゴ大の大きさのものが二つ。まるで女の理想を詰め込んだかのような、整った顔立ちに非の打ち所のないプロポーション。思わず私の貧相な体つきと見比べてしまって、後悔した。なんだよ、畜生。敗北感しか感じないじゃないか。
室内に篭りがちなアリスとは違い、箒に乗ってあちこち飛び回ることの多い魔理沙の肌は夏の強い日差しに焼かれ、健康的に色付いている。つい先日もこの季節にしか生えぬ薬草を求めて散々土を弄り回し、手のひらは小さな傷でいっぱいになってしまった。
こうしてアリスと裸の付き合いをしてみて分かる――――自分の平凡で貧相な体に対するコンプレックスを。
「ああ、もう。さっきはあんなに泡で遊んでたのに、どうしてお風呂場ではちゃんと泡立てないのかしら」
「なんだよ、アリス。とりあえず適当に体を擦っておいたらそれでいいだろう?」
「駄目よ。汚れは泡で浮かせて落とすものなのよ?そんなに強く擦ったら肌が痛んでしまうわ」
気が付くと、やけに真剣な表情をしたアリスの顔が近くに迫ってきていた。
「………ついでに言うと、魔理沙。あなた、肌の手入れをほとんどしてないでしょう?」
言われてみて、思わずぎくりと体が強張ってしまう。確かに私は肌の手入れの類は洗顔くらいしかやっていない。話によると肌の手入れには他にも色々なことをしなければならないらしいが、あいにく私の周りにその手の話に詳しい人はほとんどいないため、知り得る機会がなかった。霊夢やパチュリーが丹念にスキンケアをしている姿は……にわかには想像し難い。
アリスに聞くという選択肢もあったことにはあったのだが、会えば憎まれ口の応酬になってしまうこの関係で、完全に劣位に落とされるその手の話題を振ることが出来なかったのだ。
「髪は……うん、まあまあちゃんとやってるみたいね。魔理沙も女の子なんだから、もうちょっと肌の方も気にかけた方がいいと思うわ。今は若いから良いけど、年を取ったらあっという間に皺くちゃよ?」
「うっ……べ、別にいいじゃないか……」
「良くない。せっかく魔理沙は可愛い顔立ちをしてるんだから勿体無いわ」
「かっ…かかか……かわいい!!?」
「何焦ってんのよ。あなた普通に可愛いんだからもうちょっと頓着しなさいって言ってるのよ」
「かわ……わたしが、かわいい……?」
常々完璧に計算されて作った人形のように綺麗だ、と思ってならないアリスから出た自分への賛辞に頭の中が沸騰する。そりゃあ私のことだから可愛くないことはないけど、アリスが言うのはまた別だ。自分にはない理知的な瞳や通った鼻筋を持つこの美人が、私の容姿を褒めることは完全に想定外の出来事で、だから自分でも滑稽になるほどそわそわと落ち着きのない行動をしてしまうんだと思う。顔が熱い。うう、これはきっとさっきかけたお湯のせいだ。そうに違いない。
「……そうよ。魔理沙は可愛いわ。せっかくだし後で私の使っている化粧水とか貸してあげる。それで色々勉強してみたらどうかしら?」
それがトドメのアーティクルサクリファイスになった。頭からぷしゅう、と湯気が出る。
「……………うん」
その後、風呂場でアリスに背中と髪を洗ってもらった。
ほっそりとした白い指先はいつも人形を操っていることもあってかやけに器用で、要はとても気持ちが良かったということである。



