2015.10.25 執筆
ぬくもり
『今晩、アスベルの部屋に行ってもいいかしら』
傍から見ても熟れきった林檎のように顔を真っ赤にさせて、シェリアは確かにそう言った。声なんて、蚊が鳴く程度のつつましさだったように思う。どうして言い方がこうも曖昧になっているのかというと、俺の方も告げられた言葉の意味を理解して、頭の中がすっかり茹で上がっていたからだ。
だって、そうだろう?
久しぶりに会った幼馴染、現婚約者。事実上、『そういう関係』になっても何の問題もない女の子が、真っ赤に震えながら『夜、部屋に行きたい』だなんて言い出すんだから。
ラント領の今後の在り方を含め、リチャードに報告に王城へ登ったその帰り。ちょうど今、救護団の活動の一環でシェリアがいるのだと、リチャードは楽しそうに話してくれた。今晩は宿で一泊していくはずだよ。その言葉に惹かれるようにして、俺もまたソフィと一緒にバロニアのいつもの宿をとることにした。やはり同じ宿を取っていたシェリアは驚きつつも嬉しそうに再会を喜んでくれて、時間の都合を合わせて、久しぶりに三人で食事を楽しんで、それで。
「…………どうしよう」
ソフィは久しぶり会うシェリアと同室に浮かれていた。あれほどはしゃいでいたのだから、恐らく、というより間違いなくすぐに寝付いてしまうだろう。なんだかんだ旅をしていた頃から、ソフィは寝つきがいいのだから。シェリアが来るとしたら、きっとその後だ。
ああ、それにしたってどうしてあそこで頷く事しかできなかったのだろう。せっかくシェリアが勇気を出して言ってくれたっていうのに、男の俺の方が雰囲気に飲まれてしまうだなんておかしすぎだろう。今更ツッコミを入れてみるものの、静かな部屋に自分の声だけが響き渡るのはなんだか虚しい。
「とにかくシャワーでも浴びてこようかな」
部屋に備え付けられたシャワールームは窮屈で、それでも蛇口を捻れば熱いお湯が出た。ここまで充実した設備が整っているのは、王都バロニアこそだ。あと思いつくといえば、ストラタか。あちらには熱いシャワーが必要だとは到底思えないが。
ラント領の宿屋は集合浴場になっている。それなりに快適な作りで、アスベルとしては満足してはいるものの、やはり生活の豊かさを比較すると、王都のそれとは違う。領民たちの生活の質を上げ、今ある環境と共存しながら豊かな暮らしを送る。領主としての命題は尽きることがない。……そう、俺はやるべきことがたくさんあるんだ。
「あっ、アスベル」
「うわっシェリア!!?」
とかなんとか大真面目に考えながらシャワールームから出てきたら、見覚えのあるピンク色がベッドの上にちょこんと腰掛けていた。見間違えるはずもなく、シェリアしかいない。
「うわって……そこまで驚かなくていいじゃない」
「えっ、あっ。はい!」
思わず起立の姿勢になって背筋を伸ばせば、頬を膨らませて上目遣いに見てくるシェリアの姿がある。その服装が、いつもとはまるで違っていて思わずうっと喉の奥で唸り声を上げてしまった。
シェリアの格好は、旅をしていた最中に見ていたような夜着でもなかった。今彼女が身に着けているのは、つるりとした素材の白いワンピース状の夜着で、辛うじて厚手のカーディガンが肌の露出を隠しているようなものだ。丈なんていつものスカートに毛が生えた程度の長さで、すらりとした白い足が惜しげもなく晒されている。
誰がどう見てもシェリアは薄着で、つまりは、そう。……あれだ。これは、その、たぶん、据え膳状態。
瞬間、カーッと頬に熱が灯るのを俺は理解した。ただ普通に寝るだけのつもりじゃないってことくらいは、分かってたつもりだったけど。多分、シェリアはそういう気もあって言ってくれたことだって頭では理解してたつもりだったけど。
昔、まだラントの屋敷に俺がいた頃。ヒューバートとシェリアと俺とソフィでこっそりお泊り会をしたことがあった。父さんと母さんの目を盗んでこっそり集まって、お気に入りのものを持ち寄った。頭から布団を被って、今日はバリーと取っ組み合いをしたとか、裏山の冒険が凄かったこととか。シェリアはそういう話を聞く度にハラハラした顔になって、おせっかいを焼いたりもした。
