2017.08.02 更新

残響

 どこまでも続く白い回廊の中を、妹の手を引きながら、ただひたすらに私は走っていた。
「お姉ちゃん、早いよ」
 今にも泣きだしそうな声でセラがぜえぜえと声を上げる。三つ年の離れた妹はまだ幼くて、私の手を掴んでようやっと走っているというような有り様だった。
「セラ、しっかりして」
 可哀想だけれども、今はなんとしてでも急がなければならない。そのことはセラ自身も理解しているのだろう。私の言葉に歯を食いしばって、妹は健気にも一生懸命ついてくる。私はセラの手を握り返した。もつれそうになる足を必死で振り上げながら、前へ前へと進んでいく。
 走ることを許されていない廊下であるものの、私たちの鬼のような形相に誰も咎める声を上げなかった。一直線に廊下を突っ切って、私達は奥の部屋へと転がり込むようにたどり着いた。お見舞いで何度も来たはずの場所なのに、扉を開くことに躊躇した。その部屋は、気味が悪いほど静かだったから。
「母さん」
 震える唇で、祈りを乞うようにその名を口にする。私はぎゅっとセラの手のひらを握りしめた。セラもまた、私の緊張を感じ取っているのだろう。深呼吸をしてから、私は意を決して扉に手をかけた。心の準備を必要とさせるくせに、その扉はひどく呆気なく横にスライドする。やがて、医師と看護婦が取り囲むベッドが視界に飛び込んできた。
「母さん……?」
 震える声で、その中心部にあるはずのベッドへ視線を向けた。白い布が、ベッドの上に広げられている。それが意味することは明白な事実だった。
「お母さん!」
 涙声のセラが、ベッドへと飛びついた。
「娘さんですか」
 お母さん、お母さん。とうとう堪えきれなくなって、セラの青い瞳には大粒の涙が盛り上がった。ベッドに掻き付きながら、セラがかけられた布を跳ね除ける。その下には、すでに真っ白な顔色になった母の姿があった。
「……はい。娘のエクレールと、セラです」
 看護師たちは病室に通っていた私とセラの姿を覚えていてくれたのだろう。何も言わずに、私とセラにベッドの前を開けてくれた。
「この度は、ご愁傷さまでした」
 医師の声がどこか遠い。まるで他人事みたいだ。頭の中が絵の具でぐちゃぐちゃに塗りつぶされたみたいになって、何もかもが不明瞭だ。その中に浮かび上がる白色だけが鮮明で、私の胸はまるで絞ったぞうきんみたいにぎゅっと締め付けられた。
 すすり泣くセラの声が聞こえる。その悲しい響きで、私はいよいよ頼れる人がいなくなってしまったことを痛感した。
 父さんはもういない。母さんも、私達を置いて逝ってしまった。セラにはもう、私しか残されていない。私がしっかりしなくては。私が母さんの代わりにセラを養わなければ。
 真っ白なお母さんが浮かんでいる。泣いているセラ。立ち尽くしている私。一緒になって泣いてしまいたかったのに、自然と涙は零れなかった。
 ――それは、母の墓を前にしても変わらなかった。
「母さん」
 私が、母さんの代わりになるから。父さんの代わりにだってなるから。
 セラを守りたい。泣いてばかりのあの子に幸せになって欲しい。そのためだったら、どんなことだってするから。
 法的に認められない年齢なら、私はこの名を捨てて、大人になろう。
 もういいよね、母さんの娘であることをやめても。その代わり、今日から私はセラの保護者になる。必ずセラを守るから。だから。
「私は今日から……ライトニングになる」
 穏やかな風が吹いていた。墓の前に添えた白い花が、静かに揺れている。もう一度だけその光景を目に焼き付けて、私は今度こそ母の墓から背を向けて歩き出した。

   * * *

 瞼の向こう側で白い光が差し込む感覚があって、私はゆっくりと目を開いた。身動ぎをすると、チェストの上に拳大の巻貝が乗っている。あの日、ホープと共に海岸線を歩いた時に持ち帰ったものだ。
 夢はもう、終わりを告げていた。庇護すべき存在だったセラは、私の手を必要としなくなった。自分の力で、立って歩いて。前に向かっていける強さとしなやかさを手に入れた。