【 side A 】

何この可愛い生き物。
照れたように頬を桜色に染めて、くりっとした丸い瞳が上目遣いにこちらを見上げている。いや、体制的に私の方が高い位置にいるから魔理沙が見上げるのは仕方ないんだけど、それでもこの可愛らしさは反則だと思う。同性の私でも思わず抱きしめたくなるような仕草をこの小柄な魔法使いは無自覚にやってのけるのだから敵わない。
「これが化粧水。洗顔は顔の汗や汚れを取り除いて清潔にはしてくれるけど、美容・保湿の面では不十分だわ。きちんと顔に必要な成分を染み込ませるために、まずはこれで肌の調子を整えてあげる必要があるの」
「まずは……ってことは『化粧水』だけ使うわけじゃないのか?」
「よく化粧水だけ肌にばちゃばちゃやってスキンケアに満足してる人は多いみたいだけど、化粧水って言うのは次に使う『美容液』の栄養を肌に浸透させるための導入液みたいなものなの。だからもちろんこれ一本だけでおしまいと言うわけじゃないわ」
「へえぇ、そういうもんなのか」
「そういうもんなのよ」
そう言ってアリスは化粧水の入ったガラス瓶のキャップを取り、液を手のひらにしっとりと溜まるぐらい落とす。そして化粧水が手のひらの熱で人肌温度に温まったことを確認してから、まずは自分の顔に当てて実演して見せた。
「パチパチ顔を叩いて化粧水を染みこませるイメージも多いみたいだけど、私は手のひらでじっくり圧を与えて染みこませるようにしているわ。こうやって温めた液を……頬っぺたの下から目尻に向かってマッサージをしながら浸透させるイメージで」
「ええと、これくらいの量か?」
「うーん、もうちょっと多くてもいいかも。基本的に化粧水はケチらずたっぷり使う方が良いわ」
「ほうほう」
「あと、日に焼けたりした日は、コットンに化粧水を滲ませて肌に湿布みたいにして乗せることをオススメするわ。こうした方がより効果的に化粧水の効力を引き出せるから」
美容方面の知識が疎い魔理沙が手取り足取り私に指導を受けるのは、正直なところ嫌がるのではないかと思っていた。けれど、どうやらその考えは杞憂で済んだようだ。魔理沙の浮かべる表情はまるで魔法の論議に花を咲かせる時のようなそれに変わっている。何だかんだ屁理屈の多い娘だけれど、魔理沙は自分の興味が向く分野に関しては驚くべきほどの好奇心と探究心を向けるから。
「ん、いい感じ。じゃあ次は美容液ね」
「おう、任せろ!………って、こりゃあ椿油じゃないか。これって確か髪に使ったりするやつじゃなかったっけ?」
「あら、よく分かったわね。確かに椿油は髪に落として使うことも多いけれど、髪に使えるということは肌にも良い成分を含んでると言うことなのよ。ついでに言うとさっき使った化粧水は、家の裏庭で育てているヘチマから作ったものね」
「あのヘチマからか!?」
「ヘチマを舐めないで欲しいわね。なんてったって一本の茎からおよそ一リットルのヘチマ水が取れるんだから」
「すごいなヘチマ!」
お手製の椿油を数滴、今度は手のひらに薄く伸ばして使う。高分子のフィルターを使って四回ろ過精製したこともあって、ベタつかないさらりとした感触が手のひらに広がる。貴重な椿油を使った私特製の自信作なだけあって、毎日の塗り込みも自然気合の入ったものになるのだ。
「頬っぺたの辺りはさっきと同じように手のひらで圧を加えてあげて……目元は優しく塗りこむ感じ。そうそう、あとあごの辺りは上向きに伸ばしてあげると良いわ」
おぼつかない手つきながらも、厚顔無恥が服を着て歩いているような魔理沙が真剣な表情で美容液を塗り込む姿はかなり新鮮な光景だ。彼女も年頃の少女なのだから、相応に興味はあったのだと思う。けれど手を出すには普段の自分のイメージとのギャップがありすぎて、妙に気恥ずかしかったというところなのだろう。そんな何でもないところで恐らく葛藤していたであろう魔理沙の様子が目に浮かんできて、思わず小さくほくそ笑んでしまう。
「何ニヤニヤ笑ってるんだよ」
「別に〜?」
男勝りな口調を使うくせに、この魔法使いは乙女でいちいち可愛いのだ。
「じゃあ最後にクリームで蓋をして、椿油の美容成分を閉じ込めておきましょ。さっきの洗顔で顔の油分も落ちてるから、きっちり保湿をしておかなきゃ」
手のひらサイズに収まるケースの中から指でクリームを一すくい。それを丹念に肌の上に伸ばすようにして広げて、圧を加える。これにて今日のスキンケア講座は終了だ。
私の後に習って指の動きを止めた魔理沙が、鏡に向かって手入れの終った自分の顔をまじまじと見つめている。こういうお手入れは日々の積み重ねが大切で、化粧と違って塗ったからと言ってすぐに効果が見えるものではない。そのことを伝えると魔理沙は照れたようにそっぽを向いて、分かっているよと言葉尻を強くした。
「毎日続けるのはちょっと面倒だけど……例えば特別な人に会う時、ちょっとでも可愛い自分を見せたいじゃない。そんな明日のために努力することは無駄ではないと思うわ」
拗ねた表情の魔理沙の顔色が、ほんの少しだけ色付いたような気がした。
「それに、今日頑張ったからきっと明日の魔理沙の肌はもちもちよ?」
「そっ……そうか…。もちもちになるなら手入れも悪くないかなっ!アリスのもち肌の秘訣はこれで私が頂きだぜっ!」
「はいはい。でもこれ作るの大変だから、根こそぎ持って行かないでね。ストックをちゃんとあげるから」
「お、おうっ!」
面食らったように魔理沙が返事を返す。そんなに私が気前よくあげることが意外だったのかしら?失礼するわね。
改めて鏡台の上に並べられたお手入れセットを眺める。ヘチマ化粧水に、椿油の美容液。それから保湿用のクリームと、たまに使うので置いてあるコットン。ほとんどが自分のお手製で、かなりこだわって仕上げたからどれもこれもが自信作だ。
そんなアリスの視線につられたのか魔理沙も鏡台の上を眺め、それからぽつりと言葉を漏らした。
「こうして見ると、手順とか分量とか使い方とか………手入れはまるで魔法薬の実験みたいだな」
「そうね。これもある意味魔法みたいなものよ。だってこんな風に一生懸命手入れする根底には――――綺麗になりたいっていう気持ちがないと意味がないのだから」



