2015.10.25 執筆

私の彼は召喚士

 『燕花』――…読み方は、イェンファ。
 母が私を生むために療養していた頃、家の庭に燕が巣を作っていたそうだ。日に日に成長していくヒナたちの成長を微笑ましく見守ってきた母は、やがて生まれる我が子に、その名を冠することを思いついたそうだ。そうして無事産まれてきた私には、燕と花の名を与えられた。私が見守ってきた燕たちのように、立派に育っておくれ――。健やかな成長を願って付けられたこの名のことを、私はそれなりに気に入っている。だから、別にこの『漢字』の書き方を、恋人に教えること自体は問題ないのだ。問題はないのだけれど、些かこれは、距離が近すぎるのではないのかしら?
「イェンファ」
「何?」
「へへ、呼んでみただけだよ」
 そう言って、花でも散らさんばかりの満面の笑顔で答えるこの男は、先日冥土召喚術の研究者たちを捕らえるために、異世界調停機構(ユクロス)から派遣されてきた調停召喚士、名をフォルスと言う。隊員たちの前で、脇目も振らず恋人であるイェンファに掻き付いたことで、一躍櫻花隊で有名になったということは記憶に新しく、同時にイェンファの頭痛の種でもあった。
 なにせこれまでのイェンファは、規律に厳しく、任務においては徹底的に情を殺す『鉄の女』として通ってきたのだ。生真面目でこれと決めたら頑固一徹。融通という言葉とはまるで無縁なものだから、イェンファの好物である甘味を食べる時でさえ、そんな可愛らしいものはイメージじゃないと言われてしまう始末。
 そんなイェンファに恋人が出来たというのだ。女性ばかりのかしましい櫻花隊員たちが上から下まで大騒ぎをするのも、ある意味で道理とも言えなくもない。そして、そこまではまだイェンファも我慢ができた。……問題はその後だ。
『あの堅物イェンファの恋人とは一体どんな人物なのだろう?』
 やっぱりガチガチに規律を守る几帳面タイプの人? いや、でも最近イェンファ丸くなったわ。あの堅物な彼女を変える人ですもの、きっと一筋縄な人間じゃないはずだわ。そう言えば、見た目はどうなのかしら。身長は? 体格は? ていうかイケメン?
 盛り上がった彼女たちが、外部からの協力者として来訪したフォルスのところにこぞって詰め寄せたことが大問題なのだ。
『えー、なんか思ってたより普通』『でも顔は可愛くない?』『私は結構好みかもー』
 ……本当に勘弁してほしい。彼は見世物じゃないのだ。
 かっと頭に血が上ったことは自覚していた。せめて感情を爆発させないように押し殺した声で野次馬たちの群れの中からフォルスを引っ張り出したのが半刻前のこと。そのまま勢いに任せて隊内にある私室にまでフォルスを連れ込んでしまったのは、我ながら大胆だったかなと今にして思う。
 連れ込まれたフォルスの方はというと、きょとんとした顔になった後、笑顔になって。二人っきりになった(響友のスピネルは席を外しますと行って出て行ってしまった)部屋の中、ご機嫌な様子でイェンファを抱きかかえて座ったまま、にこにこと漢字の書き方を教えてくれと乞うたわけだ。
 この状況を作ったのも、望んだのも確かに自分なのだけれども。尻の下にあるフォルスの腿の感触にむずむずしてしまう。腿だけじゃない。背中から、肩口から、とにかく体のあちこちから抱きしめられているフォルスの感触が伝わってきて、イェンファとしては気が気じゃないのだ。
「燕に花……っと。こんな感じかな?」
「っええ、それで合ってるわ。合ってるけど、耳元で囁かないで貰えないかしら。流石にくすぐったいわ」
「燕花はこういうの、嫌?」
「ずるい言い方をするのね。嫌では、ないけれど……」
「ないけれど?」
「ただ……あなたがこんなにも近い場所にいると、なんだか落ち着かないわ」
 覗き込んで切る紫水晶みたいな瞳に観念して白状すれば、にっこりと嬉しそうにフォルスは破顔する。
「僕は嬉しいかな」
「……フォルス?」
「燕花とずっと離れ離れだったから、今、こうして近くにいられるのがすごく嬉しいんだ。……もう少しだけこうしていたいんだけどなあ」
 やっぱりフォルスはずるい。そんな大型犬みたいにキラキラした目で言われてしまったら、私が断れるわけなんてないじゃない。
「……しょうがないわね」
「へへへ」
 息を吐いたイェンファの口から出た直々のお許しに、フォルスはまた締まりなく顔を綻ばせる。今度こそペンと紙から手を放すと、腿の上に乗せたイェンファの体を満足げに抱きしめた。そうしてしみじみと言った様子で口を開く。
「やっぱり、ここまで燕花を追いかけてきて良かったなあ」
 とくん、とくん。響いてくる心臓の音は、フォルスがここにいるという証みたいだった。その音をもっと確かめてみたくて胸へと顔を寄せながら、イェンファもまた微笑んで口を開く。
「今更後悔したって逃がしてあげないんだから」
「うん。後悔なんてしないから大丈夫だよ、燕花」
 そう言って、柔らかく目を細める。
 名は言霊が宿るという。遠い昔、まだ誓約召喚が行われていたという頃。真名はその存在を表す大切な言霊だった。
 異界の者は真に信頼出来る者にのみその真名を伝えたと言われるのは、言霊を操り、誓約で縛る召喚術師に悪用されないためだったという。
 私の恋人は召喚士。
 任務には私情で動くし、目の前で困っている人がいたら放っておけない性分だし、おまけに頼られると元気いっぱい目を輝かせて任せてくれだなんて言ってしまう。
 周囲の目なんて全然気にしないで、これと決めたらまっすぐに走ってきて。青臭いことばかり言っているのに、それに振り回されることが不思議と嫌じゃなかった。気がついたときには、私の中の一番を独り占めにされてしまうほど、彼という存在に囚われてしまっていて。
「ねえ、フォルス」
「なんだい、燕花」
 彼の形作る優しい響き。体の中に染み込んでゆくようなその声を堪能するように瞼を閉じて言う。
「あなたに名前を呼ばれるの、好きだわ」
「……呼ばれることだけ?」
「そんなわけないじゃない」
 拗ねたように唇を尖らせる恋人へと顔を向けて、イェンファはにっこりと破顔した。
「あなたのことも大好きよ」
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