2017.04.20 執筆
2018.03.03 公開

そうだ、旅行に行こう!

   1

 東の国に行きたい。
 色んなところを旅したが、まだ東の国には行ったことがないんだ。どこか遠いものを見るような眼差しで、焦がれるように語った彼女の頬は少しだけ紅潮していた。
 カレッジを休学して、世界を巡る旅に出かけた彼女は、地続きになっている国を渡り歩いてきたと言った。だからこそ、遠く離れた島国までは叶わなかった。独自の文化を築く、東の島国。行けるなら、おまえと一緒に行ってみたいんだ。そう照れくさそうに左手の婚約指輪を撫でながら微笑んだ彼女からの、珍しくて可愛らしいおねだり。それを一体どうして断れようか。
 デスクの上に山と積んだ書類を、毎晩日を跨ぐまで必死に片付けて、ホープ=エストハイムはその年、めでたくクリスマス休暇をもぎ取ったのだった。

   * * *

「すごい人ごみだな」
 空港の中を行き交う人々の波が黒々としている。おまけに、やたらと歩くのが早い。せかせかと歩かなければ気でもすまないのだろうか。そこまで考えてから、ここ数日の自分の働きぶりを思い出して、まったく人のことが言えないことにホープは苦笑した。せっかくの休日だというのに、こんなところでも仕事のことを考えてしまう自分はもはやすっかり仕事の虫なのだろう。思わず頬を掻けば、すぐ近い場所で視線を感じる。案の定、キャリーケースを片手に優雅に立つエクレールが、半眼になってホープを見上げていた。
「今は仕事のことはナシ、だ。どうせ思い出してたのだろう」
「……はい」
 細い指先が、額を押す。それに思わず目を閉じれば、エクレールはくすりと微笑んでガイドブックを取り出した。
「目的地はここから新幹線で二時間半だ。まずは切符を買おう」
 すっかり手馴れたものだ。旅歩きに関しては、彼女がいれば何の心配もないのかもしれない。とは言え、エクレールに任せっぱなしというわけにもいかない。
「じゃあ駅まで移動するんですね。案内板があそこにあります。まずは電車に乗りましょう」
 カラカラとキャリーケースを引きながら、案内板に従って進む。ゆっくりと流れゆくエスカレーターの先から電車が走っているようだ。荷物を引っ掛けないようにしないとな、と思いながら進んだところでホープはふと違和感に気がついた。
「なぜ全員左側に寄ってるんでしょうか?」
「……本当だ」
 エスカレーター乗る人乗る人が、なぜか左側に寄っている。こういう機械は重量が偏ることを想定されてはいないだろうに、なぜここにいる人たちは揃いも揃って左側に立つのだろう。首を傾げるエクレールの前を、ヒールをはいた女性が足早に横切っていった。彼女はそのままエスカレーターに足を乗せると、空いている右側の空間をぐんぐんと下り降りていった。
「下る人のために空けているのか。奇妙な習慣だな」
「そこまで急がなくてもいいでしょうにねえ」
「生き急いでいるようなおまえが言うか?」
 呆れたように見上げてくるエクレールの言葉に、ホープは微笑んで答えてみせた。
「そんなことありませんよ。エクレールさんに会って、これでも随分と人間らしい生活になったんですから」
 なってもらわないと困る。ため息を吐いたエクレールの腰を抱けば、遠くの方から子供の甲高い声が聞こえた。
 何を言っているのかはよく分からなかったけれど、何やら僕たちのことを見て喋っているらしい。とりあえず見せつけるように、エクレールさんの腰をさらに引き寄せると、歓声と同時に隣からは抗議の肘鉄を食らった。

   * * *

 空港から電車を乗り継いで、新幹線の乗車駅に付いた。そこでも溢れ帰らんばかりの人の多さに驚きはしたものの、特に不便さを感じることはなかった。様々な言語で案内板が書かれてあったし、駅員は異国からの旅行者に慣れていたからだ。
 狭い土地を活用するために、高層ビルが立ち並ぶ。いつぞやか映画で見た光景を直で見ているのは、なんだか不思議な心地だった。
「西へ行くんですか?」
 ダイブツ、キンカク、オイナリサン、スシ、アニメ。ぱっと浮かぶだけでもこれだけの単語が連想できる国だ。やはり有名どころは押さえておきたい。
 ほんの昨日まで仕事に忙殺されてしまっていたために、旅行の行き先はほとんどエクレールに任せきりになってしまっていた。訊ねるように彼女に声をかければ、エクレールはリップの乗ったピンク色の唇を持ち上げて、微笑んでみせた。
「いいや」
 ちょうど時間になったのだろう。駅のホームに、つるりとしたフォルムの新幹線が滑り込んでくる。その新幹線の行き先は、まさしく。
「――北だ」
 クリスマス休暇の、ますます寒さが厳しくなるというこの季節。旅が趣味と豪語する彼女の選んだ行き先は、無難な観光地ではなく、雪国だったのである。