【 side M 】

「とうっ!」
アリスの家のベッドはセミダブルサイズなだけあって、十分すぎるほど広い。アリスお手製のフリルがふんだんに重ねられた少女趣味なベッドは少々私の趣味とは外れるが、ふかふかの肌触りは私も大満足な一品である。うむ、良い生地を使っているな。
「もうっ、スプリングが痛むからダイブしないでよ」
「アリスのベッドがもふもふだからいけないんだぜ。飛び込めって私を誘っているんだ」
手触りの良いベッドは、横たえた私の体を優しく包み込む。ううむ、このままここにいたらあっという間にとろりとした眠気に襲われてしまいそうだぜ。せっかくアリスの家に泊まるのだから、どうせなら普段とは違う経験を満喫して眠りたい。眠気と戦うように広いベッドの上をゴロゴロと寝転がりながら抱き枕と戯れていたら、邪魔よとアリスに押し出されてしまった。ぼてん、と情けない音を立てて私の体がベッドから落ちる。
「はしたないから足ぐらいは閉じなさいな」
風呂から上がった時、私は代えの衣服を持ってきていなかったのでアリスの寝巻きの一着を貸してもらうことになった。これがまたシンプルながらもアリスらしくフリルとリボンが所々にあしらわれた一品で、おまけにロングスカートだった。ベッドから落ちた拍子にスカートも捲り上がり、普段はドロワで隠されている私の色気のほとばしる太ももを晒してしまったと言うわけだ。
「閲覧料を頂くぜ」
「そんな色気も欠片もない格好で何馬鹿なことを言ってるのよ」
冷めた視線のアリスがベッドの上から見下ろしている。ちゃっかりベッドの半分を占拠していて、私の転がるスペースも半減してしまった。まあ、元々このベッドはアリスのものだけどな。
「ほら、半分スペース貸してあげるだけでもありがたく思いなさい」
私をベッドから落とした張本人だが、一応引っ張り上げてくれる気はあるらしい。アリスの手のひらを握り返したところで、唐突に私の悪戯心が刺激された。このままやられっぱなしなのは、妙に癪だったのだ。
「おおっと手が滑ったー」
「きゃあっ!」
アリスの手を借りてベッドの上へと乗り込んだ私は、そのままアリスに抱きついてみることにした。
「うう〜ん、相変わらずいいふかふか」
ベッドの柔らかさとはまた違った張りのある弾力が私の頭を包み込む。仄かに石鹸の香りが漂っているところも見逃せない。同じように風呂に入ったと言うのに、なんでこうもアリスは良い匂いをさせているのか。私のは何も感じないぞ。くんくん。
「いい匂いにいいおっぱい。良いではないか良いではないか」
「あんたはセクハラのおっさんか」
べりりとアリスが胸に張り付いていた私の頭を引き剥がす。私のほうも本気でしがみ付いていたわけではなかったので、あっさりと離れてベッドの上にミノムシのように転がった。
「はーがーさーれーたー」
「この暑いのにくっついてこないの!あと、胸に頬ずりしない。セクハラで訴えるわよ」
「紳士のロマンを私が果たしてやっただけなんだぜ?」
「妙な話を持ち出してはぐらかさないの!」
仕方がないので、再びその辺りに転がっていた抱き枕を抱きしめると言うことで満足してやる。寝る時は手元に何かあった方が妙に落ち着くのだ。私が説教を適当に聞き流していることはアリスも気が付いたのか、途中で半眼になって私を睨むことに方向転換をしたようだ。いいぞ、人間諦めが肝心だ。おっとアリスは魔法使いだったか。
「―――――まぁ、あなたにはないサイズの大きさだから気になるのは仕方がないと思うけど」
「おっとそれは聞き捨てならないぜ。私のはまだまだ発展途上中だ。このままで終ると思うなよ?」
「どうだか。菌類ばかりを好んで食べているようじゃ、明るい将来は見えてこないわねぇ」
「むむっ!キノコを馬鹿にする奴はキノコに泣くんだぜ!」
「大丈夫。私は魔理沙と違って実験にキノコを使ったりはしないから」
「今度アリスの家に特別でキノコを栽培してやるぜ」
「キノコの訪問販売はお断りよ」
相変わらずのツンとした澄まし顔で、アリスは私の言葉にいちいち反論を投げ返してくる。きりのない応酬と、余裕ぶってお姉さん面するアリスが妙に腹ただしかったので、私は抱き枕を思いっきり投げつけてやることにした。
ぼすん、と良い音を立てて枕はアリスの顔に命中する。
「ふふん、キノコを馬鹿にした報いだ」
「…………そう、あなたはその気なのね」
重力に従って落ちた抱き枕の下に隠されていたアリスの笑顔は――――いびつに歪んでいた。
「ふぎゃ!」
抱き枕が思いもよらない速度で、今度は魔理沙の頭にめり込んだ。情けない声を上げて魔理沙は顔面に叩きつけられた衝撃の痛みにじたばたした後、お返しと言わんばかりに帰ってきた凶器を投げ返す――――アリスは今度はそれをキャッチした。
かくして幻想郷の中でもそれなりに力を持った魔法使い二人の、パワー対ブレインのガチンコ枕投げ大会が開催されたのは言うまでもない。



