2017.06.17 執筆
2017.07.21 公開

Blood Rain

 ぐちり、と捩じ込むように黒の制約の柄を握り直した。人工皮膚を突き破り、血飛沫が吹き出す。まるで雨だ、そう思った。
 擬似血液の真っ赤な雨。人を模したアンドロイドの肉体が、血の池の中に崩れ落ちる。雪のように白い髪が血を吸って赤色に染まっていく。
「やった……」
 震える唇が歓喜の形を象った。
「コロシタ」
 仇を討った。
「殺シタ!」
 仇を討ったんだ!
 泥濘のような血だまりの中に崩れ落ちた義体は、2Bと瓜二つの顔をしていた。だけど、2Bじゃない。コイツが2Bを殺した。コイツが2Bの体を貫いた。コイツがコイツがコイツがコイツが――A2が、2Bを殺したんだ。
 はっとして顔を上げた。ずきり、と頭部が痛む。軽く頭を振って、初めて僕は自分が倒れていたことに気が付いた。
「……幻覚」
 夢なんて曖昧なものは、アンドロイドは見ない。スリープモードに入っている間は、余計な情報は一切取り入れないようになっているはずだからだ。だとしたら、今僕が見た映像は幻覚だったとしか言い様がない。
『9Sの再起動を確認』
 ポッド153が待ち構えていたように浮き上がったことを視界の端で捉える。その姿を見届けて、僕は短く告げた。
「どういった状況で僕は眠っていた?」
『回答。ヨルハ機体9Sは、警告を無視して長時間活動を続けたため、オーバーヒートした。そのため、暫定的な処理として当該ユニットが9Sを日陰へと移動させた。強制スリープに入ったのは、今から百九十二分前。二分前に9Sが再起動したことを確認した』
「了解」
 ポッドの回答に短く答えて、これ以上は必要ないと告げる。
 やはり、先ほどのものは幻覚だったらしい。A2を刺し殺す、幻覚。いつか、この手で掴み取らなければならない未来の映像だ。
 足元に力を入れて、立ち上がる。ようやく周囲を見渡せる余裕が出てきたところで、ここがショッピングモール廃墟であることに僕は気が付いた。……道理であんな幻覚を見たわけだ。
 かつり、とブーツが何かを弾き飛ばしたことに気が付いて、僕は蹴飛ばしたものを拾い上げた。
 それは、小さな筒のようなものだった。キャップを捻れば、中身がほとんど空っぽになった紅が顔を出す。復元された人類の遺産。ベニバナやコチニールなどの天然色素を原料とした顔料などを油分で溶き、型に入れて固めたものだ。実際には、身だしなみを整える必要のあった女性が唇に塗っていたと記録にはあった。
 こんなちっぽけなものでさえも、2Bとの思い出が詰まっている。いつか、平和になったら一緒に買い物に行きましょうね。僕が2BにTシャツを買ってあげます。それから、ほら、この間見つけた口紅。絶対2Bに似合うと思うんですよ! 今の2Bが変だってわけじゃないんですよ? でも、もっともっとおしゃれしたら素敵になると思うんです。
 待ち受ける未来も知らず、ただ無邪気に笑っていた、かつての自分。そんな僕を見つめて、2Bが珍しく口元を和らげたのをよく覚えている。
「そうだね。そんな日が来たら、いつか、きっと」
 結局、2Bの言葉が叶うことはなかった。彼女の体はA2の刃に貫かれ、真っ赤な血を撒き散らかしながら崖の下へと落ちていった。そのまま僕も地震に巻き込まれて、強制スリープに入ってしまって。……2Bの体が、その後どうなったのかはもう知る術はない。
 からん、と口紅が落ちる音がした。
 こんなにも、2Bとの思い出があちこちに散らばっている。軽口を叩いて、諫められたこと。あちこちに散らばる人類の遺産を拾い集めては、未来を想像して。あの頃は、なんの疑いを持つこともなく、戦いの果てを語ることができた。そんな僕の隣で、2Bはいつも眩しそうにしていたっけ。多くを語ることはなかったけれど、選び取って紡がれる彼女の言葉のひとつひとつが、どれも僕に心地よく響いたんだ。
 2B、2B、2B。
 思い起こせばたまらなくなる。震える足で、階段をよじ登り、鍵をこじ開けて、エレベーターのスイッチを押した。まもなく到着した狭い箱の中に、転がり込むようにして座り込む。
 彼女のことを想うと、息が苦しくなる。苦しくて、苦しくて、どうにかなりそうなのに。もう一度喋りたくてたまらないのに。……なのに、2Bはこの世界のどこにいない。
 やがて、ポーンと音がしてエレベーターが最下層にたどり着いたことを知らせてくれた。音を立てて開かれた扉の向こうには、一面の白い花が咲き誇っている。――月の涙の花畑。彼女を弔うと決めた、弔いの場所。
 よろめく体を引きずりながら、僕は花畑までたどり着く。初めて見た時、まるで2Bみたいだと思った。可憐なのに凛とした、人の心を捕らえて離さぬ美しい花。
 エミールに鍵を手渡されて初めてここへ降り立った時、一面に咲き乱れる月の涙に驚いた。だけど、それ以上に綺麗だ、そう思ったんだ。
 だって、月の涙に囲まれた2Bは、僕が想像していた以上に綺麗だったから。
「……っ」
 どうしてだろう。彼女を想うと、こんなにも胸が苦しくてたまらなくなる。
 頬を熱い涙が伝い落ちることが分かった。それは後から後から湧き出てきて、まるで止むことを知らない雨のようだ。
 もう、任務を与えてくれる司令部は存在しない。バンカーは宇宙の藻屑となって、跡形もなく消え去ってしまった。
 殺すために生み出された機械じかけの兵士。ヨルハ部隊員。その任務は、敵である機械生命体を殲滅すること。そして僕の目的は、もう一つ。2Bを殺した仇を――A2を殺すこと。
 必ず、殺す。
 祈りを捧げるように、月の涙の花畑で想いを吐露する。零れた涙が、白い花びらの上に落ちていった。
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