 セラを心の拠り所にしてきた私は、一体どうすれば良かったのだろう。行き場もなく立ち尽くした私に、ホープは頼ってくれていいのだと言ってくれた。その言葉に、私はどうしていいのか分からなくて。唐突に、抱きしめられたホープの腕や、広い胸の感触がフラッシュバックした。微かに香水の匂いがする彼の胸の中は、ひどく温かくて、咄嗟にしがみついてしまったのだ。
 頬にじわじわと熱が集まっていく感覚があった。あれは……その、ホープは私のことを想ってくれていると捉えてもいいのだろうか。そう考えると、気恥ずかしさでたまらなくなる。咄嗟に身を捩って、枕の中に顔を埋めた。ふかふかとした柔らかい感触が頭を受け止めてくれたものの、頬に篭もる熱は逃げてくれやしない。今頃真っ赤になってしまっているのだろう。
 こんなの、私の柄じゃない。言い聞かせるように動きを止めて、私はのろのろと体を起こした。
 初めて来た時、物が少ない部屋だと思ったけれど、寝室はとりわけ生活感が少なかった。どうせほとんど使わないんですから、普段部屋にいるライトさんが使ってください。ソファをベッド替わりにしていたことをホープに知られた途端、先回りされた。
 結局私は、彼の部屋を出ることなく、未だ世話になっている状態だ。肝心のホープの方はというと、今なお忙しさに飛び回っているまま。テレビの中に映る整った顔立ちを見かける度に、先日の出来事が夢だったんじゃないかという気がしてくるのだから、我ながら相当重症だ。はあ、と外出から帰って何度目になるか分からないため息が零れ落ちる。せめて気分でも切り替えようと、私はベッドから這い出してリビングへと歩き出した。
 ピッと自動センサーが働いて、テレビの電源が入った。ここ最近やることも特にないから、とりあえずテレビを入れる習慣が付いてしまっている。何か冷たい飲み物が欲しいと思って、クーラーボックスに足を向けた。テレビの音をバックミュージックにしながら、ミルクをグラスに注ぐ。確か一昨日、立ち寄った店で買ったパンが残っていたはずだ。トーストしてマーマレードジャムを乗せよう。簡単な朝食を思い描いたところで、偶然そのフレーズは耳に飛び込んできた。
『それで、この女性はエストハイム氏とはどのような関係が――』
 がちゃん、とグラスが床に落ちた。白い液体が飛び散る様を呆然と見下ろしてから、私はもう一度テレビへと視線を向ける。
『衝撃のスクープ! アカデミー最高顧問であるホープ・エストハイムの熱愛発覚!』
 コテコテのゴシップ誌の見出しのような文句が踊るワイドショーには、海辺で抱き合う男女の姿がフルカラーで撮影されている。どう見てもカメラに向けて背中を向けているのは、私だ。
『今回、エストハイム最高顧問と共に映っている女性ですが、二十代前半と推測され、事実上の同棲生活を――』
 私はテーブルの上に投げっぱなしになっていた携帯電話に駆け寄った。その中にはもちろん、ホープの連絡先が入っている。忙しすぎる彼に繋がるかどうかは定かではなかったものの、とにかく事情を問いたださなければならない。何が、一体、どうなっているのか。
 震える指先がホープの通話ボタンを押した。まもなくコール音が鳴る。……繋がるだろうか。いや、繋がるまでかけ続けるまでだ。
 たっぷり三十秒ほど経過したぐらいだろうか。短い音が響いて画面が切り替わった。ホープと繋がったのだ。
『おはようございます』
 心地の良い柔和な声がスピーカー越しに耳を撫でる。とにかく連絡を取らなければ、とまでしか考えていなかった私にとって、ホープの挨拶で思わず我に返る。
「ああ、おはよう」
『ちゃんとベッドで眠りましたか?』
「おまえがそう言ってからは、使わせてもらってるよ」
『それなら良かった』
「――ってそうじゃない!」
 何を呑気に世間話をしているんだ! おまえがテレビで! ゴシップ丸出しもいいような放送のネタになってるんだぞ!? 慌てるだとかもう少しまともな反応をだな!?