降りしきる雨の雫を、幾重にも広げられた森の木々たちの葉は柔らかく受け止めている。
魔法の森の奥深く。
暗い森の中には、時折、木々が枝を伸ばすことを忘れたかのようにぽっかりと開けた空間が存在していることがある。七色の魔法使いの家はそんな場所に佇んでいた。静かに、時に賑やかに。
今日のお客様は魔法の森に住む、もう一人の魔法使い。

「はぁはぁ……この勝負、私の……はぁ……勝ちだな……」
「何……馬鹿な…はぁ、こと言って………んのよ……どう……考えても…私だわ」
「……はぁ……キリがない…ぜ……とにかく一回、一時休戦……しないか……?」
「そうね……さすがにもう………ちょっと…疲れたし……」
ごろりと魔理沙とアリスは二人揃ってベッドの上に大の字になる。戦いは知略と胆力、そして各々の技が限界まで試される熾烈なものだった。肩で息をしていた二人は暫く呼吸を取り込むことに全神経を傾けていたが、ふとした拍子に互いの顔を見合わせると、思わず相好を崩した。
「ぷっ……あははは!」
「くくく………ははははっ!」
何がおかしいのか。どうして笑いたいのか。そんなことは二人にとって細事だった。ただ、無性に大声を上げて笑ってみたくなったから笑ってみた。体の内から湧き上がるような衝動に身を任せた二人は、もう一度互いに顔を見合わせてから笑みを深くする。
「なぁ、アリス…………明日は晴れるかな?」
「そうねぇ……今日これだけ降ったのなら、明日はきっと晴れるわよ」
少しだけ雨音が優しくなった窓の外の風景を眺めながら、魔理沙は穏やかに笑って言葉を続けた。
「きっと雨上がりの空にはでっかい虹が浮かぶ筈だぜ。だからさ、明日は―――――

魔法の森の奥深く。
魔法使いたちの日常は、明日もまた七色の彩りを添えてきらきらと輝いていくのだろう。



END



09.8.25執筆
10.2.14UP