幼かった頃のあの時間は特別なもので、もちろんワクワクしたし、大人に隠れて作った子供たちの世界のことを、忘れてなんていない。……だけど。
あの頃より、俺もシェリアも年を重ねた。もう何も知らない子どもなんかじゃないし、お互いがどう想っているのかも知っているつもりだ。
久しぶりに夜に会った幼馴染は、もうお節介焼きの、単なる小さな子供なんかじゃなくって。
「えっと……その、じっと見られてると、は、恥ずかしいんだけど……」
「あっ、う、うん。ごめん。思わず……」
「思わず?」
「いや……キレイだな~って」
反射的に零した言葉を理解したのは、言った本人である俺よりもシェリアの方が早かった。
「き……キレイって」
口を半開きにして呆気にとられたようなシェリアが、信じられないようなものを見るかのような瞳でこちらを見上げている。みるみるうちにその顔は真っ赤に色付いて、シェリアは照れたようにそっぽを向いた。とは言っても、赤く熟れきった耳は隠しようがなく、彼女の照れはあっさりと俺の頬にまで伝染した。
「な、なんかこういうのって照れるな……」
「アスベルがへ、変なこと言うからでしょっ!?」
バカ。小さくそう零した声は、今に限って言えば覇気がなく、どこか弱々しい。
「なんでそこで俺がバカになるんだよ」
「そういうところが理解出来ないところがバカって言ってるの。……鈍感」
分からないから聞いているというのに、散々な言われようだ。でも今は、シェリアと喧嘩がしたいわけじゃないはずで。
「し、仕方ないだろ。キレイって思ったのは……その、本心なんだし」
実際、こうやって二人きりになってみて改めて思う。シェリアは美人になった……と思う。零れそうなほど大玉の瞳に影を作るまつげがはっとするほど長いなと思った時。自分とはまるで作りが違う手足の白さに驚いた時。……そんなふとした瞬間、昔とはもう違うのだな、と実感する。
シェリアはとてもキレイになった。そして今、俺の隣にいてくれる。これからの俺と一緒にいてくれることを約束してくれた。
「アスベル……」
色付いた頬はそのままに、どこか熱に浮かされたような瞳でシェリアが俺を見つめている。今なら触れても許されそうな。そんな、気がした。
「シェリア」
だから俺はシェリアを引き寄せて、立ったまま抱きしめた。華奢な彼女の肩は、包み込んでしまえばすっぽりとあっけなく俺の腕の中に納まってしまう。
心臓が今にも暴れだしそうだ。どきん、どきんという音が頭の中で響き渡っている。
「アス……ベル……」
掠れた小さな声で、俺の名前を呼んだシェリアはなんだか泣き出してしまいそうで、彼女はこんなにも小さかったのかと思ってしまう。……違う。俺がただ、気が付いていなかっただけだ。シェリアはいつも、救護団の最前線で戦ってきたから。自分にやれることを精いっぱいやろうとする彼女の存在が知らぬ間に大きくなって、本当の大きさに気が付かなかっただけだ。
抱き寄せたシェリアの存在を確かめるように少しだけ、彼女に回した腕の力を込めた。そうすれば、ぴくんとシェリアの肩が跳ねる。そんな些細な仕草さえも、どうしてだろう。不思議と大切にしたいと思った。
触れたい。もっと、シェリアのことをぎゅっとしてやりたい。
見下ろせば、何かを期待するかのように潤んだ瞳でシェリアがこちらを見上げている。だから俺は、腰に回していた手の位置をずらして――シェリアの胸を揉んだ。
「…………は、い?」
「えっ……も、もしかして違ったか!?」
先ほどのうっとりしていた様子から一転して、微妙な顔つきになったシェリアの反応に俺は慌てて両手を上げた。
「…………キス」
「えっ?」
「そういうのは、先にキスしてからなのっ」
そう言って、怒ったように眉を上げたシェリアがこちらを見上げてくる。
「あ、ああ! キス! キスね!」
告げられた言葉を機械人形みたいに繰り返して、俺はぶんと明後日の方角を向いた。……恥ずかしい。がっつきすぎだろう、俺。