 一度堰を切るともう、言葉はとめどなく出てきた。私のまとまらない猛りを、ホープはうんうんと聞いている。その余裕のある返答が、また腹ただしかった。
「おまえは責任のある立場なんだろう! こんなつまらない事で、今後のアカデミーに影響が出たらどうするだ!」
『つまらないことなんかじゃないですよ』
 穏やかな口調で、しかしホープはぴしゃりと口にした。
『あなたは僕にとって特別な人なんです。確かに今の僕は最高顧問という立場にありますが、それ以前にホープ・エストハイムという一人の個人としてあなたと接したい。それを外野にあれこれ言われる筋合いはないですね』
「なっ……」
 今、こいつさらりととんでもないことを口にしなかったか?
 酸欠になった金魚のように、言葉にならない言葉ばかりが唇から漏れ落ちる。ようやく絞り出した声は、自分でも呆れるほど小さなものだった。
「……それでも、おまえに迷惑をかけた」
 テレビの中でコメンテーターが、写真を前にあれこれ好きなことを語っている。
『ブーニベルゼ稼動に大きな貢献を果たしたエストハイム氏ですが、今回の一件は彼の支持率にどのような影響を与えるのでしょうか――』
 どうもこうにもない。謂れのない女性問題で揚げ足を取られて、今後のアカデミーの運営に支障など出したなら――そこまで考えて、ぞっとする。ホープは今や、アカデミーにとってはなくてはならない存在だ。そうだというのに、私が。私のせいで。
『とは言え、対策を取らなければならないのは事実で、今ちょうどその対応をしていたところです。……芸能人でもないのに、よくもまあ人の色恋沙汰に興味があるものだと思いますが。とにかく、エクレールは身の安全のことだけを考えてください』
 エクレール。吐息のような声で、電話越しに囁かられて、思わず壁に寄りかかる。本当の名を教えたのは、私自身だ。そうだというのに、ホープにその名を呼ばれるのは、まだ慣れない。
『マスコミはエクレールの情報をほとんど握ることができないでしょうから、外出さえ控えていれば露出は防げるはずです。マンションは認証ロックを通らないと入れないはずですし、部屋へと続くエレベーターは指紋センサーを使わないと起動しません』
 とは言え、気を付けてください。今回のような報道内容だと、相当しつこいことも考えられますから。ホープの口調は淀みがなくて、聞いているこちらが疑問を挟む余地がなかった。
『相手に下手な素材を与えないことだけを意識してください。買い物は通販を利用するといいでしょう。とにかく、ほとぼりが冷めるまでは行動を控えるべきですね』
「……慣れているんだな」
『僕は現在の職務上、露出が多いですかね』
 恐らく電話の向こう側で、ホープは苦笑いをしているのだろう。そんな仕草が簡単に想像できてしまうような口調だった。
『すみません、そろそろ。とにかく、身辺には気を付けてください。すぐには戻れませんが、落ち着いた頃に必ず帰りますから』
 それは一体いつになるのだろうか。そう切り出すよりも先に、ホープから通話を切られてしまう。やはり、今回の報道でただでさえ忙しいホープの身辺は、さらに慌ただしくなってしまったのだろう。声は少し離れていたようではあったけれども、通話途中でホープを呼ぶ声が聞こえたから。
「……私は」
 一体どうしたらいいのだろう。壁に背を当てて、そのままずるずると床に座り込む。
 やりたいことなんて、何もなかった。セラを守ることを第一とした私の人生は、そのセラを失って空っぽになってしまった。
 セラとスノウは、二人寄り添い合いながら歩む道を。
 サッズ父子は、親子として生活する道を。
 ノエルとモーグリは、今まで見たことのない世界を旅する道を。
