2015.10.26 執筆

好奇心は猫を殺す

 珍しいこともあるものだわ。
 目の前に広がる信じ難い光景にトリスはむぅ、と腕を組んで唸った。本当に珍しい。あの気難しくて真面目で堅物が服を着て歩いているような兄弟子が、本を読む姿勢のまま舟を漕いでいたからだ。
 考えてみれば、ここ最近は何かと用事が入って駆けずりまわりっぱなしだった。疲労が溜まっているのは間違いないだろうし、おまけにネスティは元々インドア派だ。暇さえあれば部屋で本を読んでる出不精の彼が疲れているだろうことは、考えてみれば至極もっともなことで、トリスはネスティを起こさないよう抜き足で近づいて行った。
 まだ召喚士見習いだった頃、トリスが居眠りをしていればネスティに散々怒られたものだ。あれからいくばかの時間が経過しているものの、立場が逆転するというのはなんと心躍ることだろう。さて、どうやって驚かせようか――…。さっそくトリスの頭には、ゆっくり寝かせてあげようという考えはない。あるとすれば、あの真面目な兄弟子が自分の居眠りに気づき、いかに驚き、慌てふためいてくれるだろうか。そんな楽しい想像ばかりで、トリスの薄い胸は期待で大きく膨らんだ。
 普通に起こしちゃう? それともこっそり落書きしちゃう? あっ、額に『肉』って書いたら楽しそう!
 一度思いつくと居ても立っても居られなくて、トリスはデスクの上に転がっているマーカーに手を伸ばした。余談ではあるが、以前手違いで『名も無き世界』から呼び出してしまったそれは、羽ペンと違ってインク壺を用意しなくてもすぐさま文字が書けるところがお気に入りだ。
(そーっと、そーっと)
 息を殺して、何も知らずに眠りこけているネスティの傍へとにじり寄る。幸いにもネスティの眠りは深いようで、覆いかぶさるようにして顔を寄せたトリスに気が付く素振りはなかった。
 独特の臭いを放つマーカーをネスティの白い額に寄せたところで、ふとトリスは気が付いた。
(……すごい。まつ毛がふさふさだわ)
 そう言えば、こんな風に余裕をもってまじまじとネスティの顔を眺めることなんてなかったような気がする。最近は、特に振り回されてばかりいたから。だから、こうしてふと気が付いた彼のまつ毛の長さに驚いてしまうのも仕方のないことなのだ。
(ずるいなあ)
 トリスのまつ毛はネスティのそれに比べると、さほどの長さはない。彼のようにすうっと通った鼻筋も、日に焼けていない白い肌も、切れ長の瞳も何もかもの作りが違う。
(昔はちょっとネスの方が背が高いくらいだったのに、いつの間にかどんどん離れていっちゃうし……)
 身長だけじゃない。出るところは出て引っ込むところは引っ込む――例えて言うならミモザ先輩みたいな体系が密やかな理想であったトリスにとって、手足は短い、背丈もない、おまけに胸はつるぺたな現状は甚だ不満でしかない。成長期が終わってしまった今となっては、どうこう言ったってしょうがないことも分かってはいるのだけれど、改めて突きつけられると恨めしくもなってしまう。
「ネスくらいまでとはいかなくても、もうちょっと背があったら良かったのに」
「それは困るな」
 思わず口にしていたらしい。ぽつりと零した願いに返事が返ってくるとは思っていなかったトリスは、紫水晶のような瞳を丸くさせて目の前で寝ていたはずのネスティを凝視した。
「僕はきみのこの大きさがいいんだ。今更大きくなられると困る」
「ネ、ネスっ! 起きてたの!? いつから!?」
 悲鳴のように零れた言葉は、焦りからか痞えてしまった。そんなトリスの仕草さえもお見通しだったかのように、ネスティは眼前のマーカーを片手で取り上げると、反対側の腕でトリスの体を持ち上げた。
「う……ひゃあ!?」
「……そうだな。先ほどのきみの質問に返答するなら、きみが部屋に入ってきた辺りくらいからだ」
「それってほとんど最初からじゃない!?」
「そうとも言うな」
 しれっとした顔でそう言ってのけるネスティは、トリスを抱えたままでちっとも降ろしてくれる気配がない。じたばたと腕の中でトリスも奮闘を試みてみるものの、拘束する腕の数が一本増やされてしまい、ますます逃げどころを失ってしまう始末だ。
「ええと、ネス……。そろそろ降ろして欲しいな~……なんて」
 恐る恐るお願いしてみると、つい先ほど至近距離で確かめた整った顔がにこり、と笑顔を形作る。そしてそれは、今までのトリスの経験上、決して良い兆候となった試しがない。
「悪さをするご主人様にはおしおきが必要だな」
「ひえっ」
 元兄弟子、現護衛獣であるネスティ・バスクが『ご主人様』と呼ぶ時は大方ろくな事態にならないことは、すでに骨身に染みている。顔を引きつらせて、慌てて再度腕の中から脱出を試みようとしたものの、今更無駄な抵抗だった。
「それできみは、僕に何をしようとしていたのかな……?」
 マーカーまで取り上げておいて白々しい。意地悪な表情なのに、どこか楽しそうなネスの顔が触れそうなほど傍に迫ってきて、どきどきと胸が激しく暴れ始める。先ほどまでまつ毛の長さを確かめれるほど近くで見ていた顔のはずなのに。ほんのちょっと前までは、別に、こんな、どきどきすることなんてなかったのに。自分でもそれと分かるほど真っ赤になった顔は、きっと熱を持っている。言い訳じみた声で「あー」だとか「うー」だとか唸ってみるものの、そんなものが今更ネスティに通じるわけもない。
「僕のご主人様はかわいいな」
「か、かわ……っ!?」
 本当に、最近のネスは一体どうしちゃったんだろう。思わず涙目になって見上げれば、信じられない言葉を吐いたネスティは相変わらずの笑顔で見下ろしてくる。今まで仏頂面しかしていなかったというのに、この変わりようは一体何だ。というよりも誰だ。
「ぷっ……あははははっ!」
 百面相をしていたトリスに我慢できなくなったのか、ネスティが堪えきれないように笑い声を上げた。笑い転げる彼を前に、呆気にとられて棒立ちになるのはトリスの方だ。
「だ……騙したわね!」
 散々弄ばれて、笑いものにされるこの仕打ち。あんまりじゃない! 頬を膨らませて睨み上げてみるものの、悲しいほどに背丈に差があるネスティから見下ろされているようでは様にもならない。
「はは、すまない」
「謝ったて許さないんだから! ネスってば最近悪戯が過ぎるわよ!」
「眠っている僕に悪戯をしようとしたきみに言われたくないな」
「うっ」
 痛いところを的確に突くところは相変わらずだ。思わず頬を引きつらせたトリスの顔の位置まで腰を落として、ネスティは楽しそうに微笑む。
「それに、冗談でやっているわけではないんだが」
 気がついた時には腕を掴まれていて、逃げ場を塞がれている。外道召喚士たちに追い詰められるよりも質の悪い包囲網に、トリスが口を開くよりも先に、元兄弟子、現護衛獣の腕が伸びた。
「それで」
 ふわりと真っ赤なマントが視界の端で揺れている。
「きみは冗談と本気、どっちにしたいんだい?」
 ――好奇心は猫を殺す。ささやかな悪戯の代償に、トリスが真っ赤になって叫ぶのはすぐ後のこと。
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