   2

「……すごい雪ですね」
「これでもまだ少ない方らしい。もっと西に行くと豪雪地帯だそうだ」
「なんでまたそんなえらいところを選んですか?」
 この時期、温かい南へ行くという選択肢もあったでしょうに。そう言外に含めたホープの言葉に、エクレールは唇を持ち上げてみせた。
「そんなの決まってるだろう」
 ガラスの向こう側に映る景色は、一面の銀世界だ。新幹線が緩やかに駅の中に滑り込んでゆく。ホームの中を歩いている人々は平然としたもののように見えるけれど、真っ白な雪が、いかにこの土地が寒いのかということを物語っていた。
「寒い時期に寒い場所に行くのが乙だろう」
 少し得意げにキャリーカートを押すエクレールの姿に、ホープの眉尻が下がる。旅先だからなのだろうか、いつもよりも高揚したエクレールの姿は珍しい。エクレールさん可愛い。そう口にしようと扉を潜ったところで、ホープの唇は全く違う言葉を発していた。
「寒ッ!」
 まるで肌を刺すようだ。冷気がしんしんと耳の体温を奪っていくのが分かる。首都とは比べ物にならないほど、感じる温度は低かった。寒いというよりもはや痛い。
「やはり寒いな」
 そう口にしながら、エクレールさんはちゃっかり毛糸で編みこまれた帽子を被る。
「いつの間に用意したんですか」
「寒地に行くのだから当然の準備だろう」
「ちなみに僕の分は……」
「ない」
「ですよねー」
 道行く人々は慣れているのか、耳を出しているどこから素手で歩いている人もいる。こんなに寒いのに、あんな薄着で大丈夫なのだろうか。思わず寒さに肩を抱けば、グレーの柔らかい感触が胸元に押し付けられた。
「冗談だよ。ほら、帽子と手袋」
 くすくすと笑いながら、差し出すエクレールはまるで悪戯が成功した子供みたいに楽しそうだ。思わずきゅうっ、とホープの胸が音を立てる。
「あーっ、エクレールさん可愛い可愛いかわ」
「ちょっ、ホープ、くっつくな! っ、おい!」
 感極まって頬ずりしてキスしようとしたホープの腹部に、腰を落としたエクレールのパンチが入れられるのはもはやお約束だった。

   * * *

 新幹線から私鉄に乗り換え、さらに数十分。真っ白な銀世界の中を切るように電車は進んでいく。道中、今までとは勝手の違うボタン式の開閉扉には驚いたものの、慣れてしまえばどういうことはない。電車を降りて、雪がうず高く積み上げられた車道をバスで走ること約十分。化粧漆喰が施された立派な佇まいの宿が、開けた視界の中に姿を現した。
「立派な宿ですね」
 想像以上の存在感のある玄関は、格子状の磨硝子になっていて中の様子が伺える。それなりに賑わっている宿らしく、正面の売店では、若い旅行客が土産物を冷やかしていた。
「立派なのは外観だけじゃないだ」
 ホープの隣で目を細めて宿を見上げていたエクレールは、楽しそうだった。
「どういうことですか?」
「部屋に着けば分かる」
 疑問はあっさりとはぐらかされてしまった。店の従業員が手荷物を運んでいくのを見届けて、ホープは正面にやって来た黒髪の女性を見た。着物に身を包んだ熟練の佇まいを見せるその女性は、自らを女将と名乗り、見慣れぬ風貌のカップルを前に動じることなくにっこりと相好を崩してみせる。
「いらっしゃいませ。遠いところからようこそお越しくださいました」
 案内されるがままに宿の中を進めば、やがて広々とした畳敷きの和室へと案内された。外観からも感じられたものの、この宿は伝統的な美しさを重んじる宿らしい。奥の上座には鶴を墨で描いた掛け軸がかかり、青々とした畳の上には黒塗りのちゃぶ台が置いてある。低い位置には提灯型の柔らかな証明が光を灯してあって、異国情緒溢れんばかりの空間だ。
「タタミ!」
 思わず目を輝かせたホープの隣で、宿の手配をしたエクレールもまた満足気だ。
「それだけではありませんよ」
 くすくすと微笑んで告げたのは、ここまで二人を案内してくれた女将だった。
「このお部屋は、個別の露天風呂がついています。どうぞごゆっくりおくつろぎくださいませ」
「ロテンブロ?」
「ああ、この宿一番の目玉だそうだ」
 一礼して帰っていった女将を見届けてから、聞き慣れぬ単語を復唱したのはホープだった。それに得意げに鼻を鳴らしたのはエクレールだ。ここしばらくずっと働き詰めだっただろう。たまには“オンセン”でゆっくり羽を伸ばすのが、この国流の癒しらしい。

 軽い足取りで、部屋の中を横切ったエクレールが障子扉を開く。中庭ともとれるそのこぢんまりとした空間の中には、岩と天然の湯で満たされた湯気の立つ温泉が広がっていた。
「楽しみだな」
 本当に、これが楽しみで準備していたらしい。にこにこと終始楽しげなエクレールの様子は珍しい。釣られるようにして、ホープの表情も綻んでいくのが分かる。
「ええ、本当に楽しみです」
 でも、寒くないですかね。ほぼ屋外に設置されているその温泉の周囲には薄ら雪が積もっている。いくら温泉が温かいからとは言っても、全裸で飛び出すには少々……いや、かなり寒そうだ。どうせ脱ぐならあれこれしたいしなあ。なんて下心を持ちながら温泉を見つめるホープと打って変わってエクレールは無邪気なものだった。
「酒を持ってオンセンに入ると、より体が温まるらしい。この地方は、コメから作る酒もうまいそうだ」
 雪見酒というらしい。すっかり気持ちはそちらに行っているのか、ホクホク顔のエクレールを前に、ホープもにっこり破顔して言った。
「楽しみですね!」
 両者に多少差異はあるものの、とりあえず楽しみであることには間違いない。
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