 それぞれの道を歩む皆と違って、私が歩くその先に道はない。ライトニングが生きる意味は、セラだった。意味を失った私をホープは部屋に招き入れてくれた。背伸びをしながら大人になったライトニングじゃない、二十一歳のありのままのエクレールとして彼は接してくれた。私はそれがただ、嬉しかったんだ。
 這うようにして寝室へと向かう。チェストの上には、置きっぱなしになったままの巻貝がある。その滑らかな感触に手を伸ばして、私は縋り付くようにそれを耳に押し当てた。
 潮騒の音がする。寄せては引いていく、波の音。生まれ育った故郷の音だ。懐かしいその音を聞いていると、なんだか泣きたくなる。
 握り締めたふくふくとした柔らかい手のひら。遠くまで行っちゃだめよ、と口にする母の声が蘇る。私とセラは、はーいと、元気よく砂浜を走っていった。藁の匂いがする麦わら帽子を握り締めて、潮の匂いを思う存分吸い込む。幼い頃の私は、母と、セラと共に海辺で遊ぶのが大好きだった。
「……母さん、セラ」
 母さんの墓の前に置いてきた、エクレールという、弱くて、幼い自分。頼ってくれていいんですよ。ホープはそう言って、置いてけぼりにしてしまった私を丸ごと抱きしめてそう囁いてくれた。
 少し前までの私は、十四だった少年のホープしか知らなかった。だけど、二十七に年を重ねたあの子は、私なんかよりもずっと大きく、頼もしく成長していて。その胸に寄りかかるのは、ひどく心地よかった。低く、胸の奥に響くような声で名前を呼ばれるのは、こそばゆかった。あの広い胸の中に顔を寄せて、背を撫でられた時は、泣きたくなるほど嬉しかったんだ。
 あの日、ボーダムとよく似た街で、ホープと共に歩いた時間は、まるで光のようだった。ライトニングという役目を終えた私が、初めて心から笑うことができた一日だった。
「……ばかだ」
 吐息のような言葉は、音のない部屋の中にぽつんと転がり落ちていく。
 方や、混沌の闇に引きずり込まれ、歴史の中でその存在を抹殺された女。方や、時代とともに順調に出世を重ね、今や新生コクーン・ブーニベルゼの最高権力者まで上り詰めた男。そもそも、私のような存在がホープの世話になり続けていたこと自体がおかしかったのだ。
 あの時、あの場所で。皆が別れたように、私も別れるべきだった。ホープの誘いを受けず、ノエルのように旅に出れば良かった。そうすれば、こんな辛い想いなんて知らずにすんだのに。こんな、胸を突き刺されるような鈍い痛みを抱えずにすんだのに。
「私は、馬鹿だ……」
 ああ、どうして今になって気が付いてしまうのだろう。私がホープと過ごした時間は、ほんの僅かだった。そうだというのに、どうやら私は、あいつのことが好きになってしまっていたらしい。
 波の音が聞こえたような気がした。潮騒の音。終わってしまってからはじめて、あの何気ない日々が宝物であったことに気が付くから、私は愚かなのだ。
 エアカーに乗って、空中高速度道路を走ったこと。ボーダムによく似た臨海都市を歩いたこと。海と空の境界線がどこまでも広がっている青い海辺で、巻貝を拾ったこと。
 そのどれもが、大切で、私の中で光り輝いていた。
 唐突に、甲高いコール音が静かな室内に響き渡った。慌てて携帯電話の液晶画面を見下ろせば、そこにはホープの名前がある。取るべきか否か、私は少し悩んだ。ホープのことが好きなんだ、そう自覚してしまうと、どう喋っていいのか分からなかった。思春期の娘でもあるまいに。そう自嘲してから、思春期らしい思春期を経た子供でなかったことを思い出す。私は、ただひたすらにセラ一筋だったのだから。
 ――たっぷり十コールほど悩んで、私は通話ボタンを押すことにした。
『もしもし』