「ん」
「?」
瞼を閉じてじっとしている彼女の挙動に、焦りから行動の意味を汲み取れないでいると、不満そうにシェリアは瞼を押し上げた。
「……キス」
「えっ、キス?」
「ここまで言わせないでちょうだい。アスベルと……その、キス…………したいって言ってるの」
「えっ、でも、さ、さっきの、怒ってないのか?」
「そんなの別にいいわよ。だってこの後……その、もっとすごいこと、するんでしょう……?」
「そ、それは、そうだな……」
お互い真っ赤になって押し黙ってしまう。
ああ、でも、良かった。怒っていたわけじゃなかったのか。胸の内で安堵する。俺ばっかりが不安で、緊張なわけじゃなくって。きっと、同じようにシェリアも不安で、どうしたらいいのか分からないのだろう。そう考えると、少し気持ちが軽くなったような気がした。
「シェリア」
「えっ、きゃあ!?」
彼女の膝の裏に手を差し入れて、ぐっと両腕で持ち上げる。反射的にシェリアは首にしがみついてくれて、俺は比較的容易にベッドの上に彼女を横たえることができた。
「あ、アスベル……」
白いシーツの上に広がるピンク色の髪が酷く眩しい。きっと様にならないほどの赤い顔だろうということは自覚していたけれど、シェリアの体を閉じ込めるように組み敷いて、俺は囁いた。
「続き、やるんだろう?」
ぽうっと蕩けたような表情になって、シェリアが頷く。脈打つ心臓の鼓動の音がひどく耳についた。触れれば柔らかそうな桜色の唇に自然と視線が吸い寄せられる。待ち構えるように瞼を閉じたシェリアに応えるようにして、俺もまた瞼を閉じて、そして――「シェリア、ここにいた」
「わあああああああああ!!?」
「きゃああああああああ!!?」
反射的にベッドサイドに視線を向けると、思った以上に近い場所でじいっとこちらを見つめている二つの曇りない眼がある。背丈だけはすっかり一人前になりながらも、枕を片手にこちらを見下ろしてくる仕草はまったくもっていつも通りのソフィだった。
「そそそ、ソフィ!? どうしてここに!!?」
「起きたらシェリアがいなかったから、アスベルのところにきたの」
二人でいっしょに寝るなんてずるい。
呆気に取られて組み敷いた状態のまま固まっている俺とシェリアの内心を知る由もなく、シェリアは幼子のように無垢な心でとんでもないことを言い出した。
「わたしもいっしょに、寝る」
そう言うや否や、もぞもぞと枕片手に俺のベッドの中に入り込んでくる。数拍遅れて慌ててみても、時既に遅し。
「ソ、ソフィ。女の子が男の人のベッドに入っちゃダメよ」
「どうして? シェリアはアスベルのベッドにいるのに?」
「ええっと、それは~……」
明後日の方向を向くシェリアに、ソフィが不思議そうに詰め寄る。どう考えてもこの状況はこちらの部が悪い。
息を吐いて、俺はソフィの頭をぽんと撫でた。
「しょうがない。今晩だけ、特別だぞ」
「とくべつ」
「ああ。ソフィはもうお姉さんだから一人でも寝られるけど、今日だけ特別だ。昔みたいに一緒にお喋りして寝よう」
それでいいかな、シェリア。そう付け足せば、少しだけ残念そうに、けれどいつもの柔らかい表情で彼女は頷く。遠くない内に今日の仕切り直しをしたいけれど、今は。
「せまいね」
「そうね。三人だとちょっとね」
「でも、楽しいね」
「ああ」
「ねえ、シェリア。お話して。昔教えてくれた、王子さまとお姫さまのお話」
「へえ、どんな話なんだ?」
「それはね……」
賑やかな夜は、こうしてゆっくりと更けてゆく。
勿体なかったような、惜しかったような。そんな気持ちがなかったと言えば嘘になってしまうけれど。不意にシェリアに視線を向けると、ぱちりと視線が合った。それに思わず小さく笑って。
「慌てなくていいさ。俺たちの時間は、まだまだこれからなんだから」
やりたいことがたくさんあるんだ。領主として、ソフィの父親として、そして、シェリアの旦那として。たくさん、たくさん。
すぐ近い場所に暖かな温もりがある。それになんだか満足して、俺は瞼を閉じて微笑んだ。