2017.07.06 執筆
2017.07.21 公開

土砂降りの虹

 まるで、バケツをひっくり返したような土砂降りだった。
 ざあざあと重たい雨粒が、地面を、コンクリートを叩く音が聞こえる。黒々とした積乱雲から大粒の雨が降り始めたと思ったら、そこからはあっという間だった。すぐさま都市廃墟の一角に滑り込んだものの、全身びしょ濡れで、まさに濡れ鼠といった言葉がふさわしい。
 水を吸って重くなった衣服をぞうきん絞りすれば、コンクリートの上に黒い染みが広がった。絞っても絞っても、たっぷり水分を含んだ衣服からは水滴が落ちてくる。これじゃあらちがあかない。上着を脱いで今度こそぎゅっと強く絞れば、ようやく服の重さが軽くなった。
「まったく、酷い目にあいましたよね」
 一連の動作を終えてから振り返った9Sは、同じように全身びしょ濡れになっている2Bを見て眉をひそめた。
「水、絞らないんですか?」
「特に支障はない」
「うーん、でも感覚的に気持ち悪くありませんか。べたべたしますし」
「それはあくまで感覚の問題であって、アンドロイドの機能自体に支障はない」
 以前、砂漠で靴の中に砂が入ってじゃりじゃりするのが気になる、気にならないと押し問答した時のようなつれない返答だ。とは言え、今回の話題に関しては9Sの方に分があった。
「一応人工皮膚で防水してますから、雨ぐらいじゃ問題ないはずですけどね。僕らはアンドロイドなわけですし、水気に関しては気を配った方がいいと思いますよ」
「推奨:衣服の乾燥」
 9Sの言葉に同意だったのだろう。ポッド042からも推奨行為を促され、2Bは唇に手を当ててわずかに考え込む素振りを見せた。
「分かった」
 返答は短かった。2Bはそのまますべらかな肌触りの黒衣に手をかけると、躊躇なく頭からそれを引き抜いた。呆気に取られて見守っている9Sを他所に、彼女は鈴を鳴らすような声でポッドを呼ぶ。まもなく042が2Bの手元にまで降りてきて、ぐっしょりと濡れそぼった衣服を受け取った。
「推奨:9Sの衣服の乾燥」
 その甲斐甲斐しいやり取りをみて、思うところがあったらしい。一連の動作を見守っていたポッド153もまた、9Sに推奨行為を促してくる。ああ、うん、頼むよ。と生返事で返せば、了解、と短い返答を上げて、153もまた9Sの上着を持って行ってしまった。
 ざあざあと降り続ける雨の音は鳴りやまない。薄暗い廃ビルの中に、白磁のようにすべらかな肌が浮かび上がった。ぴったりとしたレオタードに包まれた、肉感的なプロポーション。髪の毛束から垂れた雫が、2Bの鎖骨のくぼみに落ちた。そのままなだらかな胸の砂丘を伝いながら、雫はコンクリートの上に落ちてゆく。黒いシミが次から次へと広がっていって、灰色を塗り潰していった。
 こくりと喉を鳴らしてから、9Sは目の前の2Bに目を奪われていた自分を自覚した。彼女の纏う静謐な空気はいつもと変わらないはずなのに、くっきりと浮かび上がる濡れた肢体から目を離すことができない。胸が締め付けられるような感覚があって、9Sは掻き毟るように手を押し当てた。
 ふと、バイザーの外れたその青い瞳と目が合った。9Sがそうしていたように、2Bもまた9Sのことを見ていた。吸い込まれてしまいそうだ、そう思った。同じ色の瞳のはずなのに、2Bのそれはまるで清水のように透き通っていた。まるで、何もかもを見透かしてしまいそうな眼差し。彼女がヒールの音を立てて近づいてくる。こつこつとコンクリートを叩く音が、雨音を縫うように届いてくる。やがて9Sの前までたどり着くと、2Bはその白い指先を伸ばしてきた。
 雨のにおいが少しだけ強くなった。さらりと雪のような白い髪が視界の中で揺れる。陶器のように滑らかな2Bの指先が、湿った9Sの肌着に触れた。
「脱いで」
 短い、しかし力強い声だった。突然の2Bの言葉に狼狽える9Sの心情など知ったことではないように、2Bは再び短く要求する。
「脱いで」
「とぅ、2B……」
「いいから」
 とうとう、有無を言わさぬ口調で肌着を掴まれてしまった。肌着は捲り上げられて、結局頭から引き抜かれた。湿った素肌の上を、やけに近い位置から2Bが見下ろしてくる。やがて彼女は、ためらいがちに9Sの胸の上に手を這わせてきた。
「……」
「……2B?」
「……」
「2Bさん?」
 返事はない。しかし、素肌の胸に触れてくる2Bの顔は真剣そのものだったから、思わず9Sも押し黙って彼女の行動を見守ってしまう。
 ざあざあと雨粒がコンクリートを叩く音が響いていた。人気のない廃ビルの中は、まるでそこだけが別世界のようだ。白い胸の上を細い指先が、確かめるようになぞっていく。
 一体どれくらいの時間そうしているのだろう。もしかしたら一瞬だったのかもしれないし、長い時間だったのかもしれない。やがて2Bは、ゆっくりと息を吐いた。胸にため込んでいたものを吐き出すかのようなため息だった。
「2B?」
 彼女の名前を呼ぶ。そうすれば、2Bは眉根を寄せて困ったように9Sを見上げてみせた。
「……胸を、掻き毟っていたから」
 ああやって、ぽつんと雨粒が落ちるように呟く。
「怪我、してるのかと思った」
 一瞬、なんのことを言っているのかと思った。一呼吸おいてから、ようやく事情を理解する。2Bに見惚れて、胸が苦しくて掻き毟った9Sの仕草を、彼女は怪我によるものだと勘違いしたらしい。
「あれ? でも、それって服を脱いだ時に分かったんじゃ……」
 怪我をしているのならば、視覚情報で判断できそうなものだ。打ち身にせよ、傷にせよ。その9Sの言葉に、はっとしたように2Bの青い瞳が丸くなった。
「2B?」
 不可解な仕草に思わず彼女の名を呼べば、つい、と2Bは顔をそむけてしまう。そうして、彼女はたどたどしい口調で理由を口にしてみせた。
「……触ってみないと、内部の状態は分からないから」
「本当に?」
「ほんとう」
 陶磁のような白い肌に赤みが差している。なんだかそれが、意外なような、親しみが持てるような。そういう心地になって、9Sは思わず口元を緩めた。
「それじゃあ、そういうことにしておきましょう」
 コンクリートを叩く雨粒の音は、先ほどよりも少し弱くなっている。まもなく、雨は上がるのだろう。つかの間の休息の終わりを名残惜しく思いながらも、しとしとと降り注ぐ天からの雫を見上げて、9Sは目を細めた。
「ああ、2B」
 東の空はもう明るい。その先を指さすと、自然と笑みが零れた。美しい七色が、空に架け橋を作っている。
「虹ですよ」
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