 電話越しに、知らない女の声がした。ディスプレイに表示されていたのは確かにホープの名前だったはずだ。(そもそもこの携帯電話にはごく限られた人間しか登録されていない)しかし、通話相手の声はどう逆立ちにひっくり返ってもープの声とは程遠い。
「どちら様?」
 思わず疑問口調になった私の言葉に、相手が微かに笑った気配があった。そして。
『あなたがエクレールさん、ですね』
 その電話は、私の運命を変える一報となるのを、この時の私はまだ知る由もなかった。

   * * *

 アカデミーの最高顧問となると、研究者としてよりむしろ、政治家としての側面が大きい。とは言え、若くしてアカデミー創設の時代を知る生き字引。おまけに新生コクーン・ブーニベルゼの稼働を成功させたばかり。それらのステータスが過剰なまでの評価に繋がっていたことを、ホープ自身も心得ていた。
 最大の懸念事項として持ち上がっていたブーニベルゼが稼働した今、他所の時代から現れ、最高権力を掻っ攫っていったホープの存在を疎ましく思っている人間は少なくない。とは言え、俳優でもアイドルでもない自分が、こういうゴシップの対象になり得るというのか、というのが率直な意見だった。
(……楽観的過ぎたか)
 驚くべきはそのスピード感だろう。集まってきた報道内容を確認したところ、例の外出時の写真のみで、エクレールの情報はほとんど露出していなかった。ほんの少し前までヴァルハラの最前線で戦っていた彼女の情報までは集めることは叶わなかったのだろう。とは言え、彼女らの戸籍情報を作るために水面下で動いていることが公になることは避けたかった。大義名分ならあるものの、公表して大事になるような下手な策は打ちたくない。
 あの戦いを乗り越えてきた皆。エクレールはもちろん、ノエル君も、スノウも、セラさんも、ドッジ君、サッズさん。彼らを英雄として大々的に祭り上げることは容易だった。しかし、彼らはそれを望まなかった。これから生きていかなければならない時代で、一から積み上げることを選んだのだ。それは時代をすっとばして、権力を握ったホープとは異なる道だった。
 新生コクーン・ブーニベルゼを稼働させ、確実にヴァニラさんやファングさんを救出する。その目的を達成するためには必要なことだった。しかし、今や、その目的は達せられた。そうだというのに僕はまだ最高顧問の地位にぶら下がったままだ。
 多くの求める声があった。難関とされた作戦を無事成功されたその手腕を、是非今後のアカデミー運営に。そう願う声と同時に、いつまでそこに居座り続けるのだと反する声も出始めている。
 人類は最大の困難を前に団結したが、平和が訪れれば早速権力争いだ。今回の情報を垂れ流している出処も、薄々は想像がついている。
「最高顧問、もうアカデミーの受付は回線がパンクしてしまいますよ。あの報道は真実なのかって、それはもうマダムからレディまで」
 モテる男はつらいですよねえ。嫌味を言わずにはいられないのだろう。秘書は眉間のしわに人差し指を押し当てながらそう口にする。
「だから記者会見をするんじゃないか。それで、手筈は」
「進んでますよ。十三時より記者会見。それより、公表内容、本気ですか?」
「もちろん。僕はいつだって本気だよ」
 思わず唇が持ち上がる。長い、本当に長い戦いを経てようやく手にしたのだ。それを今さら離すつもりなんてなかった。

   * * *

 詰めかけた報道陣によって、黒光りするカメラが所狭しと並んでいた。まもなく十三時。彼らは皆、これから登場するであろうホープ・エストハイムを待ち望んでいた。
 アカデミーを導き、人類最大の危機とも呼べる混沌を打ち砕いた、まさに生ける英雄。今まで浮いた話一つ出てこなかった彼に突然の熱愛報道が降って湧いて出たのだ。民衆の反応たるや凄まじいもので、アカデミー側からの記者会見となれば確実に視聴率を稼げる案件だと、マスメディアとしては詰めかけない理由がなかった。
 靴音が響く。まもなく、ホープの姿が壇上に現れた。一斉にまばゆい光がホープを包み込む。慣れた様子で、光の洗礼を潜り抜け、ホープは壇上へと昇っていった。
「まずはお時間を頂き、ありがとうございます。アカデミー最高顧問のホープ・エストハイムです」
 自分に向けられる幾多ものカメラを前に、ホープは焦点を合わせた。すでに民放にまで放送されてしまった内容を、もみ消そうとすれば逆に揚げ足を取られるだけだ。それに、この手の類のものは、時間が経てば経つほど不利に働く。ならば、こちらから先手を打つまでだった。
「本日報道された、私自身の対人関係ですが、まず、このように注目され、私自身も困惑しています。その上で申し上げます」
 一度だけ呼吸を整える。語るべき内容は、すでにこの胸の中にあった。
「報道にあった女性は私の大切な人です。そして同時に、現在は一般人でもあります。どうか、そっと温かく見守っていただけないでしょうか」
 私への質疑応答があれば、お答えします。そのために公の場に出ましたから。ですが、一般人である彼女には、今回の一件はプライバシーを持って接して頂くように、強くお願いします――。
 光の中に佇むホープは、ただ前を見ていた。そのレンズの先に誰を見ているのだろう。
 ホープは言葉を濁したりしたわけではなかった。関係ないのだと切り捨てたりもしなかった。ただ、エクレールの存在を認め、彼女の存在を守ろうとメディアの前に立っていた。
 ビルの巨大なディスプレイに、ホープの端正な顔立ちが映り込む。光の中で佇む、眩いばかりの青年。何もかもを吸い込んでしまいそうなエメラルドグリーンの双眸が、画面越しにこちらを見ていた。
 彼は、希望だ。このアカデミアの――新生コクーン・ブーニベルゼを眩しく照らす光だ。
「ホープ」
 一度だけ、眩しそうに彼女はそれを見上げた。ぎゅっと手のひらの中で巻貝が握りしめられる。泣き出しそうな表情で、彼女は唇を噛み締めた。
 未練がない、と言えば嘘になる。だけど、これ以上迷惑をかけるわけにはいかない。今度こそ未練を断ち切るように、彼女は背を向けて歩き出した。

   * * *

 ホープが自分の家に戻ることができたのは、それから三日経ってのことだった。何度かけても繋がらない電話に嫌な予感を覚えて、無理をおして帰宅したのだ。
 開いた部屋の中は、ホープの切なる願いに反して静かだった。
「エクレール?」
 もしかしたら眠っているのかもしれない。いや、別の部屋にいるのかも。縋り付いた希望は、扉を開くたびに音を立てて砕けていく。やがて、物の少ないモデルルームのようなテーブルの上に、手紙と携帯電話が置かれていることにホープは気が付いた。
「どうして……」
『さよなら。おまえと過ごせて、うれしかった』
 生真面目な彼女らしい筆跡で短く記された別れの言葉。眩暈がして、ホープはよろめきながら壁に寄り掛かった。そのまま壁に背中を付けて、ずるずると座り込む。どうして、本当に大切なものばかりが、いつもこの手をすり抜けていく。
 波打ち際で笑っていた母さん。
 言葉で、背中で、行く筋を照らしてくれた父さん。
 巻貝を耳に当てて、海の音がすると微笑んだエクレール。
 帰り着いた家は、もう誰もいない。がらんどうになってしまった薄暗い部屋は、ひどく冷たく感じた。なにがいけなかったのだろう。どこで間違ってしまったのだろう。
 疑問に答える声は、どこにも存在しなかった。
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